第35話 空路は誰のものか
十五の影は、朝日を背負って一列に並んでいた。
空環城の西、距離はおよそ三百歩。翼を広げれば小屋ほどもある灰色の飛行獣が、浮島の気流へ乗って旋回している。嘴は鉤状、胸から尾へ黒い縞。群れの中央だけ、一回り大きな個体が赤い冠羽を立てていた。
下には昨日守った配給所がある。二つの貯水槽、保存食箱、朝の一杯を待つ列。水の余力は一割しかない。
「獲物を探している飛び方じゃない」
外環塔の縁で、ミーナが低く身を伏せた。銀灰色の小翼が風向きに合わせて細かく揺れる。
「三周して、一度も高度を下げてない。こっちの見張りと水路を数えてる」
セラが隣で空を睨む。空牙狼の中でも細身で、青黒い毛の間に白い筋が一本、眉から背へ走っている。彼女は群れへ戻らず、外の動きを空環城へ伝える観測役として協力していた。
「北の雲にも四。中央の群れとは翼の間隔が違う」
「別働隊か?」
「たぶん。でも、確定ではない」
その言い方が信頼できる。俺ならつい「すべて見抜いた」と言いたくなるところだ。
俺は冠羽の個体へ意識を集中した。視線を感じたのか、敵が首を傾ける。
【鑑定結果】
種族:裂空禿鷲(個体ランクA)
Lv:37
HP:336(ランクB)
MP:395(ランクB)
攻撃:118(ランクC)
防御:101(ランクC)
速度:146(ランクC)
技能:風路滑走:ランクD Lv7
技能:落下穿孔:ランクD Lv6
技能:群れ回収:ランクE Lv9
状態:指揮個体、戦場観測中
数値が頭へ流れ込んだ瞬間、背の翼がこわばった。俺より速い。単独の力だけでも、昨日の腐泥鰻とは比べものにならない。その周囲に十四。北雲の四を含めれば十九だ。
「A級だ。指揮個体は風路を使い、落下突進を得意とする。負傷した仲間を回収する技能もある。仕留め損ねた個体を囮にしても通じん」
結果を共有すると、見張りの喉が鳴った。
グラウは動揺を隠すように翼を畳み、報告板へ三本の線を引く。市場、水路、工房。
「目的は撃破ではない。住民、配給、水路を守る。警報は区画ごと。狩猟班は市場上空、空牙狼班は北の四を追跡。工房班は噴射具と消火砂。ポロは水を戦闘で使い切らない」
「余は指揮個体を抑える」
「追いすぎるな」
「分かっておる」
「どこまで?」
「城壁から……百歩」
ミーナが首を振る。
「五十。あなたはまだ旋回が遅い。風路へ乗せられたら戻れない」
「七十だ」
「昨日も値切ってたわね」
「王には交渉力が必要なのだ!」
最後は六十歩で決まった。
配給所では、昨日作った公開残量板の下へ避難先を書き足した。最低保障の水は小瓶へ分け、地下寝床へ運ぶ。工房が倍速で作った保存食は三ヶ所へ分散。ガンツの修理部品で水路弁を手動でも閉じられるようにした。
「水を持って逃げれば狙われるんじゃないか」
工房班の男が小瓶箱を抱えながら尋ねる。昨日、薄翼族の母親を疑った男だ。
「箱へ泥布をかけます」
ポロが答えた。
「匂いと反射を消して、食料箱と見分けにくくします。二人一組で別の道を」
母親も避難誘導の札を持っていた。子どもは治療所へ預け、自分から役目を申し出たという。
「東通路の家族は私が案内します。昨日、登録で全員の寝床を聞きましたから」
失敗を直すために作った台帳が、今日は避難地図になっている。
最初の警鐘が鳴った。
裂空禿鷲の群れが一斉に高度を落とす。十五の翼が風を押し、空環城の外壁へ灰色の波が迫った。
「来るぞ!」
俺は塔から飛び出した。
新しい翼が上昇気流を掴む。身体が軽い。二度羽ばたいただけで見張り塔の上へ出た。だが敵はさらに速い。三体が市場へ急降下し、残りは俺とミーナを取り囲むように左右へ開く。
俺は竜圧を扇状に放った。先頭二体の翼が震え、進路が乱れる。一体目へ爪を振り下ろすが、灰色の身体が風路へ滑り、爪先を紙一枚の差で逃れた。
二体目が下から嘴を突き上げる。胸を反らして避けたつもりが、腹の鱗を削られた。痛みで息が漏れる。
「下を空けるな!」
ミーナの声。
市場へ向かった三体のうち、一体は囮だった。住民の頭上ぎりぎりを飛び、皆を南へ走らせる。その反対側から二体が水瓶箱へ爪を伸ばした。
「噴射!」
ガンツの号令で、工房製の筒から接着液が飛ぶ。最初の射線は敵の速度についていけず、後ろを通過した。禿鷲は嘲るように鳴き、旋回して二度目の突入へ入る。
ポロが筒の角度を下げた。
「敵を狙わないで、箱の上を横切る線へ!」
二射目は禿鷲の正面ではなく、進路を塞ぐ壁になった。一体が避け、もう一体の脚へ粘液が絡む。高度が落ちたところへ空牙狼が跳び、尾羽を噛んだ。
禿鷲は狼を吊り上げようと翼を打つ。俺は指揮個体を追うか、地上を助けるか迷った。
指揮個体がその一瞬を見逃さない。赤い冠羽が翻り、俺の右翼へ体当たりした。
空が回転する。翼膜に激痛。俺は浮力を失い、外壁へ背から叩きつけられた。
「アルド!」
ミーナがこちらへ向きかける。
「地上を見ろ!」
俺は叫び、爪を石へ食い込ませた。俺を助けに来れば、吊られた狼が落ちる。
ミーナは歯を食いしばり、地上へ風を叩きつけた。上昇風ではなく横風。禿鷲の翼が流され、空牙狼ごと低い屋根へ落ちる。工房班が網を広げ、狼を受け止めた。
最初の攻防で、俺の右翼は痺れ、接着液は一筒の半分、網一枚が裂けた。敵は一体が脚を固められただけ。数の差は変わらない。
「風路を読まれている!」
グラウが塔上から叫ぶ。
敵は空環城の上昇気流へ乗り、俺たちの前で羽ばたかず速度を保っている。昨日復旧した風路そのものを使われていた。
「なら風路を止める!」
俺が答えると、ガンツが首を振った。
「全部止めれば工房の火が市場へ逆流する!」
敵の第二波が来る。今度は五体が市場へ向かい、指揮個体を含む六体が上空に残る。数が合わない。北雲の四はどこだ。
セラの遠吠えが東から響いた。
「水路へ四! 市場は囮!」
やはり二方面だった。
グラウが命じる。
「アルド、ミーナ、市場の五を抑えろ。俺は水路へ行く。ガンツ、風路は一系統だけ逆流。ポロ、戦闘用水の上限は?」
「六桶です。それ以上は夜の最低保障が減ります!」
「六で止めろ。三班異議の札を俺が持つ」
右腕候補が黒い翼を畳み、塔から水路へ滑空した。俺は追いたかった。指揮は余の役目だという思いが疼く。
だが市場の五体が急降下してくる。
「こちらは余に任せろ!」
俺は翼を広げ、最初の敵ではなく、五体が交差する中心へ竜圧を叩き込んだ。二体が左右へ割れる。ミーナは左を風刃で追い、俺は右へ体当たりする。
敵は俺の突進を予測し、直前で翼を閉じた。灰色の身体が落下し、俺だけが前へ出る。背後から別の一体が尾へ噛みついた。
痛みに振り向けば、正面の二体を見失う。
「振り向かない!」
ミーナが尾の敵へ爪を立てた。俺は彼女を信じ、正面を追う。二体は配給所ではなく、避難中の薄翼族の母親へ向かっていた。彼女は小瓶箱を抱え、足を止めている。
「箱を捨てろ!」
「これは治療所の水です!」
母親は捨てない。敵の爪が迫る。
俺は飛び込んだ。最初の一体へ肩を当て、進路をずらす。二体目の嘴が左前脚へ刺さった。鱗が割れ、熱い血が散る。
母親が箱を地面へ置き、両手で棒を振った。敵の嘴へは届かないが、狙いが彼女へ移る。
「伏せよ!」
俺は低く息を吸い、竜圧を一点へ絞った。禿鷲の頭が下がる。母親の棒が冠のない個体の喉へ当たり、ほんの一瞬、動きが止まった。
工房の接着液が横から飛び、片翼を濡らす。昨日争っていた男が筒を抱えている。
「二射目、今度は外さない!」
禿鷲は地面へ落ちた。それでも爪で石を掴み、母親へ這う。俺が背を押さえると、嘴を反らして俺の喉を狙った。男の盾が間へ入り、母親が棒を翼の付け根へ差し込む。俺は同じ付け根へ爪を二度叩き込み、ようやく敵を無力化した。
「水は?」
俺が息を切らして尋ねる。
母親は箱を開いた。一本が割れたが、残りは無事だ。
「十一。治療所へ運べます」
「行け。護衛を一人つける」
男が盾を構えたまま彼女の横へ並ぶ。昨日は一杯を争った二人が、今日は同じ箱を守って走った。
水路側から轟音が響く。
四体の禿鷲が上昇水路の蓋を引き剥がし、内部へ石を落としていた。グラウが風弾で一体を押すが、敵は風路へ乗って戻り、負傷した仲間を爪で引き上げる。
ポロたちは水を噴射した。第一射は高すぎ、敵に避けられて空へ散る。貴重な一桶分が雨になった。
「低く! 羽じゃなく風路の入口へ!」
グラウの指示で、第二射が石壁を濡らす。ガンツが風路一系統を逆流させると、冷たい風が水滴を敵の顔へ叩きつけた。禿鷲の視界が塞がる。
空牙狼班が濡れた床から跳び、脚へ噛みつく。一体は狼を振りほどき、嘴で水管を突いた。管に亀裂が走り、水が噴き出す。
「弁を閉じます!」
ポロが駆ける。禿鷲の爪が背へ迫った。
俺は市場から六十歩の線を越えた。決めた距離だ。しかし、このままではポロがやられる。
指揮個体が俺の迷いを見ている。水路へ向かえば、背後から追われる。
「ミーナ、指揮個体を三息止められるか!」
「二息!」
「十分だ!」
彼女は傷ついた尾を振り、指揮個体へ正面から飛んだ。風刃を一撃。敵は翼で弾く。二撃目は同じ場所ではなく、上昇気流の下へ。風路が乱れ、指揮個体の高度が一瞬落ちた。
俺は水路へ急降下した。ポロの背後へ着地し、爪を翼で受ける。衝撃で前脚の傷が開いたが、倒れない。
「弁を!」
ポロが手動輪へ飛びつく。俺は禿鷲の嘴を前脚で払い、反撃の爪を胸で受けた。一撃目で二歩下がる。二撃目は首を狙う。尾で水管を巻き、身体を引いて避けた。
弁が閉じ、水漏れが細くなる。
「今です!」
ポロが残った水を敵の足元へ噴く。俺は竜圧を下から放ち、濡れた敵を浮かせた。グラウの風弾が横から翼を折り畳ませ、空牙狼二頭が左右の脚を引く。敵は一度持ち直したが、ガンツの接着射線が胸へ当たり、石壁へ縫いつけた。
残る三体は負傷個体を助けようと旋回した。指揮個体の甲高い声が響くと、一体が拘束された仲間へ爪を伸ばす。
俺は追い払うより、回収の瞬間を狙った。爪が仲間を掴み、速度が落ちる。ミーナの風刃、グラウの風弾、俺の体当たりを同じ側の翼へ重ねる。敵は仲間を離し、二体とも高度を失った。
だが指揮個体は倒れない。赤い冠羽を伏せ、全群へ短く鳴いた。散っていた禿鷲が一斉に市場上空へ戻る。
「火だ!」
工房の煙突から炎が上がった。
逆流させた風路へ、敵が燃える巣材を落としたのだ。火は風に乗り、乾燥棚と市場の屋根へ広がり始める。
指揮個体は北へ飛ぶ。仲間二体を左右で支え、速度は落ちている。今なら追いつける。
俺は翼を開いた。
「追うな!」
グラウとミーナの声が重なった。
六十歩の線はもう越えている。あと一撃で指揮個体へ傷を残せるかもしれない。だが背後では、母親たちが小瓶を運び、ポロが残り水を数え、ガンツが燃える風路へ走っている。
敵は俺が追うと思っている。だから火を置いた。
「追撃中止! 水は最低保障分へ触れるな。消火砂と泥布を使え! 風路を区画遮断!」
喉が裂けるほど叫び、俺は反転した。
最初の消火砂は風に煽られ、炎を広げた。ガンツが風路を完全停止しようとするが、熱が乾燥棚へ溜まる。
「市場側だけ切る!」
昨日作った三色の停止板を使い、工房班が赤管と白管を別々に閉じる。ミーナは風を火へ当てず、煙だけを上へ抜く。ポロは飲用にできない清掃水と、腐泥鰻の槽を洗った残り水を運ばせた。
俺は燃えた梁を爪で落とし、延焼前の屋根と切り離す。一度目は梁が途中で折れ、火の粉が保存食箱へ飛んだ。薄翼族の母親と工房班の男が泥布を被せる。二度目はガンツと力を合わせ、梁を外壁側へ倒した。
半刻後、炎は消えた。
負傷者は七名。重傷なし。風路一系統が焼損。備蓄は八日分から五日分へ減った。戦闘用水は六桶の上限を守ったため、今夜の一杯は残った。
敵は五体が飛行不能、三体が負傷。それでも指揮個体を含む主力は北へ逃げた。勝ったとは言い切れない。守るべきものを守り、追い払った。それが今日の決着だ。
俺は翼の傷を洗われながら、皆の前で戦況板を見た。
「最初の竜圧で敵が止まると思い、二体目に腹を取られた。市場と水路の二方面をセラの報告まで見抜けなかった。追撃にも迷った」
「それでも戻った」
ミーナが薬を塗る手を止めずに言う。
「前なら、あの赤いのを追ってた」
「余も成長しているからな」
「距離の約束は破ったけど」
「ポロを守るためだ」
「だから、破った理由と結果を記録するの」
俺は口を尖らせたが、戦況板へ書き足した。追撃線六十歩を越過。理由、水路弁閉鎖支援。結果、指揮個体への追撃機会を失う代わりに水路維持。
グラウは別の反省を挙げた。
「北の四を見つけた時点で水路へ一班置くべきだった。市場が攻撃されるまで、敵が全戦力を見せると思い込んだ」
ポロは最初の水射を外したこと、ガンツは風路逆流へ火を入れられたこと、ミーナは吊られた狼の救助で自分の背を空けたことを記録した。
誰も一人だけを責めない。誰も失敗を消さない。
裂空禿鷲の硬い羽軸は噴射具の照準棒へ、粘着した羽は防火布の試験へ回す。飛行不能の個体は殺さず、城外の岩棚へ運んだ。指揮個体が負傷者を回収するなら、こちらが捕虜を餌にしないことも見ているはずだ。
「空路は、強い者が好きに飛ぶ場所ではない」
セラが戦場跡を見ながら言った。
「水と食料を運ぶ者、逃げる者、狩りをする者、交渉へ来る者。全員が使う」
俺は焦げた外環と、まだ並び直している配給列を見た。
「ならば我らが守る。余の空ではなく、皆が戻れる空としてな」
言った直後、雲の上で何かが開いた。
黒い布ではない。空そのものを染めるほど巨大な竜旗だった。風が止まり、裂空禿鷲の羽音も、遠くの鳥声も消える。
胸の奥へ、知らない龍の声が直接落ちてきた。
――逃亡王家の血を確認。
俺の翼が、意志に反して震えた。




