第34話 一杯の水の値段
水桶が倒れた音は、剣を抜く音より大きく聞こえた。
空環城の配給区は、外環水路から三本の管が集まる半円形の広場だ。中央に貯水槽が二つ、左右に食料と薬の窓口がある。今朝は百を越える住民が二列に並び、列の先は通路を曲がって試験移住区まで伸びていた。
倒れた桶から、澄んだ水が石の隙間へ消えていく。
「拾え! 一滴も無駄にするな!」
俺が叫ぶと、ポロが悲鳴を上げた。
「床の水は戻しちゃ駄目です! 油と灰が混ざっています!」
慌てて口を閉じる。すでに工房班の若者が布へ吸わせかけていた。ポロは彼の手から布を取り、水ではなく床掃除用の桶へ入れた。
騒ぎの中心には、筋骨の太い工房班の男と、薄い翼を持つ小柄な母親がいた。男の足元には水壺が二つ。母親の前には空の椀が一つ。その後ろで、幼い二人が乾いた唇を舐めている。
「俺たちは昨日、槽の破裂を止めた!」
男が胸を叩いた。
「工房が動かなきゃ薬も橋も作れない。二杯受け取る権利がある!」
母親の翼が震えた。
「子どもの名が札にないから一杯も渡せないって言われたんです。三日前に移ってきて、登録所へ毎日並んでるのに」
「順番を守れ。こっちだって遊んでいたわけじゃない」
「子どもに三日待てと言うんですか!」
男が壺を抱え直し、母親がそれを掴む。押し合いになり、二つ目の壺まで傾いた。
俺は二人の間へ尾を差し入れた。
「そこまでだ。水は余が裁定する」
ざわめきが止まる。こういう時こそ王の出番である。
「働き、共同体へ貢献した者を優先する。工房班へ二杯――」
子どもの一人が咳をした。乾いた、細い音だった。
俺の言葉が途中で止まる。
「では、この子たちは何をすれば飲めるの?」
ミーナが列の横から問いかけた。狩猟帰りらしく、爪には土、背には鳥肉の袋を載せている。
「子どもにもできる仕事を――」
「熱を出していても?」
彼女が母親の後ろへ回り、幼い一人の額へ鼻を寄せた。小翼の付け根が赤い。脱水だけでなく、昨日から発熱している。
「功績に応じた追加はあっていい。でも、生きるための一杯まで功績順にしたら、働けない者から死ぬわ」
反論しようとして、卵だった頃を思い出した。自力では水場へ行けず、ミーナとポロに運ばれなければ何もできなかった俺が、働けない者へ水を渡さないと言えるのか。
「……先ほどの裁定は撤回する」
工房班の男が眉を上げた。
「俺たちの働きは同じ扱いですか」
「同じとは言っていない。生きる分と、働いた分を同じ桶で量るのをやめる」
俺はポロを呼んだ。彼はすでに配給板と残量札を抱えている。
「今の水量で、全員へ最低どれだけ渡せる」
「飲用と調理で一人一杯。治療対象へ半杯追加。工房、畑、洗浄は別枠です。でも……」
ポロの丸い耳が沈んだ。
「水路は八割までしか戻っていません。貯水の余りは一割です。登録されていない人が二十人以上なら、明日の朝に足りなくなります」
列から不安の声が上がる。
グラウが報告板を壁へ立てた。
「まず人数を確定する。最低保障は登録の有無で止めない。仮札を渡し、今日中に重複を調べる。工房の追加分は工程ごと、狩猟の携行分は出発人数と時間ごとに申請」
工房班の男はまだ納得していない。
「申請している間に炉が冷えたら?」
ガンツが彼の肩へ手を置いた。
「工程開始前に必要量を出せ。緊急分は工房の封印桶に置く。勝手に飲用槽から持っていくな」
「班長がそう言うなら……」
男は壺の一つを配給台へ戻した。
俺は母親へ自分の水皿を押した。
「まず子どもへ飲ませよ」
母親が目を見開く。
「でも、龍王様の分が」
「余は少しくらい飲まなくても平気だ」
「今朝、起きてすぐ二杯飲んでたでしょ」
ミーナの指摘で威厳が崩れた。
「翼竜は朝の水分を多く必要とするのだ!」
子どもが初めて小さく笑った。母親は涙を拭い、一口ずつ水を飲ませる。
その間に、ポロと配給係が仮札を配り始めた。名前、家族数、寝床、前の居住地、帰還希望。試験移住は定住を強いるものではない。水を受け取るために臣下の誓いも求めない。
「なぜ登録が三日も止まっていた?」
俺は係へ尋ねた。
係の翼鼠は、長い尾を落ち着かなげに巻いた。
「評議区画の承認印が足りません。昨日は工房事故、一昨日は王座区で、印をもらえる方が不在でした」
また俺だ。すべてを俺へ集めた結果、水一杯にまで俺の爪印が必要になっていた。
「仮登録は配給係と住民代表の二印で成立させる。余の承認は後だ。重複があれば翌日直せ」
「偽名で二度受け取る者が出たら?」
「個体札へ受取刻印を一つ。罰より先に、二度必要だった理由を調べる。だが隠して売ったなら追加枠を止める」
完璧ではない。それでも、王を待って子どもが渇くよりましだ。
昼までに列は半分まで進んだ。最低保障の一杯、治療の半杯、作業別の追加桶を別の窓口へ分けると、押し合いも減った。
一方、ミーナの狩猟班は鳥肉を解体し、血抜き用の水を要求した。ポロは新しい基準で二桶を渡し、代わりに使い終えた水を畑の堆肥槽へ回す。工房では昨日完成した濾過枠を貯水槽へ取り付け、ガンツが水漏れのないことを確かめた。
狩りの獲物が食料になり、骨が濾過材を支え、使った水が畑へ戻る。一杯を守るには、一杯だけを見ていてはいけない。
俺がようやく朝食へ戻ろうとした時、貯水槽の見張りが叫んだ。
「水が濁っている!」
一号槽の底から、茶色い雲が広がっていた。さっきまで澄んでいた水が、泥の匂いを帯びている。列にいた者が椀を落とし、後ろへ下がった。
「誰かが泥を入れた!」
工房班の男が母親を指さした。
「自分たちがもらえないから、全員の水を駄目にしたんだ!」
母親の顔から血の気が引く。
「違います! 私はずっとここに!」
「静まれ!」
俺は槽の縁へ上がった。泥は中央からではなく、北側の流入口から伸びている。単に投げ込んだなら、水面から沈むはずだ。
ポロが鼻先を近づける。
「腐った泥です。飲まないで! 小さい生き物の匂いもします」
水面が割れた。
黒い口が飛び出し、ポロの鼻先へ噛みつく。俺は前脚で彼を引き、牙を爪で受けた。ぬめった長い身体が水槽の中でのたうつ。泥に棲む腐泥鰻だ。太さは俺の脚ほど、目は退化し、口の周りに六本の触髭がある。
「皆を下げろ! 飲用槽を閉鎖!」
ミーナが列の誘導へ走る。だが槽の底で二つ、三つと黒い影が動いた。一匹ではない。
俺は牙を押し返し、鰻の頭を槽外へ引きずり出した。竜圧を浴びせると身体が硬直する。仕留めようと爪を振り上げた瞬間、尾が水中でうねり、俺の後脚を絡め取った。
「うおっ!」
水槽へ引かれる。翼を開けば縁へぶつかり、体勢が崩れた。
ミーナの風刃が鰻の尾へ当たる。ぬめりに滑って浅い傷しかつかない。それでも締めつけが緩み、俺は縁を噛んで身体を止めた。
「切れない!」
「乾かせ!」
ガンツが工房から灰袋を投げた。ミーナが風で灰を鰻の身体へまとわせる。ぬめりが吸われ、黒い皮が白く曇った。
俺は尾を踏みつけ、今度こそ頭を石床へ叩きつけた。一度では止まらない。鰻は口を反らし、触髭から茶色い液を飛ばす。俺は翼を盾に受け、ミーナが横から二度目の風刃を同じ傷へ重ねた。皮が裂ける。
ガンツの槌が露出した骨へ落ち、ようやく一匹目が動かなくなった。
水槽内の二匹が流入口へ逃げる。
「追うな!」
グラウが俺を止めた。
「水路へ潜れば見失う。入口を閉じて、出口側で待つ」
俺は飛び込みかけた前脚を戻した。怒りに任せて濁った水へ入れば、何匹いるかも分からない。
ポロが予備槽との弁を閉じる。ガンツは流入口へ網枠を置き、ミーナは風を管の中へ送り込んだ。鰻は逆風を嫌い、槽へ戻ってくる。一匹目が網へ突っ込み、網ごと持ち上げた。
工房班の男が盾を構え、網を押し返す。母親も配給台の棒を掴んだ。
「下がれ、危険だ!」
男が怒鳴る。
「子どもの水です!」
母親は引かなかった。二人が左右から網枠を押さえる間に、俺は鰻の横へ回った。正面の口ではなく、鰓の後ろを噛む。激しく振られ、顎が外れそうになる。
ミーナが傷口へ風を押し込み、ガンツの槌が二撃。二匹目が沈む。
最後の一匹は槽の底へ潜り、泥を巻き上げて位置を隠した。水面の揺れだけでは読めない。俺は鑑定を向ける前に、槽の縁へ耳を寄せた。触髭が石を擦る、かすかな音。右奥だ。
「右の排水口を開けろ。一瞬だけだ!」
ポロが弁を引く。流れに押され、鰻の頭が泥から出る。最初の突進を俺は避け、空振りさせた。鰻はすぐ反転し、母親の方へ口を開く。
グラウの風弾が顎を上へ逸らす。俺が胴へ体当たりし、工房班の男が盾で口を塞ぐ。ミーナの三度目の風刃、ガンツの槌。攻撃を同じ一点へ積み、最後の一匹を倒した。
誰も大怪我はない。俺の後脚に締め跡、工房班の男の肩に打撲、母親の手に擦り傷。貯水槽一基は泥と死骸で使用不能。予備槽は無事だが、水の余力は一割から、ほとんどゼロになった。
歓声は起きなかった。勝っても、水は濁ったままだ。
「原因を調べる」
俺は泥を一掬いしようとした。ポロが前脚を叩く。
「直接触らないでください!」
「分かっておる」
本当は忘れていた。
【鑑定結果】
種族:腐泥鰻(個体ランクE)
Lv:9
HP:88(ランクD)
MP:36(ランクE)
攻撃:27(ランクE)
防御:24(ランクF)
速度:31(ランクE)
技能:泥潜伏:ランクF Lv3
技能:腐泥噴射:ランクF Lv2
状態:外部の泥溜まりから水管へ侵入
「誰かが槽へ投げたのではない。外の泥溜まりから来た」
俺が結果を共有すると、母親を疑った者たちが目を逸らした。
ガンツが流入口の網を外す。新しい濾過枠の脇に、指二本分の隙間があった。枠を急いで取り付けたため、古い管の歪みに合わせきれていない。
しかし、それだけでは泥が一度に流れ込んだ理由にならない。
水路を遡ると、外壁の点検口が開いていた。足元には泥のついた小さな靴跡。追った先は、未登録世帯が使う寝床区画だった。
そこにいた少年は、俺を見るなり背を壁へ押しつけた。母親と同じ薄翼族だが、別の家族である。手には空の水瓶。
「泥を入れたのはお前か」
俺が問うと、少年は首を振った。だが靴底には同じ黒泥がある。
グラウが声を低くした。
「何をしようとした」
長い沈黙の後、少年が答える。
「夜の分を……管から取ろうとした。家族の札がなくて。点検口を開けたら、水が逆に泥を吸った。怖くなって閉めずに逃げた」
故意の汚染ではない。登録漏れと、夜の一杯を得る道がなかったことが、泥と鰻を呼び込んだ。
「処罰しないのですか」
工房班の男が尋ねた。彼は疑った母親へまだ謝れていない。
「点検口を勝手に開けた責任は取らせる。清掃と修理を手伝い、何が起きたか皆の前で話す。だが水を欲しがったことは罪にしない」
俺は少年へ向き直った。
「次に足りなければ、配給所へ言え。仮札がなくても最低分は渡す。隠れて管を開ければ、今日のように全員が飲めなくなる」
少年は震えながら頷いた。
工房班の男が母親の前へ行き、深く頭を下げた。
「疑って、悪かった」
母親はすぐには答えなかった。子どもを抱き寄せてから言う。
「次は、先に聞いてください」
「分かった」
許したのではない。それでも、次の約束はできた。
夕方まで、配給は予備槽だけで続けた。飲用は最低保障を優先し、工房は支援設備を止め、狩猟班は携行水を半分へ減らして近場の見回りだけにする。ポロは洗浄した一号槽へ濾過砂を三層入れ、ガンツは歪みに合わせた枠を作り直した。腐泥鰻の皮は水に強いため、点検口の逆流弁へ使う。
戦利品が設備へ戻るまで見届けた後、俺たちは公開残量板を配給所の正面へ立てた。
最低保障、治療、作業追加、緊急予備。今日使った量、明日の見込み、補充責任者。誰でも読める高さに置き、数字を隠さない。
「一杯の値段は、功績では決められんのだな」
俺は空になった自分の水皿を見た。
ポロが首を傾げる。
「じゃあ、何で決まるんですか?」
「皆が明日も一杯を受け取れるようにする責任だ。余も、使った分を説明する」
ミーナが隣へ座った。
「少しは王様らしくなった」
「少しではない。大いにだ」
「じゃあ明日の朝は一杯で我慢できる?」
「翼竜には二杯必要だと言ったであろう!」
笑いながらも、彼女は自分の水皿を半分だけこちらへ寄せた。俺は一口だけ飲み、残りを押し返す。
夜の残量板には、余力一割と書かれた。その下へ新しい警戒報告が貼られる。
水場上空に、大型飛行獣十五。旋回を続け、配給路を見下ろしている。
明日守るべき一杯の位置を、敵も見つけていた。




