第33話 右腕はひざまずかない
朝の評議区画には、俺の身体より高い報告札の山ができていた。
水路の流量、工房の魔石残量、狩場の獲物数、試験移住者の寝床、昨日の配給数、外環の見張り交代表。どれも必要だ。王たるもの、国のすべてを知って当然である。
「次だ」
俺は王座代わりの石台で胸を張った。
空牙狼の伝令が青い札を置く。
「西の狩場、角兎の巣穴が三つ減少。二日間の立入停止を要請します」
「許可する。代わりに東へ――」
「東は昨日休ませると決めたでしょ」
ミーナが横から遮った。俺は昨日の札を探したが、工房の事故報告に埋もれて見つからない。
「承知しておる。では南だ」
「南は空橋が未修理です」
ガンツが低い声で言う。
「なら北」
「北は人間支援班との共同採取区です。今日は向こうの番です」
ポロまで困った顔で首を振った。
「……角兎以外を食べればよい!」
威厳ある結論を出したつもりだった。ところが狩猟班の後ろから、工房班が赤札を差し出す。
「修理用の腱が不足しています。角兎二羽分を工房へ」
「食べるなと言った直後に要求するな!」
「食べずに使います」
「そういう意味ではない!」
評議区画に笑いが起きた。俺だけは笑えない。
今朝の登録板をグラウが集計すると、俺たち五人、空牙狼二十四頭、人間支援班八人、丸耳土鼠七家族四十八名、風膜蝙蝠十一頭、苔殻小亀五頭。合計百一名だった。家族単位でしか数えていなかった土鼠を個体札へ直し、人間支援班も滞在中の配給対象として含めた数字だ。
空環城の外環に住む者は、試験移住者を含めて百を越えた。空牙狼班、人間支援班、小規模な魔物三集団。水と食料と寝床を一週間分へ戻した結果、報告も一週間前の倍以上になっている。
俺は札を読むたびに命じ、次の札で前の命令を直した。午前だけで、水桶の運搬先を三度、見張りの交代時刻を二度変えた。
「アルド」
グラウが壁際から呼んだ。
彼は会議へ口を挟まず、報告札を床へ並べ替えていた。水は青、食料は黄、警戒は赤、工房は白。同じ場所と時刻に関わる札を紐で結んでいる。
「何だ。余の鮮やかな裁定に感心したか」
「水桶二十を西の狩場へ送れと言ったな」
「うむ」
「十分前には、その水桶を工房の冷却へ送った」
「予備があるだろう」
ポロが小さく手を上げた。
「予備は昨日の事故で四桶使いました。残り六桶です」
「では十と十に分ける」
「合計は二十だ」
グラウの声には容赦がない。
俺は札の山を睨んだ。数字が鱗の模様のように泳いで見える。進化後の目は遠くの飛行獣を捉えられるのに、細かな記録を続けて読むと焦点がずれる。
「少し休んだら?」
ミーナが水皿を前へ押した。
「王が報告から逃げられるか」
「倒れたら全部止まる方が困るのよ」
「止まらん。余は龍王家――」
甲高い警鐘が三度鳴った。
赤い光が天井を走る。外環北門、敵襲。続いて二度、東の水路。さらに工房から一度。区画にいた者たちの顔色が変わり、代表たちが同時に叫んだ。
「北門へ防衛班を!」
「水路が先です!」
「工房の一度は異常発見だ、火災かもしれん!」
俺は石台から跳び下りた。
「全軍、北門へ出よ! 敵を迎え撃つ!」
グラウが翼で出口を塞いだ。
「全軍は出さない」
一瞬、意味が分からなかった。
「どけ。王命だ」
「だから止める。北門の見張りから姿、数、距離の報告がない。水路の鐘と工房の鐘も時刻が近すぎる」
「三ヶ所同時攻撃かもしれん!」
「なら全軍を一ヶ所へ送る命令は間違いだ」
周囲が静まり返った。皆が俺とグラウを見ている。胸の奥へ熱いものが込み上げた。王命を公衆の前で否定された。今すぐどかせと怒鳴れば、グラウ以外は従うかもしれない。
その時、昨日の青い輪が脳裏に浮かんだ。全員を同じ方向へ頭を下げさせる像だ。
「……代案を言え」
声が震えないよう、奥歯を噛んだ。
グラウは床の札を三つ取った。
「北門へミーナと空牙狼二頭。接敵せず観測。水路へポロと護衛二名。工房はガンツが現場班を動かす。俺は伝令を束ねる。アルドはここで追加報告を受けろ」
「余が留守番だと?」
「最初の情報が偽なら、お前の飛行速度を最後まで残せる」
腹は立つが、理にはかなっている。
「五十数える間だ。それで報告がなければ余が出る」
「百だ」
「七十!」
「分かった」
妙なところで値切ることになった。
各班が走り出す。俺は出口に爪を立て、七十を数えた。二十を過ぎた頃には、自分だけ取り残されたようで尾が床を叩き始める。四十。外から翼音が聞こえ、飛び出しかけた。
「まだだ」
グラウが短く止める。
六十三で、空牙狼の伝令が滑り込んだ。
「北門、敵影なし! 警戒糸に空殻が絡まり、振動板が作動!」
続いて水路から報告。落石で水量が一時下がっただけ。工房の一鐘は、北門の警鐘を聞いた現場責任者が念のため支援設備を止めた合図だった。
三つは同時攻撃ではない。一つの誤警報が、別の場所の安全動作を呼んだのだ。
「見たか。余は最初から疑っていた」
俺が言うと、残っていた代表全員が無言になった。
「北門へ全軍と言った」
グラウが事実だけを置く。
「敵がいなかったから結果として迅速な――」
「アルド」
ミーナが戻ってきた。息を弾ませ、前脚に灰色の糸を絡めている。
「見て」
糸の先には、薄い石殻がついていた。北門の上昇気流に棲む風喰い虫の抜け殻だ。
「これ一枚で全員を動かしていたら、水路も工房も空になった。次に本当に襲われた時、誰が守るの?」
言い訳が喉まで出た。飲み込むと、胸が痛んだ。
「余の命令は早すぎた」
皆の前で認める。昨日よりも難しかった。
「もし全軍が北へ出ていたら、何が起きた」
俺は自分から尋ねた。
ポロは胸の前で指を組んだ。
「水路の落石を取る人がいません。流量が半分のままなら、夕方の配給が十二桶減ります」
ガンツは指を一本立てる。
「工房の支援炉を無人で止めれば、冷却が偏る。昨日直した接着剤が固まり、浮力柱の修理が一日遅れる」
ミーナは風喰い虫の抜け殻を床へ落とした。
「北に誰もいなかったから終わり、じゃない。全員が北へ集まったのを斥候に見られたら、次は空いた場所を本当に狙われる」
一つの命令で、十二桶の水、一日の修理、三つの拠点の位置を失うところだった。敵を見てもいないのにだ。
「王が最も早く動くことと、国が最も早く動くことは違うのだな」
口にすると、自分の中で何かが剥がれた。悔しい。俺が全部知り、全部決めれば皆を守れると思っていた。それは守る側でいたいという願いであり、同時に、皆へ任せて失敗するのが怖いだけでもあった。
グラウは慰めなかった。
「だから、止める者がいる」
「止められる王は格好が悪い」
「止まれない王よりましだ」
俺は長く息を吐き、尾を床から離した。
「グラウの停止は正しかった。だが、毎回こいつが偶然近くにいるとは限らん」
俺は床の札を見た。一人で全部読むのをやめても、王でなくなるわけではない。むしろ、間違った命令を押し通す方が王座の残響に近い。
「戦力、在庫、交渉を横断して見る指揮役を置く。報告を整理し、余が不在でも各班へ目的を渡す者だ」
工房班の古参、硬い甲皮を持つ甲殻族の男が腕を組んだ。
「誰を置くのです。水路の事情を知らぬ者なら、工房を優先するだけでは?」
「グラウだ」
ざわめきが広がった。
グラウ自身が、最も嫌そうな顔をした。
「聞いていない」
「今言った。余の右腕となれ」
俺は石台へ上り直し、翼を大きく広げた。今度は壁へ当てずに済んだ。
「龍王の右腕たる栄誉を授ける。さあ、ひざまずけ」
沈黙。
ミーナが額へ前脚を当てた。ポロは「ああ……」と悲しそうな声を出し、ガンツは露骨に横を向いた。
グラウは一歩も動かなかった。
「断る」
「何故だ!」
「ひざまずく役なら他を探せ。俺に必要なのは、お前を止める権限だ」
「右腕とは王を支えるものだぞ」
「支える。崖へ走るなら、首を掴んででも止める」
「もう少し優雅な支え方はないのか!」
代表たちの緊張が少し緩んだ。だが古参の甲殻族は笑わない。
「我々は卵の頃からアルド様とガンツ殿の設備を守ってきた。後から来た黒翼が、全班の上に立つのですか」
グラウの羽がわずかに逆立つ。追放され、飢え、折れた翼を引きずっていた頃を知る者もいる。能力ではなく出自への反発だ。
俺が叱ろうとすると、グラウが先に口を開いた。
「上には立たない。各班が決めたことを一枚へまとめる。俺の判断が間違えば止めろ」
「誰が止められる?」
「三班以上の異議。緊急時は現場責任者一名。俺には辞任権も要る。王と意見が合わないからではなく、能力が足りない時に席へしがみつかないためだ」
俺は耳を疑った。
「就く前から辞める話をするな」
「辞められない役目は服従と同じだ」
王座区で見た輪を、こいつも覚えている。
ミーナが尾を立てた。
「私も条件を足す。狩場を知らずに狩猟班を動かさない。まず担当へ目的と損失を聞く」
ポロはおずおずと続ける。
「水と食料の最低保障は、戦闘命令でもゼロにしないでください」
「工房は停止権を手放さん」
ガンツが槌の柄を床へ置いた。
俺の右腕を決める話なのに、俺以外が次々と条件を出す。少し面白くない。だが、誰もグラウへ無条件で従おうとしていないことに、奇妙な安堵もあった。
「よかろう。指揮代行、命令復唱、在庫台帳、三班異議による再審、現場停止、辞任を認める。ただし最終的な責任は余が負う」
「責任を負うとは?」
古参の男が問い返した。
「間違いを記録し、損失を隠さず、次の配分で直す。処罰を他人へ押しつけない」
昨日までなら「余が守る」で済ませていた。その言葉だけでは、壊れた水桶も減った食料も戻らない。
甲殻族の男は、まだ納得しきらない顔で頷いた。
「試験を。口約束では受け入れられません」
「望むところだ」
俺は答え、午後の警報訓練を命じた。
訓練では、北門へ実際に風喰い虫の群れが押し寄せた。警報糸を交換するため、古い巣を揺らしてしまったのだ。半透明の虫が二十余り、渦を巻いて門へ突っ込む。羽ばたくたびに周囲の風を吸い、見張り台の者が息を奪われて膝をついた。
俺は飛び出そうとしたが、グラウが目的を短く叫ぶ。
「撃破より警報糸と見張りの救助! 狩猟班は群れを東へ誘導。工房班は網。水路班は霧を作れ!」
古参の甲殻族が反発した。
「工房の網は未完成だ!」
「完成品を寄越せとは言っていない。虫の進路を三歩狭めろ!」
男は一瞬目を見開き、部下と網枠を運び出した。
ミーナが風喰い虫の前へ低く飛び、爪で一体を叩く。群れは散らず、彼女の翼風へ群がった。二体、三体が背へ取りつく。ミーナは門から離れる方向へ急降下し、空牙狼の霧射線へ誘った。
ポロたちが水を細く噴き上げる。最初の霧は風を吸われて消えた。
「粒が細かすぎます!」
ポロが叫ぶ。
「水量を増やすな、弁を二つ閉じて粒を重くしろ!」
ガンツの指示で、水滴が雨へ変わる。濡れた虫の羽が重くなり、高度が落ちた。
俺はそこへ竜圧をぶつけた。群れの先頭は止まったが、後列が左右へ分かれ、見張り台を挟もうとする。
「アルド、右だけ押せ!」
グラウの声に従い、力を半分へ絞る。左へ逃げた虫は工房班の網枠へぶつかり、進路を狭められた。ミーナが反転し、網の外から風を一撃。虫たちは東の空洞へ押し流された。
だが一体だけが網を潜り、倒れた見張りへ牙を向ける。
古参の男が盾を差し込み、噛みつきを受けた。俺は翼を畳んで突進し、虫を地面へ押さえる。最初の爪撃は硬い腹に弾かれた。虫が尾針を俺の首へ曲げる。
男の盾が尾針を横から叩く。その隙に俺は腹ではなく濡れた羽の付け根を噛み、引き剥がした。ミーナの風刃が同じ場所へ入り、ようやく虫は動かなくなった。
群れを殲滅せず追い払い、見張り二名を救助。使用した水は二桶、網枠二枚が破損、重傷者なし。グラウが結果を読み上げると、古参の男は傷ついた盾を置いた。
「工房を捨て駒にはしなかった。その点は認める」
「次は警報糸を替える前に巣の位置を共有しろ」
グラウも容赦なく返した。男はむっとしたが、やがて笑った。
戦後、俺たちは風喰い虫の羽を乾燥風の逆流検知片へ、殻を軽い警報板へ回すことにした。狩猟班は追い払った群れの移動先を地図へ記し、東の採取路を半日閉じる。工房の訓練が狩場を変え、獲物の素材が次の警報を直す。
俺は首筋の浅い傷へ薬を塗られながら、グラウへ言った。
「余一人なら、群れを全部倒そうとして水を使い切ったかもしれん」
「知っている」
「少しは否定しろ」
「右腕は事実を曲げない」
「受けるのか?」
グラウは皆の前ではなく、破れた網を直す工房班を見た。水路ではポロが残量を数え、ミーナは見張りの呼吸を確かめている。
「条件が守られる限り、右腕候補を受ける。候補だ。正式ではない」
「ならば今度こそ、ひざまず――」
ミーナの爪が俺の尾を踏んだ。
「痛い!」
「学びなさいよ」
笑い声の中で、グラウはひざまずかなかった。代わりに、今日の報告を一枚の板へまとめて俺へ差し出した。
最上段には、赤い文字がある。
王命停止、一件。結果、実害なし。
その下には、訓練中の損失も残されていた。水二桶、網枠二枚、盾一枚。得たものは風喰い虫の殻七枚と羽十二枚、そして北門の警報糸を張り替える新しい手順。
俺は数字を指で追った。勝った、守った、だけでは次の者が困る。何を使い、何が壊れ、どの判断で損失が減ったかまで残して初めて、今日の戦いが明日の防衛になる。
腹立たしい記録だ。だが俺は消さず、その下へ爪印を押した。
評議区画を出ようとした時、配給所から怒鳴り声が届いた。
「工房の者だけ二杯だと? こっちは子どもの一杯も足りないんだぞ!」
増産したはずの保存食箱の横で、水桶を挟んだ二つの列がぶつかっていた。




