第31話 王座からの声
転生六十一日目。空環城の朝は、まだ三つの音が欠けていた。
水路を叩く水車の音。外環を巡る風の低い唸り。そして工房の槌音。どれも動き始めてはいるが、晶殻百足に壊された区画では、音が途中でぷつりと途切れる。
俺が翼竜へ進化して一日。翼は畳んでいるだけでむず痒く、少し力を入れると右の翼膜だけが勝手に張った。威厳ある龍王家の歩みを披露しようとして壁に肩から突っ込んだ件は、もちろん皆には忘れるよう命じてある。
「三回目だな」
前を歩くグラウが振り返りもせず言った。
「何の話だ」
「壁にぶつかった回数だ」
「あれは新しい身体で通路幅を測っているのだ」
工具箱を背負ったガンツが、岩のような顔をわずかに伏せた。笑いを隠している。余は見逃してやった。王とは寛大なものだからな。
俺たちが向かう旧王座区は、空環城の中心より一段高い円塔の内部にあった。外環から石橋を二つ渡り、崩れた回廊を抜けた先だ。昨夜から、休眠していた劣化端末が俺だけに呼びかけている。
最初の石橋では、復旧班が切れた欄干へ晶殻板を渡していた。下を覗けば、薄い雲のさらに下に岩山が霞んでいる。進化した翼があるとはいえ、真下へ落ちて無事に戻れる自信はなかった。昨日の滑空試験では、止まりたい場所を二十歩も通り過ぎたのだ。
橋の中央には、外周から戻ったミーナが待っていた。銀灰色の毛並みは朝露で濡れ、背の小翼に赤い木の実を詰めた袋を挟んでいる。後ろには空牙狼二頭が、角兎三羽と薬草束を載せた橇を引いていた。
「狩りはどうだ」
「東の浮島は二日休ませる。昨日、甲虫を追って幼獣まで踏み込みかけた群れがいたから」
ミーナは俺ではなくグラウへ木札を渡した。狩場、獲物数、負傷、休ませる日数が爪跡で刻まれている。
俺は鼻を鳴らした。
「報告は王たる余へ先にするものではないか」
「あなたは王座へ行くんでしょ。帰るまで在庫を止めるの?」
「余は一目で覚えられるぞ」
「昨日、水路の数字と寝床の数を逆に読んだのは誰?」
痛いところを突かれた。翼竜の身体になってから視界が広がったせいか、細い木札の文字へ焦点を合わせにくいのだ。
グラウが札を読み、角兎一羽を工房、二羽を共同厨房、薬草を治療棚へ回すよう空牙狼へ伝えた。俺が口を挟む前に、ミーナは赤い実の袋を鼻先へ押しつける。
「これはポロの試験畑へ。食べたら三日、口が痺れる」
「余が拾い食いをするとでも?」
「袋を見た瞬間、口を開けたじゃない」
俺は威厳を守るため、開きかけた口を咳へ変えた。
ミーナの黄色い目が、旧王座区の塔へ移る。冗談の色が消えた。
「声が王族を名乗ったからって、あなたの味方とは限らない。戻れって言われたら戻って」
「余が古い声に惑わされるものか」
「強がる時、尾が右へ曲がるの知ってる?」
反射的に尾を見ると、確かに右へ曲がっていた。ミーナは小さく息を吐き、俺の前脚へ額を一瞬だけ触れた。
「生きて帰って。王座より、そっちが先」
胸が妙に詰まった。返事を考えている間に、彼女は狩猟班を連れて橋を戻っていく。
「当然だ。余を誰だと思っている!」
背中へ叫ぶと、尾だけが左右に振られた。
狩りで得た食料は今日の鍋へ、薬草はポロの畑へ、狩場を休ませた穴は保存食で埋める。俺が王座を調べている間にも、皆の一日は進む。その事実は頼もしく、同時に少し寂しかった。
――正統血統を確認。王座へ。
低く、古い声だった。聞くたびに胸の奥が熱くなる。仲間から半信半疑の目を向けられ続けてきた俺の血統を、古代都市が認めたのだ。
扉の前には、ミーナが残した赤い爪跡が三本ついていた。危険ならここから戻れ、という印だ。彼女は外周警戒、ポロは水路の復旧で不在である。
「入る前に確認する」
グラウが黒い翼を半分開き、俺の鼻先を遮った。骨折していた頃より羽並みは揃い、風を抱える動きにも迷いがない。
「端末が王族を認めても、安全だとは限らない。全接続はしない。返事は短く。異常があればガンツが線を切る」
「余に命令する気か?」
「嫌なら戻る」
返事が速すぎる。こいつは右腕候補として見込んでいるのに、ひざまずくどころか俺を置いて帰ろうとする。
「……よかろう。王は忠言を聞く」
「まだ忠誠は誓っていない」
「細かい男だな!」
ガンツが扉脇の石蓋を外した。内部には青白い導線が九本、枯れた蔓のように絡んでいる。彼は三本に石楔を差し込み、いつでも叩き折れるよう槌を構えた。
扉を押すと、冷えた空気が鱗の隙間を撫でた。
上から石粉が落ちた。
グラウが俺の首を翼で押し下げる。直後、頭上を青白い針が三本走り、扉の外壁へ突き刺さった。浮彫りの竜の眼から、蜘蛛に似た石製の守衛機が二体這い出してくる。胴は盾ほど、脚は六本。腹の筒へ次の光が集まっていた。
「王族を迎える態度ではないぞ!」
俺は翼を広げ、正面から竜圧をぶつけた。一体目の脚が床へ沈む。だが二体目は天井へ張りつき、俺の死角から針を撃った。
「右上!」
グラウの声に首を伏せる。針が翼膜を掠め、熱い線を残した。ガンツが工具箱を盾にして前へ出るが、一体目が脚を縮め、盾ごと跳ね飛ばそうとする。
俺は突進し、守衛機の胴へ角を当てた。重い。押し切れず、逆に前脚が滑る。翼竜になった力を過信した。
「脚の付け根だ!」
ガンツは受け止めるのをやめ、斜めへ盾を倒した。守衛機の突進が逸れ、六本脚のうち二本が崩れた欄干へ乗る。
グラウの風弾が腹の筒を叩く。一撃目は石殻に弾かれた。守衛機は風の方向を読み、胴を回して二射目をグラウへ向ける。
「同じ場所を狙え!」
俺は床を蹴、今度は押さずに片翼だけを打ち下ろした。風圧で守衛機の胴が傾く。露出した腹へグラウの二撃目が入り、筒口がひしゃげた。溜まっていた光が内部で弾け、二本の脚が飛ぶ。
天井の一体が俺へ針を連射した。左右へ避けようとして、新しい翼が柱へ当たる。動きが止まり、一本が肩の鱗を砕いた。
恐怖で喉が狭くなる。空を得たばかりなのに、まだ自分の幅すら分かっていない。
「アルド、床の影を見ろ!」
グラウの声で、敵本体ではなく足元を見る。発射前、腹の光が床へ映る。次の瞬間を読んで前へ踏み込み、針の下を潜った。柱へ前脚をかけ、翼を畳んだまま壁を蹴る。肩から守衛機へぶつかると、天井の爪が二本外れた。
ガンツが落下地点へ石楔を立てる。守衛機は背から楔へ落ち、胴に亀裂が走った。俺は亀裂へ爪を差し、二度、三度とこじ開ける。グラウが風を内部へ押し込み、青い核が砕けた。
壊れた二体から光が消えるまで、誰も武器を下ろさなかった。
「肩」
グラウに言われ、ようやく血が垂れているのに気づいた。深くはない。ガンツの工具箱には新しい穴が三つ開いている。
「敵の初撃を見ず、竜圧で止まると思った」
俺は砕けた守衛機を見下ろした。
「次は一体を止めた後も、二体目の射線を数える。翼を開く場所も選ぶ」
「王座へ着く前から反省できるなら、少しは進化したな」
グラウの言い方は気に入らない。だが肩の傷が、反論を鈍らせた。
ガンツは守衛機の核片と針を拾い、袋へ分けた。核片は工房の調整器、針は罠の部品に使えるという。王座への道を守っていた敵まで、明日の設備へ変わる。この国では、戦いは倒して終わりではない。
王座区は直径三十歩ほどの円形だった。壁には翼を広げた竜の浮彫り。正面奥には、黒い石を削った巨大な椅子がある。だが座面は俺の胴より高く、階段は半分崩れていた。
「なるほど。余のための王座だ」
俺は胸を張って階段を上った。三段目が砕け、前脚が穴にはまった。
「王座が小さく見えるほど成長したのだ。手を貸せ」
「足が抜けないだけだろう」
グラウとガンツに左右から引かれて、ようやく中央の円盤へ立つ。石床が脈打ち、天井まで青い線が走った。
『正統血統、適合。未成熟。王権接続を開始します』
「聞いたか!」
喜びが喉を突き抜け、翼が勢いよく開いた。グラウの顔に翼端が当たりそうになり、彼は無言で身を引いた。
『外環設備の復旧率、六十二。住民統率効率、二十七。強制服従系統を解放すれば、統率効率は九十八へ上昇します』
胸の熱が、すっと冷えた。
壁面に光の像が並ぶ。翼猫、小獣、岩角トカゲ、空牙狼、人間。首の周囲へ青い輪が閉じると、全員が同じ方向へ頭を下げた。
「これは……命令を届ける機能か?」
『拒否、遅延、誤解を除去します。王命への完全同期です』
「便利そうに言うな」
グラウの声が硬くなった。尾羽が床を擦り、細い音を立てる。
俺は像から目を離せなかった。水路へ人手を、と命じても、全員がすぐ動く。狩猟班と工房班が揉めることもない。百足との戦いで、俺の声が届かず橋が落ちかけた瞬間を思い出す。あの時これがあれば――。
『接続を承認しますか』
「待て」
グラウが一歩出た。
『従属個体による王命妨害を検知』
床から光の帯が跳ね上がり、グラウの脚へ巻きついた。彼は風を爆ぜさせて一本を切ったが、二本目が翼を縛る。
「やめろ!」
俺が叫ぶと帯は止まった。止まっただけで、消えない。
「余の仲間を従属個体と呼ぶな。拘束を解け」
『王権確立後、自動的に最適化されます』
先代龍王の声は穏やかだった。穏やかだからこそ、背筋が冷えた。
俺は円盤から降りようとした。だが四肢が床に吸いつき、剥がれない。魔力が足裏から引かれ、青い線へ流れていく。
「ガンツ、切れ!」
俺より先にグラウが叫んだ。
ガンツの槌が石楔を叩く。一つ目の導線が砕け、王座区の左半分が暗くなった。端末は止まらない。二つ目を叩くと壁が開き、内部から六本の細い腕が伸びてガンツを掴もうとした。
「物理遮断への防衛反応だ!」
ガンツは工具箱を盾にし、一本を受けた。箱がひしゃげ、彼の身体が扉まで押し戻される。
俺は自分の足元ではなく、声の出所へ意識を向けた。鑑定は生き物だけの力ではない。晶殻百足の殻と浮力柱を別々に見たように、声と設備を分けて見ればいい。
【鑑定結果】
名称:先代龍王人格残響
状態:記録欠損、命令目的が固定化
接続先:劣化認証端末
機能:血統照合、王権承認誘導、服従系統の優先提案
制限:物理設備を直接維持できない
視界をずらし、青い導線そのものへ鑑定を重ねる。
【鑑定結果】
名称:空環城外環制御機構
状態:三系統のみ復旧可能
接続先:水路、風路、工房
機能:流量調整、圧力調整、工程安定
制限:生物命令系統を切断しても単独稼働可能
「声と機構は別物だ!」
俺は結果を二人へ叫んだ。
「人格記録は余を全権接続へ誘っているだけだ。水路、風路、工房は切り離せる。ガンツ、左から四本目と七本目を残せ! グラウ、余の足元ではなく、王座背面の声石を壊せ!」
「最初からそう言え!」
グラウは拘束帯を翼に巻き、逆に引いた。帯の基部が露出する。風を一息に放ち、黒い身体が王座の背へ跳ぶ。嘴が白い声石を正確に打ち抜いた。
『王は、すべてを――』
声が割れた。
その瞬間、床の吸着が弱まる。俺は爪を一本ずつ剥がし、残った魔力を足元へ押し返した。青い光は水路、風路、工房を示す三本だけになり、生物の像は消えた。
ガンツが最後の不要線を槌で潰す。伸びていた腕が力を失い、床へ落ちた。
静寂の中で、俺の荒い息だけが響いた。
俺は王座の縁へ腰を下ろし、呼吸が整うのを待った。背後では壊れた声石から、途切れた囁きが漏れている。
『孤独は……誤りを生む。全個体を……一つの意思へ……』
その言葉だけなら、優しく聞こえた。百足戦で命令が届かなかった時、橋の向こうにいた仲間が死ぬかもしれない恐怖を俺は知った。全員が同じものを見て、同じ瞬間に動けるなら、もうあんな思いをしなくて済む。
だが、ミーナは狩場を休ませると自分で決めた。ポロは限られた水を畑へ回す。ガンツは俺が壊せと言う前に楔を用意し、グラウは俺が進もうとしても戻れと言う。
同じ意思にしてしまえば、そのどれも消える。
「怖かったのか」
グラウが尋ねた。
「誰がだ」
「お前だ。接続を断つ直前、足が震えていた」
「魔力を吸われた反動だ」
そう答えた後で、俺は爪を握った。床に残った浅い傷が、震えを隠しきれていない。
「……少しだけだ。皆が余の声で余でなくなるのが、怖かった」
ガンツは手を止めず、壊れた導線へ色の違う紐を結んだ。赤は接続禁止、白は設備限定、黒は物理停止箇所。
「なら、その怖さも記録しろ。次に同じ声を聞く者が、便利さだけで触らずに済む」
王の失態を残すのは不本意だ。だが、次に触れるのがポロだったら。あの臆病な小獣が一人でこの声に囲まれたら。考えただけで胸が冷えた。
「記録する。言葉は余が選ぶ」
「美化するなよ」
「王の文章には格調が必要なのだ」
グラウは肩をすくめたが、否定はしなかった。
「全員、傷を見せろ」
グラウの脚には赤い擦過傷。ガンツの左肩は工具箱越しに打たれ、鱗が一枚割れていた。俺は魔力を半分以上吸われ、翼の先が震えている。
「余の判断が遅れた」
言葉にすると、喉が焼けるようだった。王族の証明が嬉しかった。便利な力に惹かれた。グラウが止めなければ、俺は皆の首に輪をかけていたかもしれない。
「遅れたが、止めた」
ガンツが割れた鱗へ薬布を当てながら言った。
グラウはすぐには頷かなかった。
「次から接続者と監視者を分ける。接続者が止めろと言っても、監視者が異常と判断したら切る。王命でもだ」
「余の命でも?」
「特にお前の命令だ」
腹が立つ。だが、反論はできなかった。
「よかろう。ただし記録には『龍王自ら安全規則を定めた』と書け」
「『龍王が危うく全員を服従させかけたため』まで書く」
「前半だけでよい!」
王座区を出ると、遠くで止まっていた水車が一つ、ゆっくり回り始めた。続いて風路が低く鳴り、工房の煙突から白い蒸気が上がる。
三つの設備は動いた。誰一人、ひざまずいてはいない。
俺たちは王座区の入口へ新しい警告板を打ちつけた。接続は三名以上で行う。生物権限には触れない。監視者は接続者より先に退避を命じられる。異常時は王命を待たず物理線を切る。ガンツが刻み、グラウが読み上げ、俺が最後に爪印を押した。
帰りの橋では、外周狩猟班の橇とすれ違った。空になった橇には工房から修理済みの水桶が積まれ、狩場拠点へ運ばれていく。角兎の肉は厨房で煮え、骨は濾過枠へ、皮は橋の命綱へ回されたと伝令が報告した。
俺たちが持ち帰った守衛機の針をガンツが見せると、伝令は工房で弁の芯に使えると言った。今日の探索と狩りと復旧が、別々ではなく輪になっている。
「余の国らしくなってきたな」
「まだ国じゃない」
グラウが訂正する。
「先に言わせておけ。追いつかせるのが王の仕事だ」
今度はガンツがそう言った。胸が熱くなり、俺は翼を勢いよく開きかけた。橋の幅を思い出し、途中で止める。
それを見た二人が、ほんの少し笑った。
それでいい、と胸の奥で思った。口にすると負けた気がするので、まだ言わない。
帰路の途中、工房方向から鐘が二度鳴った。昼の合図には早い。ガンツが足を止め、耳孔を震わせる。
「工程時計だ。倍の速さで鳴っている」
外環工房の煙が、朝の二倍の勢いで空へ昇っていた。




