第29話 晶殻百足の浮力柱
晶殻百足が身を起こすと、浮力柱の半分が剥がれた。
柱だと思っていた青白い壁の内側に、長大な胴が巻きついていたのだ。頭は荷台ほどあり、そこから尾まで四十を超える節が続く。一節ごとに透明な甲殻が重なり、内側を流れる紫の光が透けて見えた。左右の脚は槍の穂先に似て、石へ突き立つたび浮力柱へ新しい亀裂が走る。
黒牙狼たちは悲鳴を上げ、散り散りに逃げた。一頭が尾の近くで脚を挟まれ、宙へ持ち上げられる。
百足は狼を食おうとしなかった。身体を振って外環の橋へ投げつける。狼は欄干へ激突し、動かなくなった。敵の目的は捕食ではない。自分の縄張りから動くものを排除し、浮力柱を内側から食い広げることだ。
柱の根元から低い振動が伝わる。空環城全体が指一本分、傾いた。
「全員、柱から離れろ!」
俺は叫びながらも、鑑定を向けた。
【鑑定結果】
種族:晶殻百足(個体ランクA)
技能:晶殻防御:ランクB Lv3
技能:腐食酸霧:ランクC Lv6
技能:浮力摂取:ランクB Lv1
技能:節脚再接続:ランクC Lv8
状態:長期休眠から覚醒、飢餓、第一脱皮前
【鑑定終了】
個体A。
俺は個体C。空橋甲虫の女王よりさらに二段上だ。晶殻防御は俺の牙も爪も通さない可能性が高い。それでも柱を食われれば、空環城が落ちる。
「狼を回収する。柱は守るぞ!」
ミーナが俺の前へ回った。
「鑑定結果を聞いたでしょう。いま倒すとは言わないで」
「倒さねば都市が落ちる」
「倒し方がないまま近づけば、私たちが先に落ちる」
百足の頭がこちらを向いた。口は縦に開き、内側に細い歯が何列も並んでいる。紫の光が喉へ集まった。
「散れ!」
酸の霧が噴き出した。透明で見えにくい。ミーナが風を横へ送るが、霧は重く、完全には流れない。俺の前脚へ触れた部分が熱を持ち、鱗の縁から煙が上がる。
グラウが隊列加速を放ち、全員を後ろへ押した。ポロとガンツは拠点から駆けつけたばかりで、ガンツは橋脚補修用の殻板を盾にする。人間の斥候は負傷した狼を引きずり、セラの協力班が左右から支える。
百足が突進した。
四十対の脚が順に床を打つ。長い身体なのに、頭だけなら俺の滑空より速い。俺は横へ跳び、首の付け根へ爪を振り下ろした。
金属を叩く音がした。爪が弾かれ、手首まで痺れる。傷一つない。
ミーナが目を狙う。だが透明な瞬膜が閉じ、爪を滑らせた。グラウの風は巨体を押せず、酸霧を散らすだけで消える。
ガンツが空橋甲虫の顎工具を脚節へ打ち込んだ。刃は甲殻の継ぎ目へ半分入る。効いたと思った瞬間、百足は身体を横へ振った。ガンツが工具ごと投げられ、橋板を三枚割って転がる。
「ガンツ!」
俺が向きを変えた隙に、百足の尾が空橋へ巻きついた。節脚が欄干と梁をつかみ、反対方向へ身体をひねる。
石が悲鳴を上げた。
「橋を切る気だ!」ポロが叫ぶ。
俺は尾へ噛みついた。牙が表面を滑る。もう一度、継ぎ目を狙う。薄い傷はついたが、百足は痛がる様子もない。尾を振られ、俺の身体が欄干へぶつかった。
セラの狼班が三方向から脚へ噛みつく。一頭が持ち上げられ、二頭目へ叩きつけられた。狼の翼膜が裂ける。
「退け!」
俺はようやく叫んだ。「橋を捨てる! 負傷者を風坑へ!」
「柱は?」ガンツが血の混じる息で問う。
「今日守って全員死ねば、明日落ちる。戻って倒す方法を作る!」
百足が尾を引いた。空橋の中央が根元から裂け、十歩分の橋板が雲へ落ちる。退路が切られる。
グラウが残った風を一気に放ち、落ちる橋板を一瞬だけ浮かせた。
「走れ!」
ポロと人間斥候が先に渡り、狼が負傷者を運ぶ。ミーナがガンツの帯をくわえて引く。俺は最後尾で百足の酸霧を受けた。ガンツの殻板を立てるが、表面がみるみる溶ける。
百足の頭が板を突き破った。縦の顎が俺の肩を挟む。防御値では耐えきれない。鱗が割れ、血が流れる。
俺は顎を押し返さず、身体を下へ沈めた。敵の力が前へ抜ける。板の残骸を顎の間へ差し込み、頭を一呼吸だけ止める。
「アルド!」
ミーナの叫び。橋板が沈み始める。
俺は顎の下を蹴り、翼を開いた。グラウの最後の風へ乗る。裂けた橋を越え、風坑側へ腹から転がった。
直後、空橋の半分が落ちた。
百足は追わない。浮力柱へ戻り、透明な顎を石へ食い込ませる。紫の光を吸うたび、都市の傾きが増した。
初戦は敗北だった。
こちらの攻撃はほとんど通らず、空橋を失い、ガンツの肩と狼二頭の翼が傷ついた。俺も肩から血を流している。敵の脚を一本も折れなかった。
風坑の保守棚で、俺は床を睨んだ。
「次は勝つ」と言うだけなら簡単だ。何を変えるのか決めなければ、同じ負傷を増やすだけになる。
「効いたものを挙げる」とガンツが痛む肩を押さえた。「甲虫顎の工具は継ぎ目へ入った。深さが足りん」
「酸霧は冷たい風で重くなる」とミーナが言う。「横へ流すより、床へ落とせるかもしれない」
「百足の身体が橋へ巻いた時、一つの脚へ重みが集まった」とグラウが続ける。「全部を押せなくても、脚一本なら風で向きを変えられる」
ポロは浮力柱から滴る水を嗅いだ。
「紫の水、熱い。冷たい水を入れたら殻の内側が縮むかも。でも柱へ全部流すと、浮く力も弱くなる」
俺は皆の言葉を石板へ刻ませた。勝てなかった事実を隠さない。攻撃が通らない、酸霧、橋を切る、柱の浮力を食う。次の戦いまで、六日あるかどうか。柱の亀裂は一日ごとに広がっている。
最初の一日は、落下を止めることに使った。
ガンツが残る三本の支柱へ荷重を分ける代替支持を設計する。空橋甲虫の殻板だけでは長さが足りず、人間支援班が持ってきた鉄鎖と滑車を使った。昨日救った斥候が報告を届け、レナたちが塩、包帯、工具、人手を運んできたのだ。
「討伐の命令は受けていない」とレナは言った。「都市を守ればこちらの帰路も残る。その条件で支援する」
空牙狼も巣を移し、幼体と負傷者を卵殻城側へ送った。セラは避難順を決め、老狼は健常な六頭を戦闘班へ残す。敵対していた黒牙狼のうち二頭も、仲間を百足に傷つけられ、遠巻きにこちらを見ていた。協定へは入らないが、百足の巣穴の位置を吠え声で伝えて去った。
二日目、ガンツは工具を作った。
甲虫顎を二枚重ね、晶殻の継ぎ目と同じ角度まで刃を細くする。最初の試験では石へ刺した瞬間に柄が折れた。二本目は赤尾魔獣の腱を巻いたが、ねじると刃が外れた。三本目、柄を真っ直ぐ押すのではなく、脚節へ噛みつく鋏形に変えた。俺が全力で引いても外れない。
「一本の脚へ二人で使う」とガンツが言う。「切るのではない。継ぎ目を開き、冷却水を入れる」
三日目、ポロとドーラが冷却薬を作った。
上昇水路の冷たい支脈へ、水路蟹の白膜と苦苔を浸す。最初の液は冷えすぎて革袋を割った。二回目は薄すぎて石へかけても変化がない。三回目、塩を少量加えると、甲虫殻の試験片に細いひびが入った。
薬は十二袋。一本の脚へ一袋使えば、十二本までしか試せない。百足の脚は八十本を超える。全てを折る余裕はない。
四日目、ミーナとグラウが敵の動きを観測した。
百足は三刻ごとに柱の周りを一周し、熱くなると腹を外気へ晒す。酸霧を吐いた直後は、喉の紫光が戻るまで十五呼吸かかる。グラウは風袋で酸霧を冷やす角度を試し、床へ落とせることを確認した。ただし一回で風蓄積の半分を使う。
五日目、退路を三本作った。
切れた空橋に仮の吊り道、下の保守棚へ滑降綱、風坑へ戻る水圧籠。前衛が倒れても、工房班が修理を続けても、どこか一つは残る配置だ。人間支援班は矢では殻を抜けないため、綱と滑車で脚を引く役を選んだ。
狩猟班はその間も食料を集めた。ミーナと狼班が浮き根兎、ポロが菌床、ガンツが保存炉。戦闘準備へ全員を回さず、備蓄二日分を辛うじて二日分のまま保つ。四日分へ増やせなかったが、尽きもしなかった。
六日目、俺たちは役割を声に出して確認した。
第一拠点は水路。ポロとドーラが冷却薬と負傷者を担当する。第二拠点は風路。グラウ、ミーナ、空牙狼が酸霧と誘導を担当する。第三拠点は工房。ガンツ、人間支援班が工具と代替支持を保つ。俺は三拠点の間を動き、王域認識で脚の損傷と退路を共有する。
目標は百足を浮力柱から引き離し、片側十二本の脚を壊し、腹を露出させること。柱が二度大きく傾いたら、討伐を捨てて全員撤退する。
「今度こそ倒す」と俺は言った。
「倒せない時の止め方も決めた」とミーナが返す。
それが前回との一番大きな違いだった。
再戦は、ポロの水圧から始まった。
冷水が浮力柱の下部へ流れ込み、百足の腹を濡らす。敵は熱を奪われ、身体を外へ伸ばした。グラウが風を送り、吊り道側へ紫の匂いを運ぶ。百足は獲物と誤認し、頭をこちらへ向けた。
第一撃、酸霧。
グラウが風袋二つを開く。冷たい横風が霧を床へ落とした。完全ではない。外側の狼一頭が飛沫を浴びる。ミーナがすぐ水路側へ押し、ドーラが中和液をかけた。
第二撃、頭突き。
俺が正面で受けるふりをし、最後に右へ滑空する。百足の頭が工房班の立てた殻壁へ刺さった。ガンツと人間二人が、最前の脚へ鋏工具を掛ける。
「引け!」
継ぎ目が開く。ポロが冷却袋を投げ、ミーナが爪で割る。白い液が入り、透明な脚が内側から曇った。
俺が尾で打つ。一度目は耐えた。二度目でひび。三度目、脚が折れた。
百足が絶叫し、身体を橋下へ落とす。前回と同じ潜行だ。だが今回は下にも保守棚と見張りがある。
「中央梁へ回った! 五節目、右の三本に重み!」
俺の声を受け、人間支援班が滑車を引く。傷んだ脚が横へ開き、百足の身体が梁へ巻きつけない。空牙狼二頭が別の脚を噛み、グラウの風が足場へ戻す。
二本目、三本目。工具一本が折れ、狼一頭が爪で肩を裂かれた。前衛を交代する。俺が下がる間、レナが殻盾で頭を受け、ミーナが目を狙う。
百足は戦い方を変えた。尾から酸液を橋脚へ流し、代替支持の腱を溶かす。工房班が戦闘を離れ、修理へ戻る。ガンツの槌が鳴り、一本切れるたび別の鎖へ荷重を移す。
四本目を折った時、百足の甲殻が震えた。
透明な殻の下に新しい紫色の殻が見える。第一脱皮だ。古い殻が一斉に外れ、俺たちが掛けた工具ごと弾き飛ばされた。
「攻撃が無駄になった!」
誰かが叫ぶ。
「違う!」俺は新しい身体を見た。「脱いだ直後は柔らかい! 準備させたのだ!」
だが敵も弱くなっただけではない。軽くなった身体で柱を駆け上がり、上空から落下してきた。
巨大な頭が吊り道を砕く。衝撃でミーナが投げ出され、左脚を欄干へ打った。俺が尾を伸ばしてつかむ。次の瞬間、百足の顎が右翼へ食い込んだ。
翼膜が裂ける音がした。
痛みで頭が真っ白になる。百足は俺を持ち上げ、柱へ叩きつけようとする。
「放せ!」
グラウが残った風を一点へ放つ。巨体は動かない。だが顎の間に入った風で、俺の翼が指一本分だけ外れた。俺は自分から前へ踏み込み、裂け目を広げず顎の根元へ噛みつく。ミーナが痛む脚で跳び、瞬膜を爪で押さえた。
人間支援班の綱が頭へ掛かる。狼班が三方向へ引く。俺の翼が抜けた。
グラウは床へ膝をついた。風力を使い切った。ミーナも左脚を引きずる。俺の右翼から血が落ちる。
「撤退する?」とポロが叫ぶ。
柱は一度大きく傾いた。停止条件まで、あと一度。
百足の新しい殻は柔らかいが、時間が経てば固まる。ここで退けば、次は同じ準備が通じない。
「続ける! ただし前衛を俺一人にするな! 三拠点、同時に動け!」
水路から残りの冷却薬を一斉に流す。風を失ったグラウの代わりに、ミーナと狼たちが小さな風を重ねる。工房班は最後の鋏工具を二本、百足の右側へ掛けた。
俺は王域認識を限界まで広げた。
ポロの水。ミーナたちの風。ガンツの鎖。人間の滑車。狼の牙。ばらばらの点が、百足の右側へ一本の線として集まる。
「一番、三番、五番の脚! 順ではない、同時だ!」
冷却袋が割れる。鋏が食い込む。狼が引く。俺は中央の脚へ体当たりした。
三本が同時に折れた。
百足の右側が沈む。残る脚で支えようとするが、ミーナが低い風で接地点を滑らせる。巨体が横倒しになり、柔らかい腹節が露出した。
そこへ酸液が集まる。最後の反撃だ。喉ではなく、全身の節から紫の霧が噴き出す。
「水路班、全開!」
ポロが弁を開く。冷水が床を走り、霧を押し流す。同時に浮力柱の光が弱まり、都市が二度目の軋みを上げた。
停止条件だ。
「十呼吸で決める! 無理なら退く!」
ガンツが最後の殻板を腹へ突き立て、柔らかい節を開く。レナの槍、ユフィの矢、狼の牙が同じ傷へ集まる。俺は裂けた右翼を畳み、三歩走った。
一呼吸。百足の尾がレナを払う。
二呼吸。ミーナが尾へ飛びつき、負傷脚で踏ん張る。
三呼吸。工具が一本折れる。
四呼吸。ガンツが素手で殻板を押し込む。
五呼吸。百足が起き上がりかける。
六呼吸。グラウが空になった翼を一度だけ振り、残り風を俺の背へ送る。
俺は滑空した。
七呼吸。開いた腹節へ前脚が届く。
八呼吸。爪が柔らかな内殻を裂く。
九呼吸。紫の光が目の前で脈打つ。
十呼吸。
俺は光の核へ噛みつき、全身で引き抜いた。
百足の身体が弓なりになる。四十の節が一つずつ床へ落ち、最後に頭が動きを止めた。
誰も勝鬨を上げなかった。冷水の音と、全員の荒い呼吸だけが残る。
俺は紫の核を吐き出し、その場へ伏せた。右翼が焼けるように痛む。ミーナの左脚は腫れ、グラウは立てない。都市は傾いたままだ。
「負傷者確認。柱を先に戻す」と俺は息の間に言った。「喜ぶのは、そのあとだ」
晶殻は浮力柱の補強へ使う。体液はガンツが試すと、石と殻を強く接着した。肉は毒を確認し、空牙狼の食料へ回す。狼たちが狩りへ出られない負傷分を、敵の肉で補える。
代替支持を締め直し、柱へ晶殻板を三層に当てる。ポロが冷水を止め、温水脈を少しずつ戻す。紫の光が再び柱を上へ引いた。
都市の傾きが止まった。
そこでようやく、胸の奥から熱が爆発した。
レベル17から20。HP196から220、MP245から275、攻撃64から73、防御65から74、速度49から56。個体Bの入口。三段分の成長が、傷ついた身体を内側から満たす。それでも右翼の裂傷は消えず、飛べない。数値が上がっても、受けた傷と使い切った資源は残る。
そして鑑定の奥に、新しい条件が浮かんだ。
《進化資格成立。翼竜への変態区画を確認》
浮力柱の下で、これまで閉じていた石扉が開く。内部は丸い空洞で、床に龍王家の紋が刻まれていた。休眠していた都市核が、俺を呼んでいる。
だが同時に、外環の水路、風路、工房の光が消えた。
三系統が止まり、空環城は再び沈み始める。
俺の身体からも力が抜けた。進化の熱が意思を待たずに翼根へ集まり、視界が暗くなる。
勝った直後、都市の復旧と俺の無防備な変態が同時に始まろうとしていた。




