第28話 見られている狩り
浮角獣は、雲の切れ目を走っていた。
馬ほどの身体に白い短毛が生え、四本の蹄は石ではなく空気を蹴る。額から伸びた二本の角は根元が太く、先へ行くほど透明だ。角の内側に薄い膜を張り、そこへ風を受けて体重を浮かせている。走るたび虹色の光が揺れ、崩れた外環の柱から柱へ軽々と跳んだ。
あれ一頭で、空環城と空牙狼の群れが三日は食べられる。
いまの備蓄は三日分。狼へ水と狩場を分けたぶん、必要量は増えた。仕留めれば余裕ができる。逃せば明日も狩りだ。
「北へ回った!」
ミーナの声が風に乗る。
俺は崩れた欄干を飛び越え、外環狩場の中央へ出た。グラウは上の風路、空牙狼の若い三頭は左右の瓦礫帯にいる。昨日ミーナを襲ったセラの弟も、その中にいた。セラ本人は別の警戒線を担当し、水場と空橋の間を見ている。ポロとガンツは拠点で畑と橋脚補修だ。
狩りの手順は決めてある。狼が音を立てずに谷間へ追い、ミーナが風上から進路を狭め、グラウの隊列加速で最後の距離を詰める。俺は浮角獣が空へ逃げる瞬間、短距離滑空で角の膜を押さえる。
「王が一番目立つ役なのは偶然か?」とグラウが上から言った。
「最も危険な役を引き受けているのだ」
「一番楽しそうにも見える」
その通りなので返事はしなかった。
ミーナが石を二度鳴らす。
狼たちが一斉に走った。昨日の失敗のように先走る者はいない。浮角獣は左へ逃げようとするが、ミーナの風が白い毛を逆立てる。右へ向きを変えた先には狼。正面へ跳ぶ。
「いまだ!」
グラウが溜めた風を放つ。俺の後脚が一歩分速く地を蹴た。壊れた床の端から跳び、翼を開く。
風を受け、浮角獣の背へ近づく。昨日より姿勢は安定している。角の膜まで前脚一つ分。
その時、狩場の南から人間の悲鳴が聞こえた。
「助けてくれ!」
視線を向ける。崩れた見張り塔の下に、黒い外套の男がいる。昨日、観測板へ手を伸ばした影だ。右腕には板を抱え、左脚へ縄が巻きついていた。縄の先を、黒い空牙狼が二頭で引いている。
敵対する黒牙の群れ。
男のすぐ横には、協定を結んだ群れの幼い狼が一頭倒れていた。見張り線の外へ迷い出たのか、前脚を石の罠に挟まれている。黒牙狼は人間と幼体を一か所へ集め、こちらが近づくのを待っていた。
囮だ。
目の前の浮角獣へ手を伸ばせば届く。三日分の肉。水場を分けたばかりの俺たちには大きい。
人間の男は、俺たちの記録を盗もうとした可能性がある。狼の幼体も、勝手に警戒線を越えた。自分たちの失敗だと切り捨てる理由は、いくらでも作れる。
浮角獣の尾が前脚をかすめた。
俺は翼を傾け、追跡線から外れた。
「狩りを中止! 南へ向かう!」
狼たちが驚いてこちらを見る。ミーナは一度だけ浮角獣を見送り、すぐに進路を変えた。グラウは反論せず、残った風を救助方向へ送る。
「獲物は逃げるぞ!」セラの弟が吠え、仲間が言葉を訳すように同じ調子で鳴く。
「逃がせ! 食料はまた狩れる。あの二人の命は戻らぬ!」
浮角獣は自由になったと思い、南へ大きく回った。だがそこには黒牙狼がいる。追われて興奮した獣は止まれず、罠のある見張り塔へ向かっていく。
三勢力が同じ場所へ集まる。
「聞け!」
俺は走りながら叫んだ。「救うのは人間と幼体! 追い払うのは黒い狼! 浮角獣は殺すな、進路だけ変えろ! 間違えるな!」
声に出さなければ、誰が敵で誰が救助対象か一瞬で崩れる。
最初の黒牙狼が、囚われた幼体の首へ牙を寄せた。こちらを止める脅しだ。ミーナが低く飛び、石粉を巻き上げる。敵は目を閉じるが、幼体を離さない。
グラウが風を細く絞った。牙と幼体の間へだけ空気を押し込み、顎を半歩ずらす。
俺は短距離滑空で残りの距離を詰めた。黒牙狼の肩へ体当たりする。敵は幼体を離したが、転がりながら俺の翼膜へ爪を立てた。痛みが走る。翼を引けば裂ける。俺は身体を敵側へ寄せ、爪を緩ませてから尾で腹を払った。
二頭目が人間の縄を引く。男の身体が石床を滑り、崩れた縁へ近づく。
「縄を切って!」
ミーナが飛び込む。黒牙狼は待っていた。縄を急に離し、身軽になって彼女の喉へ跳ぶ。ミーナは翼を畳んで低く潜り、敵の腹下へ入った。前脚で後脚を払い、背へ乗る。
しかし三頭目が瓦礫から現れた。ミーナを横から挟む。敵は見えていた二頭だけではない。
セラの弟が間へ入った。昨日は恐怖でミーナへ襲いかかった若狼が、今度は彼女の死角を守る。黒と灰色の身体がぶつかり、牙が互いの肩をかすめた。
「右へ!」
ミーナの合図で弟狼が身を沈める。彼女の翼が黒牙狼の顔へ風を打ち、弟狼の牙が前脚の毛だけをつかむ。二頭で引き、敵を倒した。
人間の縄へ俺が向かおうとした時、地面が震えた。
浮角獣だ。
虹色の角を低くし、全速力でこちらへ突っ込んでくる。追われた恐怖で、前にいるものすべてを敵と見ている。角の膜には風が限界まで溜まり、一撃を受ければ俺でも橋外へ飛ばされる。
「全員、左右へ避けろ!」
だが幼体は罠に挟まれ、人間は縄で動けない。二人を残して避けられない。
俺は浮角獣の正面へ立った。
「また受ける気?」ミーナが叫ぶ。
「受けぬ。曲げる!」
王域認識を広げる。浮角獣、幼体、人間、黒牙狼、味方。以前は点としてしか分からなかった位置に、それぞれの動く方向が細い線で重なる。浮角獣の線を半歩右へ変えれば、角は誰にも当たらず、崩れた石柱の間を抜ける。
俺はぎりぎりまで待った。角が目の前へ迫る。左へ避けながら、右の角膜を前脚で押す。
身体ごと弾かれた。床を三度転がる。だが浮角獣の頭は指二本分だけ右を向いた。
グラウの風が横から重なる。ミーナも反対側の翼へ風を当てる。浮角獣は石柱の間へ入った。
そこで黒牙狼が飛び出し、獣の前脚へ噛みついた。
せっかく変えた進路が崩れる。浮角獣が暴れ、後脚で狼を蹴る。黒牙狼は壁へ飛ばされたが、獣は再び幼体側へ向いた。
「グラウ、上へ! ミーナは目! 狼班は人間の縄!」
指示を三つに分ける。グラウが角膜へ上昇風を入れ、頭を持ち上げる。ミーナが顔の前を横切り、視線を右へ誘う。協定狼二頭が縄へ噛みつき、人間を縁から引き戻す。
俺は浮角獣の前脚へ低く滑り込んだ。倒すためではなく、踏み出す位置を一つ外すために肩を当てる。蹄が俺の背をかすめ、鱗が割れた。
浮角獣は踏み外したが、倒れない。空気を蹴り、壊れた欄干の上へ跳ぶ。そこから外環の外へ滑空し、雲の中へ消えた。
獲物は完全に逃げた。
残る黒牙狼は四頭。蹴られた一頭は立てず、他の三頭はなお幼体へ近づこうとする。殺せば争いは深まる。だが逃がすだけなら、また人質を使う。
「罠を壊せ!」
俺は幼体の足を挟む石具へ噛みついた。硬い。ガンツがいれば一撃で構造を読めただろう。俺は力任せに引き、歯が滑った。
セラの弟が罠の反対側へ噛みつく。二頭で開く。石具が少し浮き、幼体が前脚を抜いた。
グラウは溜め直した風を、負傷した黒牙狼の背後へ放つ。逃げ道を示す風だ。ミーナと協定狼が横へ並び、幼体と人間の前へ壁を作る。
黒牙狼たちは仲間を引きずり、後退した。俺たちは追わない。ただしセラの弟が高く吠え、協定の救難音とは違う警告音を響かせる。二度と幼体を囮にするなという群れの言葉だった。
戦いが終わると、助けた人間は縄を解かれても立てなかった。顔は煤で汚れ、左肩には黒牙狼の爪痕がある。胸へ抱えた観測板だけは離さない。
「お前は昨日、これを盗もうとした者だな」
俺が問うと、男は青ざめた。
「盗むつもりじゃない。レナ隊長から、帰路に置いた記録板を回収してこいと命じられた。魔物側の印が追加されていたから、近づく合図が分からなかった」
板を見ると、人間側が描いた水路図の横に、ガンツの補修記録とポロの水量印が増えている。誰の物か決めずに同じ板を使ったせいで、回収が窃盗に見えたのだ。
「なぜ一人で来た」
「空牙狼との協定を知らなかった。静かに入って回収するほうが争いにならないと思った」
「結果は逆だ」
男はうつむいた。俺も責めるだけでは済まない。友好協力を結んだのに、観測板の所有と回収方法を決めていなかった。
「黒牙狼に捕まる前、どこまで見ていた」
男は観測板を開いた。裏面に、今日の狩りが細かな線で記されている。ミーナが風上へ回った位置、狼三頭が伏せていた谷間、グラウが風を放った場所、俺が跳んだ距離。敵に渡れば危険な記録だ。
「上から一刻ほど。空牙狼が魔物側と組んでいるという報告を、最初は信じられなかった。脅されているのか確かめたかった」
「何が見えた」
「合図を待てずに動いた狼を、翼猫が殴らなかった。獲物を仕留めたあと、幼体と備蓄へ先に分けていた。あなたは命令していたが、狼たちは嫌なら唸っていた」
「そこを記録するのか」
「人間の砦では、魔物が二十頭集まれば襲撃準備と判断する。ここで同じ報告を出せば、討伐隊が来るかもしれない。だから、集まって何をしていたかまで書く必要があった」
俺の胸が冷えた。俺たちには日々の狩りと水分けでも、遠くから数だけを見た者には軍勢に映る。空環城を守るために仲間を増やすほど、外の国は恐れるかもしれない。
「それで近づきすぎた」と男は続ける。「狼の幼体が警戒線から出たのを見つけた。戻そうとしたところを黒い群れに囲まれた。観測板を投げれば逃げられたかもしれない。でも、この記録がなければ、あなたたちは人間を集めて攻める魔物王として伝わる」
「俺は龍王だ」
「そこは報告に書いてある。隊長の注記つきで」
「何と」
「本人は本気。仲間は半信半疑」
ミーナが声を立てて笑った。命を張った記録にまでそう書かれているとは、屈辱である。
だが男が板を離さなかった理由は分かった。盗人ではない。彼もまた、自分の国で無用な戦いを起こさないために観測していた。
「次からは隠れて見るな」と俺は言った。「見学者の位置を申告し、狩猟班の合図を覚えろ。こちらも見られて困る備蓄や巣は先に区切る」
「許すのか」
「許可なく入った分は、今日使った包帯と薬の代価を働いて返せ。だが観測そのものを禁じれば、遠くから好きな怪物像を書かれるだけだ」
男はしばらく俺を見たあと、観測板へ新しい一行を加えた。
《獲物確保の直前、人間一名と狼幼体一頭の救助へ転換。備蓄減少を承知して追跡を放棄》
「そこまで書く必要があるか」
「一番必要だ。何を守る王か、これで分かる」
俺は嬉しくなりかけ、すぐ鼻を鳴らした。人間に評価されるために助けたのではない。それでも、行動が外へ正しく伝わることは、次の戦いを一つ減らすかもしれない。
幼体の傷は骨まで達していない。ミーナが洗い、狩猟用の包帯を巻く。人間の肩にも同じ薬を使った。食料を逃し、薬と包帯を消耗した。備蓄は二日分。戦いに勝ったと言うには、代償が大きい。
「それでも助けた」と人間は言った。「俺はあなたたちの記録を持って帰る途中だった。狼の子はあなたの群れですらない」
「協定を結んだ相手の幼体だ。お前は友好相手の斥候だ。どちらも見捨てぬ理由として十分だ」
「国へ報告する。塩と包帯なら、こちらから交易に出せる。代わりに安全な上昇路と、浮力石の調査記録が欲しい」
「レナと正式な条件を持って来い。救助を借りにして値を上げる気はない」
男は驚き、それから深く頭を下げた。
水場へ戻った後、協定石板へ第三者救助の条項を足した。種族と所属が分からなくても、救難音を出し、救助可能ならまず命を確保する。所有物の争いはその後。観測板は人間側と空環城側で写しを一枚ずつ持ち、回収日を記す。
反省も記録した。セラの別警戒線から狩猟班へ情報が届くまで遅れたこと。俺が浮角獣へ集中し、人間の悲鳴まで敵対狼を感知できなかったこと。次からは狩りの最中も、グラウが上空、狼一頭が後方を見る。
王域認識の感覚が変わっていた。味方と敵だけでなく、倒す対象、救う対象、進路を変える対象を意識して分けると、複数の動きが前より鮮明に残る。
レベル16から17。HP188から196、MP235から245、攻撃61から64、防御62から65、速度47から49。だが食料は増えない。成長したから腹が満ちるわけではない。明日は狩猟班を二組にし、俺は負傷した背を休めながら罠の修理を手伝う。
夕方、セラの警告音が遠くで響いた。
退いた黒牙狼たちが、外環の東端へ逃げていく。その先には、雲を支える巨大な浮力柱が立っていた。柱の根元には古い亀裂があり、黒い尾が次々に中へ消える。
やがて狼たちが悲鳴を上げて飛び出した。
柱の内側から、透き通った無数の脚が現れる。一本、二本ではない。壁全体が動くように、長大な胴が亀裂を押し広げた。
晶殻に覆われた百足が、浮力柱を内側から割って姿を現した。




