第27話 牙の群れとの取引
空牙狼は、水場を囲むように半円を作っていた。
外環の北側には、崩れた塔の根元から湧く浅い池がある。水深は俺の前脚ほど。空環城でいま使える唯一の上層水場で、卵殻城から引いた上昇水路とも細い管でつながっている。その池を、二十頭を超える狼が占拠していた。
灰色、黒、白。体色は様々だが、全員の前脚から脇腹にかけて薄い翼膜がある。成獣は俺より一回り大きく、肩の高さはミーナの倍近い。足首には空気を踏むための長い毛が生え、風がなくても水面すれすれに浮いていた。
先頭の老いた雄が牙を見せる。右目は白く濁り、左耳には三本の裂傷があった。その後ろで若い狼たちが低く唸り、こちらが一歩進むたび水際へ爪を立てる。
そして群れの中央には、一頭の幼体が横たわっていた。
白い腹が速く上下し、後脚の付け根が黒く腫れている。傷口からは黄色い液がにじみ、甘く腐った臭いが風に乗った。
「負傷者を前へ置くとは、降伏の作法を知っているらしい」
俺が胸を張ると、二十頭すべての牙が同時に現れた。
「違うと思う」とポロが小声で言う。
「では、臣従の申し出だ」
唸り声が一段低くなった。
「もっと違うわね」とミーナが言った。
俺たちは五人全員で来ている。エドは朝、人間三人に護送されて帰路へついた。別れ際、彼は脚を固定したまま空環城の図を受け取り、「次は自分の足で来る」と言った。レナたちとの友好協力は続くが、今日は人間の同行者はいない。
食料は四日分。水路の流量には二割しか余裕がない。狼二十頭へ無制限に水を分ければ、畑と工房が止まる。追い払えば狩場で争いになる。正面戦闘なら勝てるかもしれないが、誰かが必ず血を流す。
「群れの代表は誰だ」
俺が問うと、老狼が一歩出た。言葉は返らない。代わりに鼻先で負傷した幼体を示し、それから池を示す。
「治療と水を求めている」とポロが言った。「この子、熱が高い。水から離せないんだと思う」
俺は鑑定を向ける前に、老狼を見る。昨日決めた規則を思い出す。
「傷だけを見る。よいか」
老狼は意味を量るように俺を見つめた。やがて幼体の前へ伏せ、首を低くした。許可だと受け取る。
【鑑定結果】
種族:空牙狼(個体ランクE)
状態:後脚裂傷、腐食苔由来の感染、発熱、脱水
技能:風踏み:ランクF Lv1
治療上の制限:傷口を洗浄後、半日は飛行禁止
【鑑定終了】
「感染だ。傷を洗い、腐った部分を除き、薬を塗れば助かる可能性は高い。ただし水を飲ませるだけでは治らぬ」
老狼が短く吠えた。
群れの後方から、細い声が返る。
「代価は」
一頭の雌狼が前へ出た。
他の狼より一回り小さく、毛は夜明け前の空のような青灰色。耳が長く、先端だけ銀色だった。左目の周りには白い輪があり、歩くたび翼膜ではなく尾の長い飾り毛が風向きを変えている。群れが俺たちだけを見ている中、彼女だけは外環の入口、崩れた塔の上、雲の動きへ絶えず視線を配っていた。
「喋れるのか」
「そちらも喋る。驚く理由が分からない」
「俺は龍王だからな」
「小さい龍王」
ミーナが横を向いて肩を震わせた。
「名は」
「セラ。群れの外を見る役。長はあの方」
彼女は老狼へ鼻先を向けた。代表の言葉を通すが、自分が代表だとは名乗らない。
「治療の代価を聞いた」とセラが続ける。「水場が必要。ここへ来るまで三つの巣を失った。黒牙の群れが南の狩場を取り、幼体を追った」
「ならば俺の配下となれ。この都市で守ってやる」
若い狼が一斉に前へ出た。水が跳ね、風踏みの圧が俺の鱗を撫でる。
セラの銀の耳先も伏せた。
「守ると言いながら、選ぶ権利を取るのか」
「王が守り、民が従うのは当然だ」
「私たちの長はすでにいる。水のために長を捨てるなら、次は食料のためにあなたも捨てる」
言葉が胸へ刺さる。服従を求めれば簡単だと思った。傷ついた幼体がいて、水を必要としている。こちらが強い。だが相手の弱みを使って頭を下げさせたところで、それは信頼ではない。
グラウが俺の横へ出た。
「取引に変えろ。群れには群れの目的がある」
昨日、俺へ正面から間違いを告げた声だ。
「……治療の代価は、南側の狩場情報。水は一日三回、幼体と授乳中の雌を優先する。無制限ではない。代わりに、この水場と空橋へ敵が来た時は救難音を出し、可能なら共に守れ」
セラは老狼と低い声で言葉を交わした。吠え、鼻息、耳の動き。俺には半分も分からない。
「治療は先払いか」と彼女が聞く。
「そうだ」
「治したあと、私たちが去ったら?」
「その時は俺が見る目を誤っただけだ。幼体を死なせる理由にはならぬ」
老狼がゆっくり牙を隠した。群れの緊張が少しだけ下がる。
治療は池の横で行うことになった。ミーナが傷の臭いを確かめ、ポロが清水と煮沸布を用意する。ガンツは狼が暴れた時に幼体を傷つけない木枠を組む。グラウは群れと俺たちの間に立ち、どちらかが飛び出せば風で距離を取らせる。
「切る必要がある」とミーナが傷を見て言った。「腐った肉が残ってる」
老狼が唸る。幼体の母らしい白狼が、ミーナへ牙を向けた。
「痛みで動く」とセラが訳す。「押さえるのを手伝う。でも刃を深く入れたら、群れは止められない」
「分かってる。私も薬を作る側よ」
ミーナは人間のドーラから教わった苦苔と焼き塩の軟膏を薄める。異種族の知識が、今度は狼の幼体へ届く。
最初にポロが水をかけた。幼体が悲鳴を上げ、後脚を振る。木枠が軋む。母狼が一歩出た。
セラが肩を当てて止める。「待って。汚れを落としているだけ」
二度目、ミーナが腐った部分へ石刃を入れた。幼体が身体をひねり、枠の隙間から牙を出す。俺の前脚へ噛みついた。
痛い。反射的に押さえつけそうになる。だが幼体の目は敵意ではなく恐怖で開ききっていた。
「噛ませろ」
俺は前脚を動かさない。「これで身体が止まるなら安い」
「鱗があるから言えるのよ」とミーナは手を止めずに返す。
若い雄狼が突然飛び込んだ。母狼ではない。群れの端でずっと唸っていた個体だ。俺が幼体へ何かしていると誤解したのか、首を狙ってくる。
ミーナが横から受けた。二頭でもつれ、水際へ転がる。若狼は前脚でミーナの肩を押さえ、牙を開く。
グラウの風が両者の間へ入った。若狼の身体だけが半歩浮く。ガンツが木板を差し込み、牙を止める。
俺は幼体に噛まれたまま怒鳴った。
「殺すな! 恐れて動いた者を、敵に変えるな!」
セラが若狼の前へ立ち、低く唸った。若狼はなおも前へ出ようとする。彼女は噛みつかず、鼻先を相手の胸へ押し当て、三度短く吠えた。
若狼の耳が伏せる。ようやく後ろへ下がった。
「弟」とセラが言った。「前の巣で、治療を装った罠に母を取られた。刃を見ると止まれない」
「ならば最初に言え」
「言えば、弟を遠ざけた?」
俺は答えに詰まった。危険だから離せと言っただろう。だが遠ざけられれば、彼の恐怖はまた「見えないところで仲間を傷つけられる」に変わる。
「次からは刃を見せ、何を切るか説明する。見張る位置も自分で選ばせる」
セラは俺をじっと見た。「罰は」
「ミーナへ謝れ。狩り一回、彼女の指示に従う。それでよい」
「王を襲ったのに?」
「俺は噛まれていない。こっちは幼体だ」
前脚にぶら下がる幼体を見せると、セラの口元がわずかに緩んだ。
治療を再開する。今度はミーナが石刃を入れる前に、セラが群れの言葉で一つずつ説明した。若狼は三歩離れた正面へ座り、目を逸らさない。幼体が暴れるたび、母狼が鼻先を合わせて落ち着かせる。
腐った肉が除かれ、薬が塗られた。ポロが少量ずつ水を飲ませる。幼体の呼吸はすぐには戻らない。それでも夕方には、熱がわずかに下がった。
その間、内政も進めた。ガンツは池へ二本の水路を引き、一方を狼用の浅い飲み場、もう一方を畑と工房へ分けた。ポロが流量を測る。狼が一度に入れば水が濁るため、朝、昼、夕の時間割を設ける。余力二割のうち半分を狼へ貸し、雨水槽が満ちた日は追加する。
狩りの規則も必要だった。北の浮き根兎は繁殖期で、雌を取りすぎれば来月の食料が消える。ミーナが一日に狩る数を示し、狼側は南の浮角獣の移動路を渡す。大物を倒した時は、追跡、仕留め、解体の働きで分ける。
「破った者は?」セラが問う。
「一度目は理由を聞いて分け前を減らす。二度目は水の時間を短くする。三度目は協定を開き直す」
「追放ではないのか」
「飢えが理由なら、追放すればもっと襲う。規則が悪い可能性もある」
ガンツが石板へ、違反時の再交渉まで刻んだ。水場、狩場、獲物分配、救難音。種族の違う群れ同士で結ぶ最初の協定だ。
俺はセラの動きを見ていた。話し合いの間も、彼女だけは外を見続けている。塔の上で石が一つ転がった時、誰より早く耳が向いた。風向きが変われば、群れの幼体を風下へ移す。
「鑑定を使ってよいか」
「何を見る」
「いまある技能だけだ。お前を引き抜くためではない」
セラは老狼を見る。許しを得てから、俺へ向き直った。
【鑑定結果】
名前:セラ
種族:銀耳空牙狼(個体ランクD)
技能:広域警戒:ランクD Lv7
技能:風向追跡:ランクE Lv9
状態:疲労、負傷なし
【鑑定終了】
「広域警戒。お前は群れ全体の死角を埋めている」
「だから群れを離れない」
先に言われた。
「勧誘はまだしておらぬ」
「顔に出ていた」
「ならば協力技能として登録する。空環城の警戒線に異常があれば救難音を。代価は水の追加枠と、こちらの見張り情報だ」
「群れの利益が続く限り」
「それでよい」
臣下ではない。だが互いの利益を守る間、同じ敵を早く見つけられる。無理に一人を引き抜くより、群れ全部との道ができた。
協定は石板へ刻んだだけでは終わらない。翌朝、最初の共同狩りを行った。
狙いは外環西側へ来る浮き根兎の雄二羽。狩猟班はミーナ、グラウ、セラの弟を含む若狼三頭。俺は水場へ残り、ポロとガンツと一緒に飲み場の仕切りを作る。王だから狩りへ出たいと言ったが、昨日噛みついた若狼とミーナが同じ指示で動けるか確かめるには、俺がいないほうがよいと全員に言われた。
昼前、狩猟班は獲物なしで戻った。
「狼が先に走りすぎた」とミーナが言う。
若狼が唸り、セラが訳す。「翼猫が遅くて獲物へ届かなかった、と言っている」
「届かなかったんじゃない。風下から近づいたから、匂いで逃げられたの。私が回り込むまで待つ約束だった」
若狼は地面を爪で掻いた。処罰の対象にすれば、協定初日から群れ同士の面子を争うことになる。
俺はどちらが正しいか決める前に、狩場の図を描かせた。ミーナは獲物の位置と風向き、狼は走った線を石へ刻む。線を重ねると、若狼が動いた瞬間に浮き根兎が二手へ分かれ、ミーナの待ち伏せ位置を外れたことが分かった。
「次は救難音と同じく、動く合図を一つにする」と俺は決めた。「ミーナが石を二度鳴らすまで狼は伏せる。逃げた獲物はグラウの風で一方向へ寄せる。仕留めは一番近い者。分配は約束どおりだ」
「弟がまた先に動いたら?」セラが聞く。
「その日は分け前を一段減らす。ただし群れ全体からは引かぬ」
午後の二回目。今度は石音が二度鳴るまで若狼は動かなかった。ミーナが風上の岩から飛び、浮き根兎を低く追う。グラウの風が二羽を左右へ散らさず、狼の待つ谷間へ押した。
一羽目は若狼が仕留め、二羽目はミーナの爪が首を押さえた。だが帰路で別の狼が獲物を奪おうとし、二頭が牙を見せ合う。
セラが間へ入る前に、弟のほうが獲物から一歩下がった。昨日ミーナを襲った償いとして、解体と運搬は彼女の指示に従うと覚えていたのだ。
肉は狩猟参加者、群れの幼体、空環城の備蓄へ分けた。内臓は薬と餌、皮は水路の弁紐、骨は見張り線へ回す。水場では俺たちが仕切りを完成させ、狼が入っても畑用の取水口へ泥が流れないことを確認した。
一度失敗し、理由を見える形にし、二度目で成功する。協定はその一日で、文字から使える手順へ変わった。
三日目、幼体は自分で水を飲み、前脚だけで立った。母狼が初めて俺たちの前で腹を地面へつける。老狼は俺の爪痕の隣に、自分の牙で一本の線を刻んだ。協定への印だ。
身体の奥で熱が巡る。
レベル15から16。HP180から188、MP225から235、攻撃59から61、防御60から62、速度45から47。敵を倒した成長ではない。互いに牙を収める条件を作り、警戒範囲が一つの群れから二つへ広がった成果だ。
ただし水の余力は減った。狼が増えれば畑を広げられず、雨が止まれば配分を見直す必要がある。協定は完成ではなく、毎日の流量と狩果で維持するものだ。
夕暮れ、セラの耳が南へ向いた。
「誰かいる。狼ではない。二本脚。匂いを隠している」
遠くの狩場で、黒い影が岩陰へ消えた。そこには昨日、人間隊が帰路を記録するため置いた観測板がある。
影の手が、板へ伸びた。




