第26話 翼にためた風
古い訓練環は、空橋の先に七つ並んでいた。
一番手前は地面へ埋もれるほど低く、奥へ行くほど大きくなる。最後の環は塔の二階分もあり、内側には白い雲が渦を巻いていた。石の表面には細かな翼の紋が刻まれ、グラウが近づくたび、眠りから覚めるように一つずつ青く光る。
空橋の戦いから一日。ガンツの酸傷は薄い布で巻かれ、重作業は禁止されている。俺の翼膜と背の酸傷は軽快した。グラウの折れ翼も八割ほど戻り、滑空なら痛みなくできる。ただし全力で羽ばたけば、古傷が開く可能性がある。
人間三人はエドを上昇水路で運び出す準備のため、別区画にいる。ユフィが風坑の籠を点検し、ドーラが脚の固定を確かめ、レナは帰路の交代表を作っている。ポロは水路と畑、ミーナは狩猟と俺たちの訓練監視、ガンツは軽作業で風袋を縫う。誰か一人の成長のために、生活全体を止めることはできない。
「俺へ鑑定を使え」
グラウは最初の環の前で言った。
黒い身体は痩せているが、初めて会った時の飢えた鋭さとは違う。折れて垂れていた右翼は、いまは左とほぼ同じ高さまで開く。風が通るたび羽根の先がわずかに震えた。
「本人から頼むとは、殊勝だな」
「条件だけだ。方法まで命令するな」
先に釘を刺された。俺は不満そうな顔をしたが、三日契約で決めた規則がある。鑑定は次の条件一つを示すだけで、成功方法は分からない。本人と担当者が決める。
「約束しよう。見るぞ」
【鑑定結果】
名前:グラウ
種族:黒翼滑空獣(個体ランクD)
技能:風蓄積:ランクF Lv3
技能:短距離滑空:ランクE Lv6
状態:右翼骨折から八割回復、全力羽ばたき禁止
次の成長条件:逆風を受け続ける
【鑑定終了】
「逆風を受け続ける」
俺は訓練環の奥を見た。大きな環ほど風が強い。最後の環なら、一刻分の逆風を一息で受けられるのではないか。
「よし。最奥へ行くぞ」
グラウは動かなかった。
「なぜだ」
「いまの俺が最後の環へ入れば、翼がまた折れる」
「だが条件は逆風を受け続けることだ。強いほど早い」
「強さとは書いていない」
「弱い風を長々と受けるより効率がよい」
俺は彼の肩を鼻先で押そうとした。グラウは爪を石へ立て、一歩も動かない。
「押すな」
低い声だった。ミーナの耳が立ち、ガンツの針が止まる。
「俺の翼だ。折れた痛みも、飛べずに群れから捨てられた日も、お前には分からない。条件を見つけたのはお前でも、壊れるのは俺だ」
胸の奥を刺されたように感じた。王たる俺が逸材を育てようとしているのに、拒まれた。善意を退けられた悔しさが先に立つ。
「俺はお前の力を見抜いた。強くなれば、誰より高く飛べるのだぞ」
「だから急がない。もう一度折れば、今度は戻らないかもしれない」
グラウは真正面から俺を見た。昔なら黙って食料を奪い、逃げ道だけを探していた彼が、いまは仲間の前で王へ間違いだと言っている。
腹立たしい。恥ずかしい。だが、どちらが自分の翼を知っているかは明らかだった。
「……方法を言え」
「最初の環から始める。風を十呼吸受け、痛みがなければ風袋を一つ増やす。姿勢を保てなければ止める。翌日まで痛みが増えなければ次の環へ行く」
ガンツが縫っていた風袋を持ち上げた。甲虫殻の薄片を枠にし、赤尾魔獣の膜を張った袋だ。環から来る風を受け、開口を変えることで負荷を調整できる。
ミーナがグラウの翼根へ細い白線を引いた。
「ここが下がったら姿勢が崩れてる合図。本人が平気と言っても止める」
「お前ら、いつの間にそこまで決めた」
「アルドが最後の環へ放り込もうとすると思って」とガンツが言った。
俺への信用はどこへ行った。
最初の試験が始まった。グラウは一番低い環の前で翼を半分開く。ガンツが側面のレバーを一段だけ押すと、細い向かい風が吹いた。
一呼吸、二呼吸。グラウの羽根が風を含み、背が少し持ち上がる。五呼吸目で右翼の先が揺れた。
「まだいける」
「白線が下がった」とミーナが止める。
グラウは不満そうに翼を閉じた。俺は言いたくなった。たった五呼吸で何が鍛えられる、と。だが本人が急がないと決めた以上、口を出さない約束だ。
休憩中、ポロが上昇水路から籠で上がってきた。水桶と若い菌床を運んでいる。
「畑の試験、始めてもいい? 虫の巣材を混ぜた土と、混ぜない土を半分ずつにしたよ」
「毒抜きは」
「水を三回替えた。ミーナが狩りから戻ったら匂いも見てもらう」
俺は許可しようとして、言い直した。
「ポロが安全だと判断し、ガンツが排水を確かめた区画だけ使え。食用は芽が出てもすぐ口にするな」
「うん。最初は洞鼠用の餌で試す」
内政も段階負荷だ。一気に畑全部へ巣材を混ぜれば、毒が残っていた時に食料を失う。グラウの訓練と同じだと気づき、俺は少し居心地が悪くなった。
二回目、風袋を一つつけた。グラウは八呼吸まで姿勢を保った。九呼吸目、風袋が急に膨らみ、右翼を後ろへ引いた。彼は風を逃がそうとして翼を畳む。だが袋の口が羽根へ絡まり、逆に開いたまま固定された。
「止めろ!」
ガンツがレバーを戻す。しかし古い機構はすぐ止まらず、風がもう一段強くなる。
グラウの身体が環へ引かれた。俺は横から飛びつき、腰へ爪を掛ける。二人分の身体が石床を滑る。ミーナが風袋の紐を噛み切り、袋だけを飛ばした。
負荷が消え、俺たちは環の手前で止まった。
「風袋の口が広すぎた」とガンツが認める。「紐も一本ではねじれる」
「俺も畳む方向を間違えた」とグラウが言う。「引かれた時は、片翼を残して身体を横へ向けるべきだった」
俺も反省を探す。すぐ飛びついたこと自体は悪くない。だが環の停止が遅れることを調べず、救助綱もつけていなかった。
「次は腰綱を二本。停止レバーを引いてから風が消えるまでの呼吸数を測る」
三人がうなずいた。失敗を誰か一人のせいにしなければ、次の手順が増える。
その日の訓練はそこで終えた。グラウは物足りなそうだったが、翌朝まで痛みを見るという自分の規則を守った。
狩猟班のミーナは夕方、浮き根兎を二羽持ち帰った。以前なら一羽を追う間にもう一羽を逃していたが、修復した空橋と風周期標で帰路が短くなり、罠を二か所見回れたという。肉は三日分の備蓄を四日分へ戻し、皮は風袋の二重紐になる。
「訓練が狩りの道具を作り、狩りが訓練の道具を返す」と俺は言った。
「たまには王らしいことを言うのね」
「常に言っている」
二日目、グラウの翼に腫れはなかった。最初の環で十呼吸、風袋一つで十呼吸、二つで七呼吸。失敗するたび、袋の開口を狭め、腰の角度を変え、休憩時間を伸ばす。
風をただ受けるだけだった羽根が、少しずつ風を内側へ留めるようになった。グラウが翼を畳んでも、羽根の隙間で低い音が続く。
「溜まっている」と俺は感じた。「以前は受けた瞬間に放していた。いまは自分で残している」
グラウが前脚を一歩出し、翼を開く。溜めた風が背後へ放たれ、俺とミーナとガンツの身体を同時に押した。強くはない。だが三人の走り出しが一歩分速くなる。
「隊列加速だ」とグラウが言う。口元がわずかに上がっていた。「俺だけ飛ぶ力ではない。皆を動かせる」
風蓄積はランクF Lv3からLv4へ上がった。
その夜、グラウは外環の端で一人、翼の手入れをしていた。俺が近づくと、折れていた右翼の付け根へ薬油を塗る手を止める。
「痛むのか」
「訓練した痛みだ。悪い痛みではない」
「違いが分かるのか」
「折れる前は分からなかった」
雲の切れ目を、小さな飛行獣の群れが横切った。全員が同じ高さ、同じ間隔で飛び、先頭が傾けば後ろも一斉に傾く。グラウはその姿を見つめた。
「前の群れでは、速い者だけが価値を持った。向かい風へ耐えられなければ、後ろへ落ちる。落ちた者を待てば群れ全体が獲物を逃す。俺もそう信じていた」
「それで翼を折ったのか」
「嵐の中で先頭を奪おうとした。誰より多く風を溜めれば、認められると思った。翼が折れた時、群れは正しく俺を置いていった。俺が教わった規則では、それが正しい」
声は平らだった。だが羽根を整える爪が、同じ場所を何度も撫でている。
「では、なぜ隊列加速を選んだ。一人で速くなる力も試せたはずだ」
グラウは少し考えた。
「お前たちは、俺が遅い時に荷台を止めた。食料が足りない時も、俺の分を最初から数えた。だから今度は、俺の風で皆を置いていかない方法を試したかった」
胸の奥が熱くなった。俺が見抜いたのは風蓄積の異常な成長余地だけだ。その力を何へ使うかは、グラウが過ごした日々から選んだ。
「ならば、お前が先頭に立つ時も、一番遅い者の速度を知れ」
「王が遅いから、忘れにくい」
「俺はいまや滑空できる」
「長く歩くと担架へ乗る」
救出時の屈辱まで覚えている。俺は鼻を鳴らしたが、怒りは湧かなかった。
翌朝、隊列加速を実際の運搬で試した。水桶を載せた荷台をガンツとポロが引き、俺とミーナが左右を走る。最初の放出は強すぎて荷台だけが先へ出て、水桶が半分こぼれた。二度目は弱すぎて誰も変化を感じない。三度目、グラウは全員の踏み出す瞬間を見て、背へ同じ強さの風を送った。
十歩の坂を上がる時間が、十五呼吸から十二呼吸へ縮んだ。水もこぼれない。ただし一度使うと、グラウは二十呼吸休まなければ次を放てない。
「速くなった数字だけでなく、残る制限も記録する」とガンツが板へ刻む。「運搬一行程につき三回まで。橋の上では使用禁止」
成長は、強くなったと喜ぶだけでは設備にならない。誰が、どこで、何回使えるかを決めて初めて、皆の力になる。
三日目、二番目の環へ進む。救助綱二本、停止まで四呼吸、風袋は一つ。最初の十呼吸は安定した。次の十呼吸で右翼が下がる。グラウは自分から止めた。
「まだ余裕があるぞ」と俺は言った。
「余裕があるうちに止める。次も同じ形で始められる」
以前なら俺が言いそうもない判断だ。だが正しい。
休憩後、もう一度入る。今度は翼をわずかに前へ傾け、風を羽根の根元へ流す。十五呼吸。風袋が膨らんでも姿勢は崩れない。
環の青い光が強くなった。
「出力が上がっている!」ミーナが叫ぶ。
ガンツはレバーへ触れていない。それなのに二番目、三番目、四番目の環が順に起動する。奥の巨大環から、冷たい風が一直線に走った。
風の中に、巨大な翼の影が見えた。
実体ではない。昔ここで訓練した何者かの力が、環へ残っている。だが一瞬の圧だけで、俺の脚が床へ沈んだ。個体S級に届く残響だ。
俺は鑑定を向けかけた。どんな技能か、グラウが何を得られるか知りたい。
「見るな!」グラウが叫ぶ。「攻略する相手じゃない!」
影が翼を振る。第一撃の風圧が床を剥がし、石片を弾丸のように飛ばした。俺はミーナの前へ出て身を低くする。石が背へ当たり、鱗を鳴らす。
ガンツが停止レバーを引いた。環は消えない。古い安全機構が、強い訓練者を逃がさぬよう次の段階へ固定している。
「主弁は奥だ!」ガンツが示す。巨大環の右壁、風の向こうに赤い取っ手がある。
グラウが溜めた風を放ち、全員を横へ押す。二撃目の下降風が、さっきまでいた床を砕いた。
「隊列を崩すな! ポロは水路へ戻れ!」
俺たちは主弁へ走る。ミーナが飛ぶ石の方向を読み、右、伏せろ、左と叫ぶ。ガンツは傷んだ前脚で走れず、俺が肩を入れる。グラウは最後尾で風を蓄え、残響の攻撃が来るたび短く放って全員の向きを変えた。
三撃目は渦だった。前へ進んでも同じ場所へ戻される。俺は王域認識で環と床の位置を重ね、渦の中心に動かない細い線を見つけた。
「中央を抜ける! 怖がって外へ行くな!」
自分に言っているようでもあった。全員で中心へ飛び込み、一瞬の無風を走り抜ける。
主弁へ届く。俺とガンツで取っ手を押すが、錆びて動かない。影が四撃目のため翼を広げた。
グラウが風を取っ手の隙間へ細く当てる。砂と錆が吹き出した。
「もう一度!」
ガンツの槌、俺の肩、ミーナの後脚が同時に入る。取っ手が回った。
七つの環から光が消え、巨大な影も霧へ崩れた。
勝ったのではない。止めて逃げただけだ。それでよい。あの残響を倒そうとしていれば、一撃ごとに誰かを失った。
グラウは床へ座り込み、荒い息を吐いた。翼は震えているが、骨折箇所に腫れはない。自分で蓄積と放出を切り替え、三度も隊列を救った。
風蓄積はランクF Lv5へ上がっていた。
「お前が正しかった」と俺は言った。「最初から最奥へ入れていたら、力を選ぶ前に残響へ飲まれていた」
グラウは驚いた顔をした。
「王が間違いを認めるのか」
「認める。ただし一度だけだ」
「記録板に刻んでおく」
ガンツが本当に炭筆を出したので、俺は取り上げた。
訓練環は封鎖した。主弁の前へ二重の石壁を置き、再開条件は回復完了、仕組みの調査、全員同意。育成鑑定は条件を示すだけで、方法は本人と担当者が決める。この規則も契約石板へ刻んだ。
夕方、外環の水場から長い遠吠えが届いた。
見張りへ出たミーナが戻る。
「空牙狼が二十頭。水場を占拠してる。でも襲ってこない。負傷した幼体を前へ出して、こちらを待ってる」
「服従を申し出に来たか」
「その考えで行くと、今度は狼に間違いを教えられるわよ」
俺は反論しながら、封鎖した環を振り返った。
力の条件を見抜いても、相手の意思までは所有できない。次の交渉では、最初からそれを忘れぬようにしよう。
できるだけ。




