第25話 空橋を食う甲虫
空橋の支柱が折れた時、橋の中央が獣の背のように大きく沈んだ。
石板の継ぎ目から白い粉が噴き、欄干が外側へ倒れる。黒い甲虫の群れは逃げない。むしろ崩れた隙間へ殺到し、露出した補強梁へ顎を立てた。硬い殻が何百も擦れ合い、乾いた雨のような音を立てる。
橋は幅八歩、長さ百歩以上。半ばから先は雲に隠れ、向こう岸の外環塔まで見通せない。俺たちが立つ根元側にも亀裂が三本走り、一番太いものは前脚が入るほど開いていた。
「全員、風坑まで下がれ!」
レナが叫ぶ。
「下がれば橋を全部食われる!」
俺は亀裂の前へ出た。昨日打った翼膜には鈍い痛みが残るが、ミーナの検査では短い滑空だけ許可が出ている。勝手に飛べば一週間禁止という条件つきだ。
ガンツが橋へ腹をつけ、床の振動を読む。
「今すぐ全体は落ちん。折れた支柱が隣の梁へ引っかかっている。ただし甲虫が根元をもう一本切れば終わりだ」
「補修には?」
「支柱を仮固定して、食われた梁へ殻板を当てる。二刻。敵がいなければな」
敵はいる。しかも昨日見た小型蟹とは違う。一匹が俺の頭ほどあり、六本脚の先には石へ食い込む鉤がある。顎から落ちた透明な液が床へ触れると、泡を上げて穴を開けた。
俺は群れの中で動かない一体へ鑑定を絞った。橋の下、折れた支柱の陰に、他より三倍は大きな腹が見える。背殻には白い環状紋があり、周囲の個体がその触角の動きへ合わせて進路を変えていた。
【鑑定結果】
種族:空橋酸顎甲虫・女王個体(個体ランクB)
技能:酸液噴射:ランクD Lv7
技能:群体指示:ランクD Lv8
技能:石材摂食:ランクC Lv2
状態:産卵前、腹部の機動力低下
【鑑定終了】
「女王は橋の下だ。腹が重く動きは遅い。ただし群れへの指示が強い」
「倒せる?」とユフィが聞く。
「橋を落とさず近づければな」
ミーナが首を振る。
「討伐より追い払う。女王を殺して群れが暴走したら、残り全部が梁を食べるかもしれない」
俺は一瞬、弱気だと言い返しかけた。しかし目の前の目的は強さを示すことではない。橋を残すことだ。
「よし。女王の退路を一つ開け、そこへ追う。ガンツとグラウは施工。ミーナ、レナ、ユフィは迎撃。ドーラは酸傷と落下に備え、風坑側へ救護線を作れ。俺は前へ出る」
「私は水路の合図も見る」とドーラが言った。
外環まで来られないポロとは、橋脚内部の古い排水管で連絡することにしていた。水圧を一回上げれば異常なし、二回なら増援、三回なら撤退。下層で水路を守る役は、遠くても戦いの一部だ。
人間三人との三日契約は、今日の日没で終わる。彼女たちは帰還のためだけでなく、自分たちが使うかもしれない空路を守る条件で、ここまで来た。
最初の甲虫が飛んだ。
羽音は低く、身体は石弾のように重い。俺は頭を下げ、額の角で受ける。衝撃で首が沈んだが、前脚は動かない。噛みつこうとした瞬間、敵は顎を開いて酸を吐いた。
顔を横へ振る。飛沫が肩へかかり、鱗が熱を持つ。二匹目が低く回り込み、後脚へ顎を立てた。
「挟まれてる!」
ユフィの矢が二匹目の脚関節へ刺さる。俺は後脚を引き抜き、尾で一匹目を欄干へ叩きつけた。一撃では殻が割れない。敵は壁を蹴って戻り、俺の腹へ潜り込む。
ミーナが横風で向きをずらし、レナの盾が腹側から押し上げた。俺は露出した脚の根元を噛む。硬い味と酸の苦みが口へ広がる。脚が一本ちぎれ、敵はようやく床へ落ちた。
「一匹に三手!」レナが叫ぶ。「数で付き合わない。橋から離す!」
ユフィが矢を橋の外側へ射る。矢尻には赤尾魔獣の脂を染み込ませた布が巻かれていた。匂いへ引かれ、群れの前列が欄干側へ向く。ミーナの風がその背を押し、数匹を雲へ落とす。
だが甲虫は落ちなかった。翼殻を開き、橋の下へ回り込む。こちらから見えない位置で石を噛む音が増えた。
「匂いの囮を利用された」とグラウが言う。「橋下へ誘導してしまった」
床が細かく震える。ガンツが仮支柱を立てる横で、亀裂がさらに伸びた。
「前衛を交代する!」レナが俺の横へ出る。「アルドは橋下を読んで!」
「まだ戦える」
「読めるのはあなただけ。私は読めない代わりに受けられる」
昨日の俺なら、前を譲ることを恥じたかもしれない。だが橋下の敵を放置すれば、目の前の十匹を倒しても全員落ちる。
俺は王域認識を橋全体へ伸ばした。石板、梁、支柱、そこへ張りつく小さな点。敵は見える範囲より多い。四十、五十。橋下の左右へ分かれ、同時に三か所を削っている。
「女王は群れを三つに分けた! 右脚に二十、中央梁に十五、残りは俺たちを足止めする!」
グラウが施工用の殻板を一枚、橋の隙間から差し込んだ。下の甲虫がすぐ酸を吐く。昨日までの石材なら溶けた。だが水路蟹の殻と赤尾魔獣の腱を重ねた板は、表面が泡立つだけで持ちこたえる。
「材料は正しい」とガンツが言う。「だが板が足りん。あと六枚」
「敵の殻を使う」
グラウはさっき脚を折った甲虫を裏返し、ガンツの前へ蹴った。ガンツが顎形工具を関節へ入れ、背殻を剥がす。戦いながら素材を取り、補修へ回す。卵殻城で何度も繰り返したやり方だ。
甲虫側も学んだ。前列の二匹が、倒れた仲間の死骸を顎で持ち上げる。厚い背殻を盾にし、ユフィの矢とミーナの風を受けながら進んできた。
レナの槍が死骸へ刺さり、抜けなくなる。盾の陰から別の個体が酸を噴く。彼女は顔を守ったが、酸が盾の革紐へかかり、一本が切れた。
「下がって!」
ドーラが濡れ布を投げる。レナは盾を捨てず、布で酸を拭う。その隙に死骸盾の甲虫がガンツへ走った。
俺は横から飛びつく。敵は死骸をこちらへ投げた。重い殻が胸へ当たり、息が止まる。続く顎を前脚で受けると、爪の根元まで挟まれた。
一匹目を倒すのに三手かかった。同じことを続ければ体力が尽きる。
「死骸を奪え!」
俺は噛みつく代わりに、敵が盾にする死骸の脚へ尾を絡めた。ミーナが反対側から風を当てる。生きた甲虫は押し続け、俺たちは横へ引く。力の向きがずれ、死骸が床を滑った。
「いまよ!」
ユフィの矢が、盾を失った敵の口内へ入る。甲虫は酸を吐こうとして、自分の口で矢柄を折った。酸が喉へ逆流し、動きが止まる。レナの槍が脚を払い、俺が欄干外へ押し出した。
二度目の攻防で、橋上の群れは十匹ほど減った。しかし下の咀嚼音は止まらない。
その時、排水管が一度強く鳴った。
ポロの合図だ。続けて二度、短い圧が来る。異常、そして増援ではなく、水圧を上げる準備の合図。事前に決めた追加信号だった。
ドーラが管へ耳を当てる。
「ポロが下の水脈を見つけた。橋脚の中へ流せるって!」
「流せ!」と俺は答える。
「待て」とガンツが制した。「全圧を入れれば、傷んだ橋脚が内側から割れる」
橋を守る水が橋を壊す。俺たちはまた選び直さなければならない。
ガンツは橋脚の図へ爪を走らせた。
「三割の圧を十呼吸。巣穴の泥だけ流す。その間、仮支柱へ全員の重みを寄せるな」
ドーラが排水管を三回、長短長で叩く。下のポロへ割合を伝える信号だ。
水が来た。
橋の下から濁流が噴き、黒い甲虫が何十匹も押し出される。橋脚内部には、巣材と卵を詰めた空洞があった。女王は産卵場所を広げるために橋を食っていたのだ。
群れが甲高い音を出す。橋上で戦っていた個体まで巣へ戻ろうと向きを変えた。数が減ったのではない。一か所へ集まり、密度が上がった。
「女王が逃げる!」
白い環状紋が橋の下を動く。女王は外環側の支柱へ渡ろうとしている。あそこへ入られれば、次の橋も食われる。
俺と女王の間には、折れて落ちた橋板がある。幅は六歩。下は雲だ。
昨日なら飛行禁止だった。今日はミーナの許可がある。ただし短い距離、風を測る、グラウが見る、命綱をつける。戦いの最中でも条件を捨てれば、昨日の失敗から何も学んでいない。
「ミーナ、風!」
彼女は石粉を投げた。「右から左。三呼吸だけ安定!」
「グラウ!」
「翼を水平。打つな。着地で左へ流れる」
レナが命綱を俺の腰へ回す。俺は三歩下がり、女王が次の支柱へ脚を掛けるのを見た。
「行け!」
走って跳ぶ。
翼を開く。身体が落ちず、風の上を滑った。昨日のような歓喜に酔わない。右の膜が強く押される。左を少し畳む。向こうの支柱が近づく。
女王が酸を吐いた。空中では避けられない。俺は翼を一瞬たたみ、高度を落とした。酸が頭上を抜ける。すぐに開き直すが、今度は支柱より低い。
グラウの風が下から一押し入った。身体が半歩上がる。前爪が縁へ掛かり、俺は腹から支柱へ乗った。
成功を喜ぶ暇はない。女王の触角が振られ、周囲の甲虫が俺へ殺到する。
最初の一匹を尾で払う。二匹目の酸を支柱の陰で避ける。三匹目が右翼へ噛みつき、昨日の打撲が痛む。俺は無理に引かず、身体を回して敵ごと石へぶつけた。一度、二度。顎が緩む。
女王へ噛みつこうとすると、腹部の小型個体が一斉に飛び出した。幼虫を守る衛兵だ。顔と首へ張りつき、視界を塞ぐ。
「アルド、女王を倒すな! 退路へ向けて!」
ミーナの声が遠い。俺は目を閉じ、王域認識で支柱の縁を読む。女王の逃げ道は外環側と巣側の二つ。巣側を塞ぎ、外環ではなく都市外縁の岩棚へ向ければいい。
俺は女王の正面ではなく、巣側へ体当たりした。女王は反対へ下がる。衛兵が俺の背へ酸を浴びせる。鱗の間が焼ける。もう一度押す。
女王は支柱の外へ翼殻を開いた。重い腹で飛べないと思ったが、無数の働き蟻ならぬ働き甲虫が腹の下へ集まり、女王を支えた。群れ全体が一つの翼になる。
「させるか!」
俺は触角の片方へ噛みつき、首を振った。女王が金属を擦るような悲鳴を上げる。群れの動きが乱れ、橋へ戻ろうとする個体と外へ逃げる個体がぶつかった。
その隙にユフィの火矢が、都市外縁の岩棚へ刺さる。赤尾魔獣の脂の匂いが広がる。女王は俺を振り切り、匂いと広い巣穴を求めて岩棚へ向きを変えた。
ミーナとグラウの風が背を押す。女王と群れは黒い雲のように橋から離れ、外縁の裂け目へ消えていった。
追わない。橋に残った卵は水で流し、岩棚側へまとめる。女王が生きている以上、また戻る可能性はある。だが巣材を除き、橋脚を耐酸材で塞げば、同じ場所は選びにくい。
俺は命綱を引かれ、支柱から戻った。着地した瞬間、前脚から力が抜ける。ミーナが肩を貸し、ドーラが酸のかかった背へ中和液を注いだ。
ガンツも無傷ではない。施工中に飛んだ酸で、右前脚の鱗が赤く焼けている。それでも仮支柱を離さなかった。
「勝ったか」と彼が聞く。
「追い払った。橋は?」
「仮設だ。荷台は一台ずつ。走るな。二日ごとに点検」
「なら勝ちだ」
戦後、橋上に残ったものを数えた。使える虫殻二十七枚、顎十一対、酸袋四つ、巣材六籠。虫殻は耐酸床と橋脚補強へ、顎は切削具へ、酸袋は封をして工房へ、巣材は毒を抜いて畑の肥料へ回す。狩りの獲物ではないが、都市を食った敵さえ都市を直す素材になる。
失ったものもある。補修材の半分、ユフィの矢八本、薬一回分。ガンツは二日間重作業禁止。橋は恒久復旧ではない。女王の再来に備え、ポロの水圧管を警報と洗い出しへ使う。
俺は皆の前で、自分の判断を振り返った。
「最初に群れを橋下へ誘導した。女王を早く見つけたのに、巣の位置を読まなかった。滑空は成功したが、グラウの補助がなければ届いていない」
「それでも昨日よりはまし」とミーナが言った。「勝手に飛ばず、確認したから」
褒められたのか、最低限だと言われたのか分からない。
身体の内側で熱が二度脈打った。
レベル13から15。HP164から180、MP205から225、攻撃53から59、防御54から60、速度40から45。短距離滑空は、条件が揃えば実戦で使えるところまで来た。だが飛び上がることはできず、風がなければただ落ちる。国家もまだ存在しない。守れるのは、この仮橋と前哨を合わせても防衛値E程度だ。
日没、レナが契約石板を俺へ返した。
「三日契約は終わり。エドも明日には運べる」
「では帰るか」
「人間側へ報告はする。でも、エドが安全に帰るまで友好協力を延長したい。次からは三日でなく、仕事ごとに条件を決める」
「臣下にはならぬのか」
「ならない」
即答だった。しかし彼女は笑っていた。
橋の向こうで、古い輪形の設備が淡く光った。壊れた支柱をつなぐように、大小七つの石環が空中へ並ぶ。
その光は俺ではなく、グラウの翼へ反応していた。
風を溜めるたび、環の奥で眠っていた何かが低く唸る。グラウは痛みを忘れたように一歩進んだ。
「あれは、俺を呼んでいる」




