第24話 壊れた上昇気流
空環城は、近くで見るほど壊れていた。
上昇水路の出口は、巨大な石輪の下側へ突き出た保守棚につながっている。足元には雲しかなく、時折切れ目から遥か下の山並みが見えた。外環へ渡る石橋は中央で折れ、二十歩ほどの空白を挟んで向こう側へ続いている。その空白を、白い霧と風が下から上へ吹き抜けていた。
風坑だ。
筒状に組まれた石壁の内側を、都市下部で集めた風が上昇し、かつては荷揚げ籠や飛行種を外環へ運んでいたらしい。だが壁の羽根板は半分が欠け、残った板も一定しない間隔で回っている。風は真上へ流れず、右へ巻いたかと思えば急に左へ落ち、次の瞬間には壁へ叩きつける。
「つまり、この翼で渡ればよい」
俺は前脚を縁へ掛けた。
「何を見てそうなったの?」
ミーナが俺の尾を押さえる。彼女は石粉を一つまみ風へ投げた。粉は上へ舞い、途中で渦を巻き、こちらの壁へ打ち戻された。
「最後に上へ行ったではないか」
「その前に壁へ三回ぶつかったわ」
同行しているレナが、命綱の留め具を確かめる。その隣でユフィは弓を背負い直し、予備綱と滑車袋を腰へ結び直した。ドーラはエドの熱が下がるまで離れられない。ポロとガンツは三段階弁の保守と、次便の物資準備だ。
同行者は、俺、ミーナ、グラウ、レナ、ユフィの五人だった。ユフィはエドを見つけた直後から、護送路の目印を打ち、担架を引き上げる綱まで準備していた。俺への警戒が消えたわけではない。それでも救出に必要な役目を自分から引き受けた。その距離でよい。信用は急がせるものではない。
俺たちの物資は三日分。外環へ渡れなければ、同じ水路を下りる。エドの移動に使う分を残すため、浮力石の便数も増やせない。
「まず風の周期を測る」とミーナが言った。「石粉、布、羽根板の音。三つが同じ合図になった時だけ綱を渡す」
「俺が飛べば綱を運べる」
「測ってから」
「王が風を恐れていると思われる」
グラウが壊れた橋の向こうを見たまま答えた。
「恐れを隠して落ちる者より、測って渡る者のほうが空では長く生きる」
折れ翼の彼に言われると重い。それでも俺の翼は昨日の水柱で風を受け、確かに身体を持ち上げた。卵だった俺が空の都市まで来たのだ。ここで一度も試さずに立っているなど、我慢できなかった。
ミーナたちが風見布を取りつけている間、俺は縁から三歩下がった。翼をいっぱいに広げる。薄い膜へ下から風が当たり、身体が軽くなる。
「アルド、待ちなさい」
「試すだけだ!」
走った。縁を蹴る。
最初の一呼吸、俺は飛んだ。
足元から石棚が離れ、雲が開く。腹の底が持ち上がり、胸に歓喜が弾けた。翼を少し傾けると身体が右へ向く。できる。俺は龍王だ。空は最初から俺のものだったのだ。
二呼吸目、風が消えた。
身体が落ちる。慌てて翼を打つと、左だけに横風が当たった。景色が回転し、石壁が正面へ迫る。
「む、これは予定どおりではない!」
肩から壁へ激突した。息が抜ける。さらに下へ滑り、風坑の暗い穴へ落ちる。
命綱が腰で張った。
レナとユフィが留め具へ体重を掛けている。だが俺の落下に引かれ、二人の足が縁へ滑った。ミーナがレナの帯をつかむ。グラウは翼を広げ、落ちる俺の下へ風を送った。
一度目の風は強すぎた。俺の身体が壁から剥がれ、振り子のように反対側へ飛ぶ。そこには回転する羽根板の折れた軸が突き出していた。
「右へ三尺!」
俺が叫ぶ。グラウは風を弱めたが、今度は届かない。前脚が軸をかすめ、爪の先が割れる。
「翼を畳め!」
「畳んだら落ちる!」
「いまは綱で吊られている。翼が風を拾って暴れている!」
グラウの声に従い、痛む翼を身体へ寄せた。揺れが小さくなる。レナたちが綱を引き始めた。
だが風坑の音が変わった。低い唸りが高くなり、壁の羽根板が一斉に逆回転する。
ミーナの顔色が変わる。
「周期がずれた! 下向きが来る!」
風が上から落ちた。俺の身体がさらに沈み、綱が石の縁へ食い込む。一本目の繊維が切れた。ユフィが予備綱を留め具へ回すが、その手元へ折れた羽根板が飛んでくる。
俺は翼を開いた。落下風を受ければ、綱への重みを少し減らせる。だが左翼だけが煽られ、また身体が回る。
「アルド、私を見て!」
上でミーナが前脚を大きく動かした。左を畳め、右を開け。俺は合図どおり翼角度を変える。回転が止まり、身体が斜めに落ちる風へ乗った。
その先には、壁から突き出た細い保守棚がある。前脚を伸ばす。爪が縁へ掛かったが、石が崩れた。後脚が空を蹴る。
グラウが短い風を三度送った。一度目は腹、二度目は右翼、三度目は尾。大きく押し上げるのではなく、姿勢だけを直す風だ。俺は崩れた棚の奥へ前脚を差し込み、どうにかぶら下がった。
「ここで綱を引け!」
レナが上から答える。「無理! 縁が削れてる。引いたら切れる!」
確かに綱は白く毛羽立ち、残り半分ほどしかない。俺を助けるには、縁の位置を変えなければならない。
「向こうの外環へ綱を渡す」とグラウが言った。
「二十歩ある」とユフィが青ざめる。
「俺が途中まで運ぶ」
グラウは回復途中の翼を広げた。飛行はまだできない。無理をすれば、また折れる。
「ならぬ!」
俺は保守棚から怒鳴った。「俺の失敗でお前の翼を使い潰すな!」
「王の失敗だからではない。仲間が落ちているからだ」
グラウは命綱を胸へ巻き、縁から滑り出した。ミーナが上向きの風を選び、合図する。彼は風を翼へ溜め、打たずに乗る。外環まで届かない。半分を過ぎたところで高度が落ちた。
レナが投げた綱束を、グラウが後脚でつかむ。身体がさらに沈む。俺は王域認識を広げ、風坑の壁、グラウ、二本の綱、向こうの石柱の位置を重ねた。
「三呼吸後、右から上昇風が来る! その風で柱の左へ回れ!」
「見えるのか」
「風そのものではない。羽根板の振動が先に変わる!」
一、二、三。
右壁の板が震え、風が吹き上がる。グラウが片翼だけを開き、身体をひねった。綱束が外環の石柱を回る。輪になったところで、彼は放した。レナとユフィがこちらから引き、輪を締める。
新しい命綱が風坑を横切った。
「アルド、そっちへ移って!」
ミーナの指示で、俺は腰綱を新しい綱へ結び直す。片方の前脚しか使えず、結び目がうまく締まらない。風がまた変わり、保守棚が軋んだ。
「俺が行く」とグラウが下から近づこうとする。
「来るな。これくらいできる」
爪が震える。焦るほど革紐が滑る。認めたくないが、俺の指は細かな結び目に向いていない。
「レナ! 結び方を言え!」
「輪を二つ作って、尾側を上から通す。見栄で適当に結ばないで!」
言われたとおりにする。輪は不格好だが締まった。
「全員、一度手を離して!」
ミーナが突然叫んだ。
レナが息を呑む。「離したら落ちる!」
「いまの綱は下向きの風を受けてる。次の横風へ乗り換えないと、縁ごと持っていかれる!」
命綱は安全のために握るものだ。だが、握り続けることが危険へ変わる瞬間もある。俺たちはミーナの風読みを信じた。
「離せ!」
全員の手が綱から離れる。俺とグラウが一瞬、完全に風へ預けられた。腹が縮む。次の瞬間、横から来た風が翼膜を膨らませた。
「いま引け!」
綱が再び張る。俺の身体は落ちず、斜め上へ滑った。保守棚から離れ、出発側の石棚へ腹から転がり込む。遅れてグラウもレナの盾へぶつかるように戻った。
誰も動けなかった。俺は石へ爪を立てたまま、空気を何度も吸った。飛べた歓喜は、転落の恐怖に塗り潰されている。翼があるだけで空を支配できると思った自分が、恥ずかしくて腹立たしい。
ミーナが俺の翼を開き、傷を確かめた。
「翼膜の打撲。裂けてはいない。でも明日は絶対に飛行禁止」
「今日のうちにもう一度なら」
「禁止」
「風の感覚は掴んだ」
「落ちる感覚もね」
反論できない。レナは擦り切れた綱を見て、唇を噛んでいた。
「私たちも悪い。命綱を一本だけで引いた。縁に保護材も置かなかった」
「最初に止めた」と俺は言った。「飛んだのは俺だ。責任まで分けるな」
「責任を一人で抱えるなって、昨日あなたが言ったでしょう」
俺は口を閉じた。自分の言葉が戻ってくるのは、なぜこんなに痛いのか。
救助のあと、俺たちは引き返さなかった。ただし誰も飛ばない。風坑の手前に風周期標を三本立てた。赤布は上昇、青布は横風、骨板の音は下降風を示す。命綱は上下二本にし、石の縁には甲虫殻を割った保護板を当てる。途中の保守棚を広げ、二人が休める幅に補修した。
ミーナが風を測り、グラウが安全な角度を示し、レナとユフィが向こうへ渡した綱を固定する。俺は飛行禁止なので、王域認識で羽根板の振動を読む役に徹した。悔しい。だが俺が落ちたからこそ、どこが危険かは身体で分かる。
二日かけ、風坑には歩いて渡れる吊り籠ができた。籠は一度に二人まで。上昇風が外れた時は途中の棚で止まり、周期標が揃うまで待つ。探索者だけでなく、ポロやエドの担架も通れる道だ。
二日の間、下層の仕事も止まらなかった。
初日の夕方、上昇水路からポロが荷台で上がってきた。背には水袋、干し肉、薬草を詰め、前脚には細長い板を抱えている。
「エドがね、風は目で追わないで音を聞けって。壊れた羽根板は、強い風が来る前に高い音を出すって言ってた」
板には、寝床から動けないエドが炭で描いた風坑の断面図があった。旧式の荷揚げ籠には上下二本の綱が使われ、途中の棚に自動爪があったらしい。俺たちが転落後に考えた仕組みと同じだ。
「最初からこれがあれば、俺は落ちなかった」
「最初から待っていればね」とミーナが言った。
図の端には、エドの乱れた字で《風路の異音を三回記録してから試すこと》と書かれている。俺はその部分を尾で隠そうとしたが、レナに見つかった。
ガンツは下層で、浮力石の使用量を記録しながら補修材を作っていた。水路甲虫の殻を低温の炉で温め、赤尾魔獣の腱と重ねると、軽くて擦れに強い板になる。それをポロが持ってきた。命綱が石縁で切れないように当てると、昨日の革だけの保護よりずっと安定した。
「狩猟はミーナがいないから、卵殻城の近くに限定してる」とポロが報告する。「ユフィが見張って、ガンツが罠を直した。大きい獲物はないけど、洞鼠三匹と食べられる菌苔を採ったよ。食料は三日分のまま減ってない」
上で道を作る者だけが開拓しているのではない。下で水を止めず、食料を減らさず、薬を送る者がいるから、俺たちは二日も風と向き合える。
その夜は保守棚で交代して眠った。風坑は暗くなると音が変わる。昼に温められた石が冷え、上昇風の間隔が長くなるのだ。ミーナは眠らず、骨板の音を数えていた。
「お前も休め」と俺が言う。
「誰かさんが夜中に試し飛びしないよう見てるの」
「翼は痛む。今日は飛ばぬ」
「今日は、ね」
俺は隣へ伏せた。雲の下で風が唸るたび、落ちた瞬間が腹へ戻ってくる。爪が無意識に石を掻いた。
ミーナはからかわなかった。少し間を置き、自分の翼を俺の打撲した翼へ触れない距離で畳んだ。
「怖かった?」
「龍王が風を恐れるものか」
「私は怖かった。綱が切れた時、もう届かないと思った」
胸が詰まる。俺の見栄が、仲間へその恐怖を与えた。
「……俺も、二度目の風が消えた時は怖かった」
言葉にすると、腹の震えが少しだけ収まった。恐怖を認めても翼は消えない。明日の判断が遅くなるわけでもない。
「次は怖さごと測る」と俺は言った。「風の音を三回、綱を二本、見張りを一人。勝手には飛ばぬ」
「約束ね」
翌朝、俺は皆の前でも同じ失敗と停止条件を説明した。王の失敗を隠せば、次にここを渡る者が同じ穴へ落ちる。恥は俺一人で済むが、記録は全員を生かす。
最初の試験で空の水桶を渡し、次に石を積み、最後にレナとユフィが乗った。途中で下降風が来たが、上下二本の綱が籠の回転を止めた。外環へ着いた二人が手を振る。
俺の内側へ、昨日とは違う熱が広がった。
レベル12から13。HP156から164、MP195から205、攻撃50から53、防御51から54、速度38から40。翼で風を受ける感覚は得た。短い距離なら滑るように移れるかもしれない。だが翼膜は打撲し、風を外せば自力では立て直せない。飛行と呼ぶにはほど遠い。
「明後日、低い場所で試す」とミーナが条件をつけた。「綱あり、風速を測る、グラウが見る。勝手に飛んだら一週間禁止」
「王へ条件をつけるとは」
「嫌なら一週間禁止」
「明後日でよい」
外環へ渡ると、石畳の向こうに長い空橋が延びていた。幅は荷台二台分。両側に低い欄干があり、その先には壊れた塔と段々畑が見える。
だが橋の根元が、黒く波打っていた。
近づくと、拳ほどの甲虫が何百匹も石材へ顎を立てている。酸の泡が橋脚から上がり、補強梁には腕が入るほどの穴が開いていた。
一匹がこちらを向く。続いて百の硬い背が、一斉に動きを止めた。
乾いた破断音が響く。
空橋を支える柱の一本が、ゆっくりと雲の底へ傾き始めた。




