第23話 空へ続く水路
エドを卵殻城へ運び込んだ翌朝、俺たちは逆流する水柱の前へ戻った。
本来なら、人間三人との契約はエドを連れ帰った時点で終わっている。出発前、俺は契約石板を寝床の中央へ置き、そのことを確認した。
「お前たちは自由だ。入口まで食料を持たせる。卵殻城の位置を漏らさぬ約束だけは残るが、これ以上働く義務はない」
レナは折れた脚を固定されたエドを見た。熱はまだ高く、ドーラが濡れ布を額へ置き直している。
「エドを運び出すには、上昇水路を安全にする必要がある。入口へ戻るより、上へ抜けたほうが私たちの国には近い」
「では新しい契約を結ぶか」
「その前に聞きたい。あなたは上の遺都を見つけたら、人間を入れないつもり?」
問いは鋭かった。ミーナたちも俺を見る。俺はすぐに「俺のものだ」と言いかけた。まだ見てもいない都市を、龍王の血だけで所有した気になっていたのだ。
「害意を持つ者は入れぬ。種族だけでは決めぬ」
「誰が害意を決めるの」
「俺だ」
レナの眉が上がる。ミーナがため息をつく前に、俺は言い足した。
「ただし、異議は聞く。証拠も確かめる。俺一人が間違えた時は、お前たちが昨日そうしたように止めればよい」
言ってから、王が止められると自分で宣言したことに気づいた。少し威厳を失った気がする。しかしレナは初めて、疑いのない顔でうなずいた。
「なら、エドが移動できるまで協力する。報酬は安全な帰路と、見つけた水路の記録を一部持ち帰る権利。あなたたちの居住区画と備蓄量は書かない」
ガンツが石板へ新しい一行を刻む。ユフィは食料加工を手伝い、ドーラはポロへ発熱用の薬草を教えると申し出た。こちらが救ったから従うのではない。彼女たちは自分たちの目的と条件を示し、もう一度卵殻城に残ることを選んだ。
その選択を確認してから、俺たちは水柱へ向かった。
上昇水路の最奥には、円筒形の縦穴が天井の闇へ伸びている。その中央を、黒い水が轟音とともに上へ流れていた。幅は荷台一台分ほど。水面へ小石を落とすと、沈むどころか跳ね上げられ、たちまち見えなくなる。穴の壁には青白い鉱石が点々と埋まり、脈打つたびに周囲の水を上へ引いていた。
「これに乗れば空へ行ける」
俺は確信を込めて言った。
「いま乗ったら、空じゃなくて天井に埋まるわよ」
ミーナが水柱の脇を流れる砕石を指した。拳ほどの石が吸い上げられ、途中の出っ張りへ激突して粉々になる。昨日エドが見た流れより、さらに勢いが増していた。
ポロは縦穴の前で鼻をひくつかせ、濡れた前脚を壁へ当てた。ガンツは木炭で穴の直径と割れ目を記録する。グラウは目を閉じ、翼膜に当たる風の向きを確かめていた。人間側からはレナ、ユフィ、ドーラが来ている。エドだけは卵殻城の寝床で、折れた脚を固定されて療養中だ。
出発前、エドは熱に浮かされながらも俺の尾をつかんだ。
「水を止めるな。完全に止めると浮力石が冷えて、再起動に三日はかかる」
「ならば勢いだけ弱める」
「簡単に言うなあ。できたら俺は毒溜まりに落ちてない」
悔しそうに笑った顔を思い出す。彼は助けられただけの負傷者ではない。この道の仕組みを知り、失敗した場所を俺たちへ渡した。
ポロが縦穴の周りを一周し、三か所へ小石を置いた。
「水は一本じゃないよ。こっちから冷たい水、下から苦い水、壁の奥から温かい水が入ってる。温かい水だけ、石を通ると上へ行きたがる」
「温かい水脈を絞ればよいのか」
「たぶん。でも、どの壁か分からない」
俺は前脚を壁へつけた。幼竜になってから、鱗越しに熱の差が少し分かる。目を閉じると、冷たい石の中に細い温もりがいくつも浮かんだ。だが縦穴全体が振動し、像が揺れる。
「右に二本、左に一本。いや、左は水ではない。石そのものが温かい」
ガンツが左壁を槌で軽く叩いた。澄んだ音が返る。
「浮力石だ。上流から流れてきて、格子へ詰まっている。これが水を引き上げすぎているのかもしれん」
壁の保守蓋は錆び、石灰で半ば埋まっていた。ガンツが顎形の切削具を差し込む。昨日の水路甲虫から持ち帰った顎だ。硬い縁が石灰を削り、虫素材が早くも工具へ変わる。
「皆、下がれ。蓋を外す」
「中を先に細い穴から見ないの?」とドーラが問う。
「音で分かる。圧は弱い」
ガンツは実直だが、仕事となると自分の感覚を信じすぎる時がある。俺も口を挟もうとしたが、彼はもう最後の留め具へ槌を振り下ろしていた。
蓋が外れた。
次の瞬間、壁から水が爆発した。
「伏せろ!」
俺の声は轟音に消えた。濁流がガンツを跳ね飛ばし、縦穴の中央へ押す。レナが盾を床へ寝かせて受けたが、二人まとめて滑った。俺はガンツの尾へ噛みつく。爪が床を削り、背中の傷が引きつった。
ポロが水へ飛び込んだ。
「奥にもう一枚ある! 弁が折れてる!」
小さな身体が保守穴へ半分吸い込まれる。ミーナがその腰をつかみ、グラウが翼を開いた。
「風を右へ逃がす。水も寄る。三つ数えたらレナは盾を立てろ」
グラウが翼を打つ。一度目は水煙が散っただけだった。二度目、縦穴の上昇気流が横へ曲がり、噴き出す水の先が壁へずれる。
「一、二、三!」
レナが盾を立てる。水は盾の曲面に沿って左右へ割れた。ユフィが綱を投げ、ガンツの胴へ輪を掛ける。俺とドーラが引き、どうにか濁流の外へ出した。
しかし暴走は止まらない。中央の水柱が太り、天井から石片が降り始めた。浮力石へ水が当たるたび、青い光が強くなる。
「蓋を戻せ!」
俺が叫ぶ。
「圧で入らん!」ガンツが吐き捨てる。「奥の弁を閉じるしかない!」
保守穴はポロしか入れない幅だ。中は水で満ち、折れた金具が見える。
ポロの耳が震えた。怖いのだ。深層水蛇に流された時から、強い流れへ入ると身体が固まる。それでも彼は穴の前から退かなかった。
「ぼ、僕が行く。温かい水だけなら、鼻で分かる」
「綱を二本つける」とミーナが即座に言った。「一本は腰、一本は前脚。合図が一回なら進む、二回なら止まる、三回なら引く」
「俺も穴を広げる」とガンツが起き上がる。
「頭を打っている。座れ」とドーラが押し戻した。
「俺が壊した」
「だから次の判断まで壊す気?」
ドーラの言葉に、ガンツの太い爪が止まった。失敗を埋め合わせたい気持ちは分かる。俺も何度も、失敗した直後ほど無茶をした。だが、償いと焦りは違う。
「ガンツは外から弁の形を指示しろ。ポロが手を動かす。俺は王域認識で壁の振動を読む」
ポロは二本の綱を結ばれ、保守穴へ潜った。小さな尾が水煙の向こうへ消える。俺の感覚には、壁内の狭い水路と、その中で震える一点だけが映る。
「あと半歩。左に丸い石がある」
「触った! でも金具が動かない!」
「上へ押してから、右へ回せ」とガンツが叫ぶ。「古い採掘弁と同じだ!」
ポロが一度綱を引く。進む合図。ミーナが少しだけ腰綱を送る。
その時、保守穴の縁から青白い鋏が現れた。手のひらほどの小型蟹が、浮力石の隙間から何十匹も這い出してくる。半透明の殻の中で、青い粒が光っていた。
一匹がポロの前脚につながる綱を挟む。
「虫だ!」
ユフィの矢が蟹を弾く。だが矢尻が浮力石へ当たり、石が強く発光した。水柱が一段太くなり、ポロの身体が穴の奥へ引かれる。
「浮力石を傷つけるな!」とエドの忠告を思い出して叫ぶ。「殻だけを狙え!」
「この大きさを、この水煙で?」
ユフィが歯を食いしばる。二匹目、三匹目が綱へ群がった。
ミーナは床すれすれに翼を打ち、細い横風を作った。蟹の軽い身体だけが壁から剥がれる。グラウの強い風では浮力石まで刺激する。ミーナだからできる細さだ。
レナが盾を傾け、飛ばされた蟹を一か所へ集める。俺は前脚で一匹ずつ押し潰そうとしたが、殻が硬くて滑る。逆に鋏で指の間を挟まれた。
「小さいくせに!」
腹が立ち、尾でまとめて払う。蟹は散ったが、三匹がドーラの薬鞄へ張りついた。青い鋏が革を裂く。
ドーラは鞄を守ろうとして抱え込んだ。そこへ水柱から大きな飛沫が落ち、足をさらう。ガンツが身体で受け止める。
「道具を中央へ置くな。人もだ!」
失敗した本人だからこそ、声に重みがあった。
俺たちは作戦を変えた。蟹を全部倒そうとせず、レナの盾で浅い箱を作り、ミーナの風でそこへ追い込む。ユフィは矢を使わず、弓の先で逃げる個体を戻す。ドーラは鞄を高い棚へ移し、空いた両手で綱を守る。ガンツは水へ足を取られない場所へ石の踏み台を置いた。
一度目は、盾の隙間から半分が逃げた。二度目は蟹が互いの殻へしがみつき、風に耐えた。三度目、俺が尾で床を叩き、しがみついた塊を崩す。ミーナの風が一斉に運び、レナが盾を伏せた。
「いま!」
保守穴の奥で、ポロが弁を回した。
重い音が響き、噴流が半分に落ちる。中央の水柱も細くなった。だが完全には安定しない。流れは強弱を繰り返し、弱い時には水が途中で落ちてくる。
ポロを引き出す。彼は咳き込み、全身を震わせていた。それでも前脚には、弁の位置を記した赤い石粉が握られている。
「できた……けど、これだけじゃ荷台は乗れない。水が急に弱くなったら落ちる」
「ならば強さを段階に分ける」とガンツが言った。「入口、中央、出口に弁を置く。一つが狂っても、残り二つで受ける」
暴走を止めただけでは道にならない。俺たちはその日、縦穴の脇へ仮の足場を組み、卵殻城へ戻った。
内政班の仕事は、探索が終わっても続いた。ポロとガンツは水路の図を描き、ミーナは捕らえた蟹の殻を薬棚へ運んだ。ドーラが殻の内側にある白い膜を煮ると、毒傷の熱を下げる液が取れた。昨日使い切りかけた薬は二回分まで戻る。狩猟班は赤尾魔獣の肉を燻し、食料六日分を確保した。
エドは寝床から図面を見た。
「段階弁は正しい。でも三つを同時に閉じるな。浮力石が一気に冷える」
「一つずつ閉じ、熱を逃がす溝を設ける」とガンツが答える。
「出口には籠をつけて。人より先に石が飛び出す」
脚を動かせなくても、エドの知識は作業を進めた。俺は彼を鑑定したくなったが、熱が下がりきるまでは頼まない。力を見抜く前に、本人が何をしたいかを聞く。それが三日契約で得た最初の教訓だ。
二日目、俺たちは三つの段階弁を設置した。最初の試験では空の木箱を流す。入口で傾き、中央で回転し、出口の籠へ逆さに落ちた。失敗だ。
ミーナが水の回転を読み、箱の左右へ羽根板をつける。グラウが出口の風を横へ逃がす。二度目は箱が壁にぶつかり、板が一枚割れた。三度目、ガンツが弁を開く間隔を三呼吸ずつずらし、ポロが温水脈の変化を合図する。箱は揺れながらも上まで届いた。
三日目には荷台を空で上げ、次に水桶を一つ載せ、最後に俺たちが綱で荷台を支えながら乗った。
水が腹を持ち上げる。足場が遠ざかり、縦穴の壁が下へ流れる。以前なら誰かに運ばれるのが恥ずかしかった。だがこれは、皆で作った道を王が最初に試すのだ。意味が違う。
途中で小型蟹がまた弁へ群がった。今度は慌てない。入口班のレナが一段絞り、中央班のミーナが風で蟹を籠へ流し、出口班のグラウが荷台を壁から離す。ポロは温水脈の揺れを読み、ガンツが予備弁を半分開いた。戦いと修理が、同じ手順の中で動いた。
ポロの身体から淡い光が立つ。
水脈探知は、ただ水の場所を嗅ぐだけではなくなった。冷水、温水、毒を含む水、その流量の変化まで区別している。
「水脈探知、ランクEのLv1だ」と俺は告げた。「お前は道の下にある道を見つけた」
ポロは濡れた顔を両前脚で隠した。
「怖くて、ずっと帰りたかったよ」
「怖くない者が進むのは勇気ではない。帰りたいのに、皆の綱を離さなかった。それを誇れ」
俺が言うと、ポロは泣きながら笑った。
荷台が縦穴の出口を越える。半日かかっていた上層までの道を、これからは物資を載せても半日以内で往復できる。だが浮力石がどれほど消耗するかは分からず、予備もない。ポロは使用前後の温度と水量を毎回記録することにした。
水煙の向こうが明るくなる。
俺たちは雲の中へ出た。
巨大な石の輪が、空に浮かんでいる。外壁はところどころ崩れ、塔の半分は白い雲へ沈んでいた。それでも輪の内側には、橋、風車、水槽、畑らしい段々が幾重にも続いている。死んだ都市ではない。眠ったまま、誰かを待っている都市だ。
風が俺の翼膜を下から持ち上げた。胸が震える。卵殻城は俺たちが生き延びるために作った家だった。あの空の輪は、もっと多くの者が暮らせる場所になるかもしれない。
「見よ。俺の王国にふさわしい」
「まだ入口にも立ってないわよ」とミーナが言った。
その通りだった。都市へ続く風路は壊れ、出口の先には底の見えない空が口を開けている。
俺は翼へ入る風を感じながら、崩れた外環を見上げた。




