第22話 赤い救難印
上昇水路は、名に反して水のない石段から始まっていた。
昼でも薄暗い洞窟の奥に、幅三歩ほどの溝が斜め上へ続いている。昔は水が流れていたらしく、左右の壁は黒く磨かれ、天井から白い石灰の牙が垂れていた。足元には、エドが残した赤い印が十数歩おきに続く。上向きの線、右脚の負傷を示す折れ線、そして時刻を表す短い傷。レナたちが決めた印だ。
俺は捜索班の先頭に立った。
「背中の傷は塞がった。今日から戦闘制限も終わりだ。担架はエドのために空けておけ」
「戦闘制限が終わるのは日没よ」とミーナが言った。
「誤差だ」
「半日は誤差じゃない」
グラウが俺の横を歩き、翼で低い天井との距離を測る。レナは少し後ろで盾を持ち、ユフィとドーラが綱と担架を背負っている。昨日まで互いに武器を向けていた者同士だ。足音が重なるだけで、まだ肩のあたりが落ち着かない。
それでも俺は自分の脚で進みたかった。卵だった頃は、危険が来ても転がるか、誰かに運ばれるしかなかった。いまは四本も脚がある。多少短くても、王が歩くには十分だ。
百歩進んだ。
二百歩で息が荒くなった。
三百歩目の段差に前脚を掛けた時、胸の奥が焼けるように痛み、爪が石を滑った。
「休むぞ」
俺は威厳を保ったまま宣言した。誰も返事をしない。振り返ると、全員がずっと前から俺を待っていたらしく、五歩下で立ち止まっていた。
「どうした。遅いぞ」
「アルドが止まったから止まったの」とミーナが答えた。
ドーラが俺の胸へ手を当てる。鼓動を数えたあと、無言で折り畳み担架を開いた。
「断る」
「傷が開いたら薬を一回使う。エドの分が減る」
「しかしこれは負傷者用だ」
「いまのあなたも負傷者」
レナとユフィが担架の左右を持った。俺は後ずさったが、背後をグラウの翼に塞がれた。
「右腕候補たる者が王を売るな」
「体力と見栄を取り違える王には休息が要る」
正論を低い声で言われると、逃げ道がない。俺は担架へ腹をつけた。幼竜一頭が乗るには少し短く、尾が地面すれすれに垂れる。
「これは運ばれているのではない。高所から道を観察しているのだ」
「私の腰より低いけどね」
ユフィの余計な一言は忘れぬ。
担架に乗ったことで、赤い印を落ち着いて見られた。最初は十五歩おきだったものが、やがて十歩、七歩、五歩と狭くなる。塗料の高さも腰の位置から膝の位置へ落ちていた。エドは進むほど脚を使えなくなり、這いながら印を残したのだ。
「この三角は?」
俺が壁の小さな記号を指すと、レナの表情が変わった。
「水。飲めない水があるという警告」
「こっちは丸が二つ」とユフィが言う。「生存者二人?」
「違う。書き損じだ」
レナは指で塗料の流れをなぞった。「右手が震えて、一つの丸を閉じられなかった。熱が出ている」
さっきまで笑っていたユフィが黙った。担架を持つ手に力が入る。
水路は落盤区へ入った。天井から崩れた灰色の岩が通路を埋め、上部に獣一匹が通れるほどの隙間だけが残っている。岩の下からは腐った卵に似た臭いが吹き出していた。
ミーナが鼻をひくつかせる。
「奥に毒溜まり。風は上から下。ここを広げたら臭気が全部こっちへ来る」
レナが盾を置き、岩へ肩を当てようとした。俺は昨日見た鑑定の断片を思い出す。
「待て。お前は先頭を譲れ」
「でも、この中で盾を使えるのは私だけ」
「だからだ。崩れれば盾ごと埋まる。狭い隙間にはミーナとユフィが入り、向こう側から綱を通せ。グラウは風を溜めて毒気を押し返す。レナは後ろで全体を見ろ。俺とドーラが岩を一本ずつ外す」
レナは反論しかけ、口を閉じた。盾を地面へ置く。昨日、俺が文字どおりだと誤読した条件が、こんな形で試されるとは思わなかった。
「崩れる兆候があったら、私が止める。全員、私の声を聞いて」
彼女の号令で作業が始まった。
ミーナが腹を石へ擦りつけて隙間を抜け、ユフィが弓を背から外して続く。向こうで二人が綱を固定する間、グラウは翼をゆっくり畳み、羽根の間に流れ込む風を溜めた。俺は王域認識を岩へ広げる。目では一つの山にしか見えないが、感覚の中では重みを支える三本の石と、その隙間に挟まった細かな瓦礫が分かれた。
「右下の細い石からだ」
俺が爪を差し込む。動かない。もう一度力を入れると、背中がつっぱった。
ドーラが横から鉄のへらを差し込んだ。
「一人でやらない」
「分かっている。いま手伝わせようとした」
二人で石を抜いた瞬間、上の岩が拳一つ分沈んだ。
「止めて!」
レナの声が飛ぶ。全員が手を離した。俺はさらに押さえようとしたが、彼女が俺の首皮をつかんで後ろへ引く。次の瞬間、さっきまで俺の頭があった場所へ、平たい岩が落ちた。
喉が冷たくなる。先頭に立っていたら、また判断より先に身体を出していた。
「上を支える」とレナが言った。「私は盾を置いても、守れなくなるわけじゃない」
「うむ。俺の鑑定は正しかった」
「解釈したのは私たち」
そこは聞こえなかったことにした。
支柱を二本入れ、岩を一つずつ綱で引く。半刻かけて、担架がぎりぎり通る穴が開いた。向こう側のミーナが尾を振る。
「足跡がある。右脚を引きずってる。まだ上へ続いてるわ」
俺たちは担架を畳み、さらに奥へ進んだ。毒臭は濃くなり、舌の奥が痺れ始める。壁の赤印は、三歩おきになった。最後の印には、下向きの矢印が添えられていた。
水路の床が突然途切れる。
眼下には、すり鉢状の空洞があった。深さは十歩。底には黄緑色の液体が溜まり、泡が割れるたび白い煙が立つ。中央の石柱に、一人の男がしがみついていた。茶色の髪は汗で額へ張りつき、左脚は不自然な方向へ曲がっている。右脚ではなく左脚だ。印を描く手が震え、線を逆に折ったのだろう。
「エド!」
レナの声に、男のまぶたがわずかに動いた。
「……遅い。印、見落としたかと思った」
冗談を言う声に力がない。石柱の周りでは毒液が少しずつ上がっていた。天井から落ちる黒い水が溜まり続けている。
「いま行く!」
レナが飛び降りようとする。俺は尾で彼女の足を払った。
「盾を置けと言ったばかりだ。毒溜まりへ盾ごと沈む気か」
「じゃあ、どうするの」
俺たちは空洞を見渡した。石柱まで八歩。綱を投げるには近いが、エドには結ぶ力がない。毒液へ触れずに誰かが渡る必要がある。
グラウが翼を広げた。
「俺が風で綱を運ぶ。ミーナが壁を走って柱へ渡り、輪を掛ける」
「翼はまだ滑空までよ」とミーナが言う。
「飛ばない。風だけを押す」
ユフィが矢へ細い糸を結んだ。「まず糸を射る。太い綱を引かせる。二重に張れば、ミーナの足場になる」
レナは一瞬で役割を組み直した。
「ユフィ、射線。グラウ、横風を止める。ミーナ、輪を掛けたら脈を見て。ドーラは引き上げ後の固定。アルドはここで周囲を読む」
「俺も前へ出る」
「背中を開かせたら、エドの薬が減る」
悔しいが、同じ言葉には二度負ける。
ユフィの矢が飛び、石柱の割れ目へ刺さった。エドが震える手で糸をつかむ。そこへ太い綱を結び、こちらから送る。グラウの風が綱の腹を持ち上げ、毒液から離した。
ミーナが走った。壁を三歩、綱を二歩。翼を一度打って石柱へ着地する。エドの胸へ輪を回し、合図の尾を上げた。
その時、空洞の壁がざらざらと動いた。
岩だと思っていた黒い塊が、六本の脚を開く。水路甲虫だ。犬ほどの大きさのものが一匹、二匹、毒煙の向こうから次々に現れる。顎は鋏のように横へ開き、濡れた甲殻が油色に光っている。
最初の一匹が、エドを吊るす綱へ噛みついた。
「右壁、綱を狙っている!」
俺が叫ぶ。ユフィの矢が甲殻へ当たり、弾かれた。敵はひるまず、顎を閉じる。綱の繊維が半分切れた。
グラウが溜めた風を一気に放つ。甲虫は壁から剥がれたが、毒液へ落ちる直前に翼殻を開き、ミーナへ飛びついた。ミーナはエドを抱えたまま避けられない。
考えるより先に、俺は縁から跳んだ。
八歩は届かない。だが甲虫には届く。空中で前脚を振り、敵の横腹へ体当たりした。二体でもつれ、石柱の根元へ落ちる。毒液の飛沫が腹の鱗へ触れ、焼ける痛みが走った。
甲虫の顎が俺の前脚を挟む。鱗がきしむ。俺は噛みついて顎を押さえたが、背後から別の個体が翼へ乗った。
「アルド、伏せて!」
ユフィの二射目が頭上を通り、翼上の甲虫の脚の付け根へ刺さる。今度は甲殻を狙わず、隙間を狙った。敵が反り返る。俺は尾で払い、毒液へ落とした。
だが最初の一匹は顎を離さない。前脚の感覚が薄れる。俺は無理に引かず、敵の押す方向へ一歩出た。体勢を崩した甲虫の腹へ、レナが上から盾を落とす。平たい縁が脚節を折った。
「いま引け!」
レナの号令で全員が綱を引く。エドとミーナが石柱から浮く。残る甲虫が綱へ群がった。
俺は前脚を挟んだ一匹を盾代わりに押し出し、群れの進路を塞ぐ。酸臭い液が敵の口から飛び、肩にかかった。熱い。視界が白くなる。それでも退けば綱が切られる。
グラウが二度目の風を絞り出した。強さは最初の半分もないが、綱を揺らすには足りる。甲虫の顎が空を噛む。ユフィが脚の隙間を射ち、レナが一匹ずつ盾で弾き落とす。
最後に俺は、前脚を挟んでいた個体の首を石柱へ打ちつけた。一度では止まらない。二度目で甲殻にひびが入り、三度目に顎が開いた。
「上がれ、アルド!」
ミーナはもう縁へ引き上げられている。垂らされた予備綱へ噛みつき、俺は壁を蹴った。毒液から甲虫が跳ね上がり、尾へ顎を伸ばす。レナが盾で受け、ユフィの矢がその口内へ刺さった。
全員が縁へ転がり込んだ時、誰もしばらく声を出せなかった。
ドーラだけが動いた。エドの濡れた服を切り、折れた左脚を添え木で固定し、首筋を冷やす。ポロとガンツが作った骨の添え木が、ここで役に立った。
「熱が高い。脚の傷から入ってる。でも脈はある。帰れば助けられる」
レナが顔を覆い、肩を震わせた。ユフィは座り込んだまま、笑うのか泣くのか分からない息を吐く。ミーナは前脚についた毒を舐めようとして、ドーラに叩かれた。
俺は傷だらけの前脚を見た。敵の数を先に読めなかった。綱を一本へ頼りすぎた。飛び込んだこと自体は間違いではないと思いたいが、予備綱がなければ俺まで毒溜まりへ残っていた。
「反省は帰ってから」とレナが言った。「いまは全員、生きて戻す」
俺はうなずいた。先頭を譲った彼女は、さっきまでより隊長らしく見えた。
帰路へ移る前に、俺たちは残った物を床へ並べた。太い綱は一か所が半分まで裂け、予備綱は俺を引き上げて毛羽立っている。ユフィの矢は残り九本。ドーラの薬はエドへ一回、俺の毒傷へ半回使えば、あと半回分しかない。水は六人で半日分だった。
「急いで走れば夕方前に戻れる」とユフィが言う。
「エドの脚が揺れる」とドーラが反対した。「熱も上がる。落盤区で一度休ませたい」
「でも甲虫が追ってくるかもしれない」
二人の声が尖る。助けられた安堵が大きいぶん、次に失う恐怖も大きいのだ。レナはすぐ命令せず、毒溜まりと帰路を見比べた。
「アルド、後ろの数は読める?」
王域認識を空洞へ伸ばす。毒液の下で動く硬い影が三つ。壁の穴にも二つ。だが縁を越えて追ってくる気配はない。
「五体は生きている。こちらへ上がるより、落ちた仲間を食っている。臭いは不愉快だが、いまは追わぬ」
「なら、速さより固定を優先する。落盤区の手前で一度だけ休む。ユフィは先行して支柱を確認。グラウは後方の風、ミーナは毒臭。私は担架の前、アルドは横で敵を読む」
昨日まで何もかも自分で受けようとしたレナが、六つの役を迷わず分けた。盾を置くとは、守る責任を捨てることではない。一人で抱え込む形を捨てることだったのだ。
「俺の条件解読が導いた成果だな」
「最初は武器を捨てろって言ったでしょう」
「細部をいつまでも覚えているな」
エドが担架の上で、かすかに笑った。意識が戻ったのだと分かり、レナの唇が震える。彼女は名を呼びかけたが、声にならなかった。代わりにエドの手首を握り、すぐ離した。
「帰るまでが救助よ。寝てて」
「隊長命令なら……仕方ない」
その短いやり取りに、三日分の恐怖と後悔と安堵が詰まっていた。俺は見ていないふりをして、担架の横へ立った。
エドを担架へ乗せ、来た道を戻り始める。今度は俺が歩いた。胸の息苦しさは残る。それでも同じ距離を進んでも、朝ほど脚が重くならなかった。戦いの中で、力の使い方が身体へなじんだのだ。
熱が内側を巡り、数値の変化が浮かぶ。
レベル11から12。HP148から156、MP185から195、攻撃47から50、防御48から51、速度36から38。大きな跳躍ではない。だが、歩いて戦える時間が確かに伸びた。反対に、毒を浴びた腹と肩は痛み、長距離を走れるわけでもない。
落盤区を抜ける直前、エドがうっすら目を開けた。
「あの水柱……見たか」
「毒溜まりの上か?」
「水が、空へ落ちる。あれを直せば……遺都まで、半日もかからない」
彼の視線の先で、黒い水が一筋、天井へ吸い上げられていた。細い流れは途中で太くなり、石の縦穴を轟音とともに逆流していく。
救出は終わった。だが、エドが命を削って見つけた道は、俺たちの頭上にまだ続いていた。




