第2話 翼猫との交換条件
翼音は、夜のあいだに三度遠のき、三度近づいた。
俺はそのたびに声を潜め、亀裂を壁へ押しつけようともがいた。だが溝にはまった卵が都合よく回るはずもない。左側の傷は冷たい空気へさらされたまま、外から獣の血の匂いが濃くなっていく。
星骸洞に朝があるのかは分からない。遠い天井の割れ目から青白い光が一筋落ちてきた頃、翼音はついに俺のすぐ上で止まった。
爪が岩をこする。
低い唸り声。
「そこにいるのは分かっている。姿を見せよ」
言ってから、隠れているのは自分のほうだと気づいた。
返事の代わりに、鼻先が殻へ触れた。湿った息が亀裂をなぞる。俺の全身が硬くなる。昨夜の鼠よりずっと大きい。匂いを嗅ぐ位置が卵の上半分にある。
「食べるなら、やめておけ。俺は龍王家の正統な――」
「卵が喋った!」
甲高い女の声とともに、何かが後ろへ跳んだ。翼が岩壁を打ち、ばさばさと砂が降る。
俺も驚いた。
話が通じる相手だ。それだけで胸の奥が緩み、昨夜から張り詰めていた恐怖が一気にこぼれそうになる。だが、ここで泣きついては王族の威厳がない。
「ようやく言葉を解する者が来たか。名乗ることを許す」
「は?」
短い一音に、冷えた刃のような警戒がこもっていた。
天井の光が強くなり、亀裂から外の輪郭が少しだけ伝わる。俺にはまだ目がない。それでも音と熱で、相手が低く身構えているのが分かった。
四足。体は俺より一回り大きい。肩から左右へ薄い翼が伸び、左の翼端が岩に触れている。左前脚からは、規則的に温かな滴が落ちていた。
「先にそっちが名乗りなさい。妙な術を使ったら割るわよ」
「俺はアルド。龍王家の正統血統にして、いずれ天下を統べる者だ」
沈黙が落ちた。
「……熱で中身が傷んでるの?」
「なぜ誰も信じぬ!」
思わず叫ぶと、相手が鋭く息を吸った。前脚が一歩下がる。俺の声で殻が震えたのを、攻撃と勘違いしたらしい。
「動かないで」
「動きたくても動けん」
「嘘。昨日、ここで大きな崩落があった。洞鼠の死骸もある。あんたがやったんでしょう」
「うむ。王の知略でな」
「じゃあ、動ける」
「転がることを移動と呼ぶなら、少しはな」
また沈黙があった。今度はわずかに鼻を鳴らす音が混じる。笑いかけたのを隠したのかもしれない。
「私はミーナ。翼猫族よ」
ようやく名乗った声は若い。だが疲れがにじんでいた。左前脚から落ちる血の間隔が、先ほどより短くなっている。
ミーナは俺の周囲を回り、石に潰された洞鼠の死骸へ近づいた。肉を引く音がする。彼女はこれを追ってきたのだろう。
「それを食うのか」
「食べなきゃ死ぬもの」
「血を流したまま食べれば、別の獣が寄ってくるぞ」
爪音が止まった。
「分かってる。だから持っていく」
強がった声だった。死骸を引こうとして、左脚が石を滑る。小さなうめきが漏れた。
「傷を見せよ」
「嫌」
「治せるかもしれん」
「手もない卵が?」
痛いところを突かれた。
「俺には鑑定がある。少なくとも、何に傷つけられたかは分かる」
ミーナはすぐに近づかなかった。俺の周囲をもう一周し、落石斜面と亀裂を確かめ、逃げ道を選んでから二歩だけ寄る。
「私の何が見えるの」
「今は傷の状態だけを見る。種族や技能まで勝手に暴くつもりはない」
「見ようと思えば見られる?」
「分からん。昨日目覚めたばかりだ」
正直に答えると、ミーナの警戒がほんの少し緩んだ。万能を装うより、知らないと言ったほうが信用されるらしい。王としては複雑だ。
彼女が前脚を俺の殻へ触れさせた。柔らかな毛の下で、熱が脈打っている。俺は傷だけを知りたいと意識した。
殻の中心から細い熱が伸びる。
【鑑定結果】
対象:ミーナの左前脚
状態:裂傷・異物混入・感染初期
原因:石爪獣の爪片
必要処置:異物除去、清浄な水での洗浄、固定、休息
文字を読み上げると、ミーナの喉が小さく鳴った。
「感染って、もう毒が回ってるの?」
「初期だ。だが爪の欠片が残っている。まず抜かねば悪化する」
「水がない」
「俺も水を探している」
「卵が飲むの?」
「孵化には要るだろう。それに亀裂を洗いたい」
ミーナは脚を引き、少し離れた。考えている。俺を運べる彼女と、水場を知らない俺。治療法を知った俺と、傷を自分ではよく見られない彼女。互いに足りないものがはっきりしていた。
「取引ならする」
ミーナが言った。
「私があんたを水音のするほうへ引く。あんたは傷の悪化を教える。それだけ」
「一晩、互いを守ることも加えよ」
「どうして?」
「血の匂いが強すぎる。今すぐ移動すれば、追跡される。引き具を作り、日が落ちて匂いが散るまでここを守るほうがよい」
「あんたを守る義理はない」
「俺にも、お前を守る義理はまだない。だから交換条件だ。お前は俺を運び、俺は近づくものを音で見張る。夜明けまで。その先は改めて決める」
ミーナは長く黙った。傷ついた脚を舐めようとして、鑑定結果を思い出したのか途中で止める。
「命令じゃないのね」
「王の提案だ」
「それ、ほとんど命令のつもりで言ってるでしょう」
「……条件を変える自由は認める」
ようやく、ミーナが小さく笑った。
「一晩だけ。夜明けになったら終わり。私が危険だと思ったら、あんたを置いて逃げる」
「よかろう。俺も、お前が俺を食おうとしたら落石のほうへ転がる」
「それ、二人とも潰れるわよ」
「相打ちを恐れぬ覚悟を示したのだ」
「考えてなかっただけでしょう」
失礼な翼猫だ。だが、声に先ほどまでの殺気はなかった。
俺たちは洞鼠の死骸を解体した。正確には、ミーナが爪と牙で解体し、俺が用途を口出しした。
肉は食料。皮は細長く裂いて引き具。肋骨は傷を固定する添え木。腱は結び紐。内臓は血の匂いを遠ざける囮にする。
「ずいぶん細かいのね」
「獲物を得たなら、すべて国の資源として使うのは当然だ」
「国って、どこ?」
「今から作る」
ミーナの爪が止まった。
「本気なの?」
「当然だ。俺は龍王だからな」
「卵なのに」
「今は、だ」
彼女は呆れたように鼻を鳴らしたが、皮を捨てず、俺の言った幅に裂いた。
引き具は簡単にはできなかった。一本目は細すぎて、俺を動かした瞬間に切れた。二本目は太くしたが、殻の尖った部分へかかって滑った。三本目でようやく、卵の下へ皮を回し、蔓で輪を作ってミーナの胴へつなげた。
彼女が前へ出る。俺の底が岩をこすった。
「重っ……!」
「龍王の威厳の重みだ」
「中身、石じゃないでしょうね」
「もっと丁重に運べ」
「左脚を怪我してるって、誰が教えたと思ってるの!」
二歩進んだところで、ミーナが引き具を外した。傷が開き、血の滴が岩へ落ちる。
俺は自分の考えの浅さを悟った。運べるかどうかだけを考え、彼女がどれほど痛むかを見ていなかった。
「すまぬ」
「……今、何て?」
「聞こえなかったならよい」
「聞こえた。もう一回言って」
「王は同じ謝罪を繰り返さぬ」
「はいはい」
ミーナは座り込み、息を整えた。俺たちは引き方を変えた。彼女が前から引くのではなく、右肩で押し、俺は声の振動で少しずつ体を揺らす。斜面では石をかませ、休むたびに肋骨の添え木を締め直す。
時間はかかったが、俺たちは水音へ向かって洞窟を進み始めた。
星骸落下孔は、天井の一部が丸く抜け落ちた巨大な縦穴だった。光の筋を離れると、すぐに暗闇へ戻る。足元には黒い岩と銀色の砂が混じり、ところどころ星屑のように淡く光っている。右の壁は滑らかで、左には獣一匹が通れる裂け目が何本も口を開けていた。
ミーナは十歩進むたびに立ち止まり、耳を動かした。俺も殻へ届く振動を探る。彼女が見える危険と、俺が感じる危険は違う。二人で確認すると、死角が少し減った。
「止まれ」
俺が言うと、ミーナの体が強張った。
左の裂け目から、爪音がする。
「一匹。昨日と同じくらいだ」
「匂いで寄ってきたのね」
ミーナは引き具を外し、俺を壁際へ押した。だが左前脚をかばう姿勢では、踏み込みが浅い。
洞鼠が闇から飛び出した。
昨日の個体より細いが、長い前歯が青白い光を反す。鼻先を血で濡らし、迷わずミーナの左側へ回り込んだ。傷の匂いを狙っている。
ミーナが右前脚の爪を振る。洞鼠は身を伏せて避け、傷ついた脚へ噛みついた。ミーナは翼を開いて後退したが、左翼が壁へ当たり、逃げ場を失う。
「こっちだ、下郎!」
俺はありったけの声を出した。
殻の反響に洞鼠の耳が跳ねる。獣は一瞬だけ俺を向いた。しかし、動かない卵より血を流す獲物を選び、再びミーナへ向き直る。
足りない。
俺は自分から岩へ体をぶつけた。ごん、と大きな音が通路へ響く。洞鼠が今度こそ振り返った。
「お前の仲間を潰したのは俺だ!」
意味は通じなくとも、挑発は通じた。洞鼠が甲高く鳴き、俺へ突進する。
「馬鹿、避けなさい!」
「できるならそうしておる!」
洞鼠の前歯が迫る。昨夜の恐怖が蘇り、声が裏返った。
だが、牙が殻へ届く直前、横からミーナが飛びかかった。
彼女の右前脚が洞鼠の首を押さえ、翼で体勢を崩し、喉へ牙を立てる。洞鼠は暴れてミーナの腹を後脚で蹴った。彼女は一度離れ、相手が起き上がる前に背後へ回る。今度は首ではなく後脚の腱を切った。
洞鼠が転ぶ。
なおも前歯を鳴らして反撃する。ミーナは傷ついた左脚を引き、右の爪で鼻先を叩いた。獣がひるんだ瞬間、首へ二度目の牙を食い込ませる。
激しい振動がしばらく続き、やがて止まった。
「動かぬか、確かめろ」
「分かってる」
ミーナはすぐに離れず、洞鼠の呼吸と脚の反応を見た。それから首をもう一度噛み、完全に息の根を止めた。
俺はようやく力を抜いた。
「無茶するわね」
ミーナが荒い息の合間に言った。
「作戦だ。俺が引きつけ、お前が仕留める」
「噛まれる寸前、悲鳴を上げてたけど」
「敵を油断させた」
「そういうことにしておく」
彼女は笑ったが、すぐ顔をしかめた。左前脚の包帯代わりの皮に、新しい血がにじんでいる。
俺は勝利を喜べなかった。敵の向きを変えることには成功した。だが、ミーナが間に合わなければ、また亀裂を噛まれていた。彼女も、最初に首を狙って仕留めきれず、腹を蹴られた。
「次は、狭い場所で翼を開くな。壁に当たっていた」
「次は、逃げられない卵が囮にならないで」
「ならば先に地形を選ぶ。お前が跳べる幅と、俺を隠せる窪みを探す」
ミーナは少し目を見開いた気配を見せた。
「反省はするのね」
「当然だ。王は敗因を他人だけに求めぬ」
「まだ勝っただけでしょう」
「勝ったときこそ調べるのだ。負けたあとでは遅い」
口にしてみると、それは自分への戒めでもあった。
二匹目の洞鼠も、肉、皮、骨に分けた。すぐ食べる分だけをミーナが腹へ入れ、残りは皮で包んだ。血の多い内臓は元の裂け目の奥へ投げ、追跡の匂いをそらす。
戦闘で開いた傷には、乾いた苔を直接当てず、清潔な皮を重ねた。水場へ着くまでの応急処置だ。
再び進み始めると、水音は確かに近くなった。だが、通路は二つに分かれていた。右は水滴の反響が大きい。左は弱いものの、冷たい風が流れてくる。
「右ね」
「待て。音が大きすぎる。深い穴で増幅されているかもしれぬ」
ミーナは鼻を左右へ向けた。
「左から泥の匂いがする。でも、何か小さい獣の匂いも」
「ならば左だ。水と生き物がいる」
「危険かもしれない」
「右は落ちれば終わりかもしれん。左は交渉できる可能性がある」
「襲ってくる可能性もあるけど?」
「そのときは、お前が戦い、俺が声援を送る」
「置いていくわよ」
「冗談だ」
半分は。
左の通路へ入ると、岩はしだいに湿り始めた。ミーナの足裏が濡れた泥を踏み、かすかな水音が近づく。俺の殻の亀裂にも湿った空気が触れた。
やがて、岩のくぼみに浅い水たまりが見つかった。だが水面には白い膜が張り、腐った臭いがする。
「飲むな」
「分かってるわよ」
ミーナは悔しそうに水面を見た。目の前に水があるのに、傷を洗うことも飲むこともできない。
「もっと奥へ行く。流れている水を探すぞ」
「契約は夜明けまでよ」
天井から届く光はもう弱くなっていた。俺たちは移動と戦闘に丸一日近く使っていたらしい。
「ならば夜明けまで、ここより安全な窪地を探す。それで契約は終わりだ」
自分で言いながら、胸の内が冷えた。
ミーナが去れば、俺はまた動けない卵に戻る。水を見つけても運べない。敵が来ても転がるしかない。
引き止めたい。だが、助けてもらったから臣下になれと命じるのは違う。彼女には彼女の目的がある。
「……そうね」
ミーナの返事も、少しだけ遅かった。
俺たちは水たまりから離れた乾いた窪地を選び、引き具を岩へ結んだ。ミーナは入口側、俺は奥側。洞鼠肉を間に置き、互いに背中を預ける形で夜を迎えた。
「アルド」
暗闇の中で、ミーナが初めて俺の名を呼んだ。
「何だ」
「龍王っていうのは信じない。でも、傷のことは、ありがとう」
「礼には及ばん。取引のうちだ」
「そういう言い方しかできないの?」
「王族だからな」
「やっぱり信じない」
それきり、彼女は静かになった。
俺も眠りかけた頃、荷物の皮がかすかにこすれた。
ミーナではない。彼女の呼吸は入口側から聞こえる。
小さな足音が、洞鼠肉を包んだ皮のそばにある。鼠よりずっと軽い。足は四本。鼻を鳴らし、結び目を器用にほどいている。
「ミーナ」
俺が囁くと、彼女の翼がぱっと開いた。
小さな影は肉の包みをくわえ、通路の奥へ走り出した。泥の上に、丸い足跡が連なっていく。
「盗まれた!」
ミーナが跳ね起きる。
「追うぞ。あれは水のある場所を知っている」
「食料を取り返すのが先!」
「どちらもだ。契約終了まで、まだ少しあるだろう?」
俺が言うと、ミーナは一瞬だけ黙り、それから引き具を肩へかけた。
「本当に、偉そうな卵」
だが彼女は、俺を置いていかなかった。




