第1話 星骸洞の卵
目を覚ました、と気づくまでに、ずいぶん時間がかかった。
まぶたが開かない。指も動かない。胸が上下する感覚さえない。それなのに俺の意識だけは、冷えた闇の中へぽつんと投げ出されていた。
死んだはずだ。
そこまでは覚えている。だが、どう死んだのかを思い出そうとすると、記憶は白い光に焼かれたように途切れた。名前も、暮らしていた場所も曖昧なのに、自分が一度死んだという確信だけが腹の底に残っている。
腹がどこにあるのかも分からないが。
「……誰かいるか」
声を出したつもりだった。
ごうん、と世界が鳴った。
自分の声が硬い壁にぶつかり、何重にも反響して戻ってくる。耳で聞いたのではない。全身を包む壁が震え、その震えを内側から感じ取ったのだ。
俺は息を止めた。やはり胸は苦しくならない。
「待て。これは、棺か?」
また、ごうん、と響いた。
棺にしては狭すぎる。肩も腰も壁に触れている、というより、手足そのものが存在しない。意識を四方へ伸ばしてみると、滑らかな曲面が俺を隙間なく囲んでいる。上はわずかに尖り、下は丸い。体をひねろうと力を込めると、世界ごとほんの少し傾いた。
嫌な予感がした。
「俺は……壺か?」
尊厳に関わる問題だった。転生したことより、壺になった可能性のほうが受け入れがたい。
もう一度力を込める。ころ、と外側の小石が動いた音が殻越しに伝わった。殻。そう考えた瞬間、ばらばらだった感覚が一つにつながった。
丸い体。硬い外皮。手足なし。呼吸なし。
「卵ではないか!」
叫びが内側で増幅され、頭のない頭がくらりとした。外では何か細かな砂が崩れたらしい。右下から、さらさらという振動が返ってくる。
卵。しかも、かなり大きい。声を出せる卵など聞いたことはないが、壺よりは生物に近い。生物なら、いずれ孵る。孵れば手足も生えるだろう。
ならば慌てる必要はない。
俺は王者のように構えて待つことにした。
十数える前に、何も見えず、何もできず、冷たさだけがじわじわ染みてきて、猛烈に不安になった。
「いや、待てというのは愚策だ。状況を把握するのが先だ」
誰に向けるでもなく言い直した。怖くなったのではない。戦略的変更である。
暗闇へ意識を凝らす。前世で身につけた覚えはないのに、知りたいと強く願うと、胸の代わりに殻の中心が熱を帯びた。そこから細い糸のようなものが外へ伸び、自分自身をなぞっていく。
鑑定。
なぜか、その言葉だけは最初から知っていた。
【鑑定結果】
名前:アルド
種族:龍王卵(個体ランクF)
レベル:1
状態:正常・魔力低下
技能:鑑定:ランクF Lv1
備考:龍王家の正統血統。孵化条件は未達成。
「龍王家……だと?」
冷え切っていた内側に、火が灯った。
アルド。それが今の俺の名だ。龍王家の正統血統。詳しい記憶はない。だが、その言葉には不思議なほどの実感があった。俺はただの卵ではない。いずれ天を統べ、地上の民を守る龍王となる者だ。
「ふ、ふははは! なるほど、そういうことか。ならばこの闇も、王に課された最初の試練というわけだな!」
高笑いは途中でかすれた。鑑定に使った熱が急速に失われ、殻の内側が重くなる。魔力低下と表示されていたのに、勢いで使い切ったらしい。
最初の試練で、いきなり配分を間違えた。
「……今のは威力確認だ。失敗ではない」
誰も聞いていないのが救いだった。
静かになると、外の世界が少しずつ分かってきた。
上から落ちる水滴。かなり遠い。左側には時折、冷たい風が細く通る。右下は崩れやすい砂と砕石。真下には平らで硬い岩があり、俺の重みを支えている。音が一度で返る方向と、遅れて返る方向がある。おそらく俺がいるのは、天井の高い洞窟の窪地だ。
水滴の間隔を数え、風の方向を覚え、砂が崩れた位置を殻の内側へ刻むつもりで意識した。右下は危険。左上は風。上方遠くに水。
目がなくとも、王は領地を知らねばならない。
そう自分を鼓舞したとき、風とは違う振動が届いた。
かり、かり。
乾いた何かが岩を引っかいている。
振動は小さい。だが、少しずつ近づいてきた。止まり、また進み、俺の周囲を半周する。鼻を鳴らす湿った音まで殻へ伝わった。
「何者だ」
問いかけると、動きが止まった。
返事はない。
代わりに、殻の左側へ鋭い衝撃が走った。
がりっ。
痛みはなかった。だが、自分の体を削られる音だと理解した途端、存在しない背筋が凍った。
「無礼者! これは龍王の卵であるぞ!」
がり、がり、がり。
相手は王族の権威をまるで解さない。むしろ声を出すたび興奮し、前歯を殻へ押しつけてくる。土と獣臭い息が、薄い殻越しに伝わってきた。
見えなくとも分かる。鼠だ。犬ほど大きいかもしれない洞窟の鼠。俺を食料だと思っている。
逃げなければ。
力を込めた。卵はわずかに揺れるだけで、平らな岩の窪みから出られない。もう一度。右へ傾き、戻る。左へ傾き、戻る。鼠の爪が岩を踏みしめ、噛みつく位置を変えた。
かちり、と細い音がした。
殻に亀裂が入った。
恐怖が一気に膨れ上がった。孵化ではない。こんなところで食い破られれば、手足を得る前に終わる。
「やめろ! 俺はまだ何も成しておらん!」
叫ぶと、右下の砂がさらさら崩れた。
その音に鼠が反応し、噛むのをやめる。小さな足音が右へ二歩動いた。
俺は息を潜めた。先ほど声を出したときにも、砂が崩れた。内側で増幅された声が殻を震わせ、その振動が周囲へ伝わるのだ。
右下には砕石がある。
鼠が戻ってきた。今度は亀裂を見つけたらしい。前歯の先が同じ場所へ食い込み、薄くなった殻をこじ開けようとする。
「聞け、獣よ。今なら見逃してやる」
震え声になった。鼠は当然、聞かない。
「聞かぬならば……王の怒りを知れ!」
全力で声を殻へぶつけた。
卵が大きく震える。右下の砂礫が音を立てて滑り、拳ほどの石がいくつも転がった。鼠が飛び退く。重い石が一つ、斜面を跳ねながら加速し、獣の足音へ向かった。
ぎゃっ、と短い悲鳴。
手応えがあった。
「ふはは! これが龍王の――」
石の転がる音が止まるより早く、別の爪音が岩を駆けた。
鼠は避けていた。
怒り狂った鳴き声がすぐ近くで炸裂する。落石は後脚をかすめただけらしい。今度は迷わず亀裂へ食らいつき、頭を左右に振った。
殻の左側が軋む。亀裂が枝分かれして伸びた。
「う、うわあああ! やめろと言っておるだろうが!」
恐怖で何も考えられず、俺はただ暴れた。右へ、左へ、前へ。卵の底が窪みの縁をこする。だが、勢いが足りず戻される。
最初の落石は避けられた。同じことをしても駄目だ。
声で石を落とすのではない。鼠が亀裂へ噛みつくなら、こちらの左側へ体重がかかる。その力を使えばいい。
次の瞬間、俺は抵抗をやめた。
鼠が拍子抜けしたように動きを止める。やがて前脚を殻にかけ、亀裂へ深く歯を差し込んだ。
今だ。
俺は鼠の引く方向へ自分から傾いた。底が窪みの縁を越える。鼠は獲物が急に動いたため、後ろへよろめいた。
「王を運ぶ栄誉をくれてやる!」
卵と鼠が一緒に斜面へ転がった。
世界が上下も分からぬほど回転する。殻へ石がぶつかり、そのたび白い痛みが内側へ響く。鼠が俺を離して逃げようとしたが、斜面の砂が足を取った。俺たちは右下の砕石へ突っ込み、積み重なっていた岩をまとめて崩した。
轟音。
何か柔らかなものが石の下で潰れ、甲高い悲鳴が途切れた。
俺はさらに二回転して、壁際の浅い溝へはまり込んだ。
静寂が戻る。
すぐには勝ったと思えなかった。殻の亀裂から冷気が針のように入り込み、全身が細かく震えている。鼠が起き上がる音を待った。十、二十、五十と数えても、聞こえるのは遠い水滴だけだった。
「……見たか」
返事はない。
「龍王の策に、敵はない」
声が情けないほどかすれた。
助かった安堵が押し寄せる。泣きたかった。目も涙もないのに、殻の内側が熱くなった。
俺は運がよかっただけだ。最初の落石で仕留めたと思い込み、確かめもせず勝ち名乗りを上げた。そのせいで亀裂を広げられた。次は、敵が動かなくなったと確認するまで勝ったと思わない。
それから、同じ手を二度続けない。動けないなら、敵の力と地形を使う。
王になる者が、最初の敵から学ばぬわけにはいかない。
崩れた石の向こうから、血と獣の匂いが漂ってくる。食料にはなるかもしれないが、今の俺には食べ方さえ分からない。水もない。体を温める熱源もない。亀裂も直せない。
勝ったところで、問題は一つも消えていなかった。
わずかに戻った意識で、俺はもう一度だけ自分を鑑定した。視界の奥に、先ほどはなかった文字が途切れ途切れに浮かぶ。
孵化条件。
安全な孵化環境。十分な熱量。格上存在との決定的経験。
三つとも、空白だった。
「格上とは何だ。今の鼠でも十分に恐ろしかったぞ」
抗議したが、鑑定は答えない。
俺は亀裂の位置を左側の危険として刻み、落石斜面を右下の武器として覚えた。遠い水滴、左から来る風、鼠の死骸。これが今の領地のすべてだ。
ずいぶん小さな領地である。
だが、ゼロではない。
俺は眠気に引かれる前に、今できることを一つずつ試した。
まず、亀裂を下へ向けられないか。溝の右壁へ重みをかけ、反動で左へ揺れる。三度目で半回転しかけたが、尖った頭が岩へ当たり、元の位置へ戻った。無理に続ければ傷が広がる。移動は諦めた。
次に、周囲の温度を調べた。意識を殻の表面へ薄く広げると、風が来る左上は冷たく、鼠の死骸がある右下はまだ温かい。真下の岩は冷えているが、一定の間隔でごく弱い熱が脈打っていた。地の底を何かが流れているのかもしれない。
俺は声を小さく、低く、高く変えてみた。低い声は床へ広く伝わり、高い声は近くの石だけを震わせる。大声なら落石を起こせるが、魔力と体力をひどく消耗する。何より、遠くの獣まで呼び寄せる。
先ほどは生きるために叫んだ。次は、必要なときだけ使わねばならない。
試すたびに返ってきた振動を、俺は殻の内側の地図へ足していった。真下は硬い床。右下は崩落斜面。左は風の裂け目。正面遠くは広い空洞。後ろは壁まで近い。自分にしか見えない、ひどく粗い地図だった。
それでも、何も知らなかった時よりましだ。
鼠の死骸から血が流れ、砂へ染みていく振動も感じた。匂いは俺には食欲より危険を告げた。このままなら別の獣が来る。死骸を動かせない以上、落石斜面とは反対側へ逃げたい。だが俺は溝から出られない。
悔しさがこみ上げた。
龍王の血統だと知ったばかりなのに、一匹の鼠の死骸すら片づけられない。声だけは偉そうで、手も足もなく、助けを呼ぶ相手さえいない。もし次に鼠が二匹来れば、同じ手は通じないだろう。
「……怖くなどない」
口にした途端、それが嘘だと分かった。
怖い。次に殻を噛まれたら耐えられるか。孵る前に割れたらどうなるのか。誰にも見つけられないまま、冷たい洞窟で意識が消えるのではないか。
震えを押し殺そうとして、やめた。恐怖まで隠せば、危険を見落とす。王とは何も恐れない者ではなく、恐れている仲間を守れる者のはずだ。今は仲間どころか自分一人だが、自分を守れなければ話にならない。
「怖いから、備える。それでよい」
言い直すと、ほんの少しだけ落ち着いた。
水滴の間隔を百まで数えた。遠くの風が強まる周期も数えた。亀裂へ冷気が入るたび、痛みの強さを確かめた。急に悪化してはいない。魔力はほとんど空だが、時間とともに殻の中心へ微かな温かさが戻ってくる。
今夜を越せば、もう一度だけ鑑定できるかもしれない。
鑑定で腹は満ちない。水も湧かない。しかし、知らずに死ぬより、知って選ぶほうがいい。俺が最初に持った力は剣でも炎でもなく、見る力だった。
ならば、見えない今こそ使い方を覚える。
やがて壁の向こうを、重いものが這う振動が通り過ぎた。鼠より遅く、一歩ごとに床が沈むような響きだった。俺は叫ばず、殻を岩へ預けたまま動きを待った。血の匂いへ曲がってくれば落石を使う。通り過ぎるなら刺激しない。
振動は一度止まった。生温かい風が亀裂へ触れ、巨大な鼻が遠くで鳴る。恐怖で声が喉元までせり上がったが、俺は黙った。しばらくして足音は正面の空洞へ遠ざかっていった。
戦わずに済む敵とは戦わない。それも立派な勝ちだ。
俺は亀裂を直接岩へ当てないよう、細かな砂を揺すって傷の下へ集めた。一粒ずつ動かすような作業で、何度も失敗した。だが最後には薄い砂の盛り上がりができ、冷気の入り方がわずかに弱まった。
落石を起こすほど派手ではない。それでも今の俺には、傷を守る壁を築いた最初の内政だった。
「よい。ここを最初の一歩とする。水を得て、火を得て、孵ってみせる」
宣言した直後、洞窟の遠くで空気を打つ音がした。
ばさり。ばさり。
翼音だ。
それは不規則で、片方だけが岩へこすれている。風に混じって、鼠より鋭い獣の匂いと、生温かい血の匂いが近づいてきた。
俺は亀裂を壁側へ向けようと、必死に体を揺すった。
新たな何かは、まっすぐこちらへ向かっていた。




