第19話 四本脚は王に難しい
目を開けると、世界には色があった。
竜印炉の火は赤く、白灯茸は青白い。ミーナの毛は灰色一色ではなく、耳の内側が薄桃色で、目は磨いた若葉のような緑だった。ポロの背には淡い縞が三本あり、ガンツの角には細かな金の筋が走り、グラウの黒い羽は光の角度で紫に見える。
転生三十日目。孵化から一晩が過ぎた。
俺は孵化床の上で、自分の前脚を何度も開いていた。赤金色の指が四本。曲げれば爪が石を引っ掻き、伸ばせば掌が見える。殻の中で想像するしかなかった「手」が、本当に俺の意思で動いている。
「もう十回目よ」
ミーナが隣で欠伸をした。肩の裂傷には薬布が巻かれている。
「何度見ても俺の手だ」
「朝からずっと、そう言ってる」
「偉大な瞬間は繰り返し確認すべきなのだ」
俺は胸を張ろうとした。
前脚が震えた。
後ろ脚の位置が分からなくなり、身体が横へ傾く。翼を開いて支えようとしたが、濡れた小さな翼は床を叩いただけだった。俺はそのまま孵化殻の山へ顔から突っ込んだ。
乾いた殻が派手な音を立てて崩れる。
ポロが驚いて駆け寄り、ガンツは石板から顔を上げ、グラウは嘴を翼の陰へ隠した。
「笑うな」
「まだ誰も笑ってないわ」
ミーナが俺の脇へ前脚を入れ、起こしてくれる。
「グラウの肩が震えている」
「傷が痛むのだ」
グラウは真顔で答えた。だが嘴の端から、く、と音が漏れた。
「俺は孵化直後だぞ。四本も脚が増えれば扱いに時間がかかるのは当然だ」
「昨日まで一本もなかったものね」
ミーナの声はからかっていたが、俺を支える腕は優しい。彼女も水蛇戦で傷つき、全員が治療中だ。水は安定したものの、薬は昨夜で一包しか残っていない。
「今日の目的を確認します」
ポロが試験用の木札を持ってきた。
「歩く。止まる。噛む。尾を動かす。翼を開く。短く跳ぶ。痛くなったら終わり。火は吐かない」
「最後がおかしい」
俺は即座に抗議した。
「龍であるぞ。火炎の確認こそ最優先だ」
「喉も肺も孵化したばかり」
ミーナが俺の鼻先を押す。
「昨日、咆哮しようとして『きゅ』で終わったでしょう」
「あれは周囲への配慮だ」
「今朝、水を飲んでむせたのも?」
「水の方が龍王の喉へ入る礼を知らなかった」
ガンツが試験場の石箱を並べながら言った。
「火は最後だ。歩けぬ者が火を吐けば、自分の尾を焼く」
「俺はそこまで愚かではない」
「では、まず歩いて見せろ」
挑まれては退けない。
俺は四本の脚を床へ置いた。前右、後ろ左、前左、後ろ右。転生前、人が歩く時に手足をどう動かしていたか思い出し、それを四脚へ当てはめる。
前右を出す。
後ろ左を出そうとしたら、尾が勝手に右へ振れた。重心が反対へ逃げ、前左が浮く。
「待て、脚が命令を聞かん」
「脚は動いてる。命令が多すぎるのよ」
ミーナが後ろから尾を押さえた。
「足元じゃなく、行きたい場所を見て。身体は後からついてくる」
「王は全身を統御するものだ」
「だから転ぶの」
悔しいが、試してみた。炉前の水皿を見る。どの脚を出すか考えず、そこへ行くとだけ決める。
前脚が一歩。後ろ脚が続く。尾は左右へ小さく揺れ、身体の傾きを戻した。
二歩。三歩。
世界が自分の力で近づいてくる。
荷台に引かれず、誰かに抱えられず、俺が進んでいる。
胸がいっぱいになった。
「見たか! 歩け――」
振り返った瞬間、前脚同士が絡んだ。
水皿へ頭から突っ込む。
冷たい水が鼻へ入り、俺は激しく咳き込んだ。ポロが背を叩き、ミーナは笑いを堪えず、ガンツは床へ刻んだ。
「直進三歩。振り返り失敗」
「最後は書かなくてよい!」
「失敗こそ残すのだろう」
自分が決めた規則である。消せとは言えなかった。
歩行試験は距離を増やさず、停止と方向転換を繰り返した。三歩進み、一度止まる。尾を先に曲げ、頭、前脚、後ろ脚の順で向きを変える。最初は一周するだけで息が切れたが、十回目には石箱へぶつからず戻れた。
次は噛みつき。
ガンツが水蛇の脱皮殻を丸め、木の棒へ固定した。硬化前の薄い部分でも、俺の幼い牙より厚い。
「首だけで噛むな」
ガンツが指示する。
「前脚で押さえ、身体を引く。牙が滑ればすぐ離せ」
「俺の牙は滑らん」
大口を開け、殻へ噛みつく。
つるりと滑った。
勢い余って顎が床へ当たり、牙の根元が痺れる。
「言ったでしょう」
ポロが心配そうに覗き込む。
「今のは表面の硬さを測った」
二度目は前脚で殻を押さえた。爪が薄い鱗の継ぎ目へかかる。顎だけでなく、肩から身体を後ろへ引く。ぱきりと音がして、脱皮殻が裂けた。
水蛇戦でミーナたちが何度も狙った継ぎ目。今の俺なら、補助を受ければ薄い鱗を割れる。だが厚い部分へ牙を立てても傷はつかなかった。
「柔らかい場所限定。連続は三回まで」
ガンツが記録する。
「顎が疲れた顔ね」
「疲れていない」
「口が閉じてないわよ」
顎の筋肉が震え、半開きのままだった。俺はさりげなく水を飲むふりで隠した。
尾の試験はさらにひどかった。
尾を右へ振れば、尻が左へ動く。強く振ると後ろ脚が浮く。石柱を叩こうとして、自分の前脚へ巻きついた。
グラウが見かねて言った。
「尾は武器と思うな。今は舵だ」
「空を飛べぬお前に、尾の使い方が分かるのか」
言った直後、彼の傷ついた翼が目に入った。
グラウの目が冷える。
「すまん」
俺はすぐに頭を下げた。今度は脚を開いていたので転ばなかった。
「お前は飛べない今も、風を溜め、俺たちを守った。教えてくれ」
グラウはしばらく黙り、やがて俺の尾を嘴で持ち上げた。
「身体が右へ倒れる前に、尾を左へ出す。倒れてからでは遅い。風を読むのと同じだ」
俺は目を閉じ、身体の傾きを感じた。右の後ろ脚を浮かせる前に、尾を左へ置く。重みが釣り合う。反対も同じ。
「できた」
「まだ立っただけだ」
「王の偉業は立つところから始まる」
グラウの嘴がわずかに上がった。
翼は開くだけで終わった。背中から伸びる二枚は、広げても俺の胴ほどしかない。羽ではなく薄い膜と鱗ででき、付け根の筋肉がすぐに痛んだ。
「飛行は?」
「不可だ」
俺が問う前にグラウが答えた。
「風を受ける面積が足りない。骨も柔らかい。無理に跳べば折れる」
「では、短距離跳躍」
「一歩分だけだ」
床へ線を二本引き、間を一歩にする。俺は後ろ脚を曲げ、尾で重心を取った。
蹴る。
身体が浮く。卵だった頃にはあり得なかった高さから、床が下へ離れる。
喜びで翼を開いた瞬間、空中で身体が回った。
着地は前脚、肩、顔の順。鼻先を石へぶつけ、目の奥に星が散る。
「翼を使わない!」
ミーナが駆け寄る。
「飛べるかと思った」
「思うだけで飛べたら、グラウは苦労してないでしょう!」
「今のは跳躍自体は成功です」
ポロが木札を見せる。
「着地失敗。翼を開くと回転。次は尾を下げて、前脚と後ろ脚を一緒に着ける」
二度目は成功した。高さはポロの背ほど、距離は一歩半。だが着地後にすぐ方向転換しようとすると脚がもつれた。
三度目は行わなかった。
「まだできる」
「呼吸が速い」
ミーナが胸へ耳を当てる。
「停止基準よ。試験は終わり」
「火が残っている」
「駄目」
「せめて息を集めるだけだ」
「駄目」
「龍王が火を吐けるか分からぬまま一日を終えるなど」
「アルド」
ミーナの声が低くなる。引くべきだと分かっている。しかし四本脚で歩けた歓喜が、俺を大きく見せていた。水蛇を倒し、孵化し、数値も大きく上がった。少しくらいならできる。
「一度だけだ。熱を感じなければ止める」
許可を待たず、俺は炉のない壁へ向いた。腹へ空気を入れ、胸の奥の魔力を喉へ集める。
熱は来なかった。
代わりに喉が痒くなった。
「けほっ」
白い煙が一筋。
次の瞬間、激しく咳き込み、昨日飲んだ栄養液を床へ吐いた。胸が痛み、脚から力が抜ける。
ミーナが身体を支え、ポロが水を持ってくる。ガンツは火の出なかった壁ではなく、俺の呼吸を見ていた。
「試験中止だ」
誰も笑わなかった。
「すまん」
咳の間に言った。
「停止基準を破った」
「どうして待てなかったの?」
ミーナの目は怒りより悲しみを帯びている。
「強くなったところを見せたかった」
「誰に?」
「お前たちに。俺を守って傷ついたから、もう守られるだけではないと」
ポロが水皿を置いた。
「歩けただけで、すごかったです」
ガンツも記録板を示す。
「昨日まで運ばねば一歩も動けなかった。今日は自分で十歩進み、薄い鱗を割った。それで足りんのか」
グラウは傷んだ翼を見せる。
「早く証明しようとして壊せば、また守られる時間が延びる」
三人の言葉が痛いほど正しい。
「火炎試験は喉の痛みが消え、薬が二包以上あり、全員が許可してから」
俺は自分で木札へ爪痕をつけた。
「能力試験は担当者の許可なく行わない。俺自身も例外にしない」
午後は休息へ変わった。
ミーナは肩の治療。ポロは水蛇肉を乾燥庫へ運び、保存食を六日分へ整える。ガンツは水蛇の鱗で外壁を補修し、グラウは人間三人の位置を見張る。俺は孵化床へ伏せ、動けない代わりに目と耳で拠点を見た。
以前、卵の殻響は壁から返る振動を点として捉えた。今は目、耳、鼻、脚裏、角の芽へ、別々の情報が入ってくる。炉の熱。保存庫を通る風。貯水槽の水音。外壁を叩くガンツの木槌。北の見張り穴にいるグラウの爪音。
俺は目を閉じた。
五人の位置が、暗闇の中に浮かぶ。
ミーナは孵化床の右二歩。ポロは保存庫へ続く通路、十二歩。ガンツは外壁、二十歩。グラウは北の高台、三十五歩。
見ていないのに分かる。
【鑑定結果】
技能成立:王域認識:ランクE Lv1
効果:拠点内で、同意して行動を共にする仲間の位置と大まかな移動方向を把握する
制限:現在は卵殻城の一室と接続通路まで。敵味方の判別や思考の読取は不可
「皆の位置が分かる」
俺が告げると、ミーナは警戒して耳を立てた。
「何をしてるかまで?」
「いや。位置と動く方向だけだ。お前が俺の悪口を考えていても分からん」
「考えてること前提なのね」
「王に隠し事は」
言いかけて止めた。
「……位置を知られたくない時は言え。対象から外す」
ミーナは少し驚き、頷いた。
その直後、北の高台にいたグラウが急に動いた。王域認識の中で、黒い点がこちらへ速く近づく。
「侵入!」
グラウの叫びが届くより先に、俺は立ち上がった。
水蛇の血と孵化臭に引かれ、拳ほどの洞爪獣が六匹、外壁の隙間から入ってきた。灰色の甲殻、鋭い前脚、跳ねる後ろ脚。単体はF級だが、狙いは負傷者と殻の残りだ。
「俺が行く!」
歩ける。噛める。強くなった。今度こそ見せられる。
俺は先頭へ突進した。
三歩目で洞爪獣が横へ跳ぶ。曲がり切れない。俺は空のまま石箱へ肩からぶつかった。
「直進しかできてない!」
ミーナの声。
洞爪獣二匹が背後へ回る。尾で払おうとして、逆に身体が傾いた。一匹の前脚が脇腹の柔らかい鱗をかすめる。
痛みで頭が冷えた。
一人で追うな。位置を知る力は、自分が全部倒すためではない。
目を閉じる。ミーナは右、グラウは上、ポロは後ろの水路、ガンツは左の外壁。
「ミーナ、右から二匹を中央へ! グラウ、上から出口を塞げ! ポロは水を薄く流して床を滑らせろ! ガンツ、左の隙間に鱗板!」
「最初からそうしなさい!」
ミーナの風が二匹を押す。洞爪獣は踏ん張ろうとするが、ポロが流した水で脚を滑らせた。グラウが空の風袋を落とし、逃げ道を塞ぐ。ガンツの鱗板が左へ立つ。
俺は敵を追わず、進路の先へ立った。
一匹が正面から跳ぶ。前脚で押さえ、首を低くして噛む。薄い腹殻が割れる。二匹目は尾へ回ったが、位置は王域認識で分かる。振り向かず、尾を舵にして身体だけ半歩ずらす。敵は俺を外し、ガンツの鱗板へぶつかった。
ミーナが仕留める。
残る四匹は群れず、二方向へ散った。グラウが「上二」と叫び、ポロが「水路へ一」と返す。俺は声を重ねず、聞いた位置を皆へ共有した。
外壁側の二匹はガンツの板とミーナの爪で倒す。水路側の一匹はポロが桶を伏せて閉じ込めた。最後の一匹は殻の山へ潜り、死んだふりをした。
俺が近づくと飛び出す。
さっきなら突進した。今度は前脚を止め、尾で殻を一枚だけ払う。洞爪獣が避けた先へ、グラウの嘴が待っていた。
戦いは終わった。
俺の脇腹に浅い傷。ミーナたちは新しい傷なし。使ったのは水桶半分と鱗板一枚。薬を使うほどではない。
「最初の突進は最悪」
ミーナが断じる。
「曲がれないのに敵を追った。仲間の位置が分かる力を、自分が先に着くために使った」
「認める」
「途中からはよかったです」
ポロが桶の下を確認する。
「声を聞いてから、敵の行く先に立ちました」
ガンツは壊れた鱗板を持ち上げた。
「敵一匹に設備一枚。次は板を固定せず、繰り返し使える溝へ差す」
グラウは俺の翼を見た。
「飛べない。火もない。長く戦えない。だが味方の位置が分かれば、今の身体でも進路を塞げる」
戦後の反省を試験表へ加えた。直進は五歩まで。方向転換後は一度止まる。跳躍は一戦一回。噛みつきは柔らかい部位へ三回まで。火炎は禁止。王域認識は指示を減らすために使い、仲間の判断を上書きしない。
洞爪獣の肉は少なく、食料一食分。甲殻はガンツが鱗板の留め具へ回す。前脚の刃は菌床の細い根を切る道具になる。小さな戦いでも、狩猟と内政へ戻す。
水蛇戦から残した最後の一包は、ミーナの肩、グラウの翼、ガンツの尾へ薄めて使った。治療後、薬棚は空になった。
俺たち全員の傷は軽くなっているが、次に誰かが深く裂かれれば止血布しかない。ポロは午後から薬床へ入り、ミーナは薬茸を探す狩りを明朝に組んだ。ガンツは身体試験表を孵化床の壁へ固定する。
群れ捜索用の箱には薬二回分と保存食三日分が揃った。あとは俺が横穴を歩けるか、城を誰に任せるかを決めれば出発できる。ポロは石札の条件を一つずつ消し、最後の二つだけを残した。
夕暮れ、人間三人が北の入口へ近づいた。
王域認識では捉えられない。仲間ではなく、同意もないからだ。だが目と耳には、金属の擦れる音と慎重な足取りが届く。
俺は自分の脚で入口を向いた。
その時、外から巨大な翼音がした。
影が入口を横切り、石を一つ落とす。床が揺れた。
赤い尾羽。
以前、俺たちの荷台を狙い、グラウの翼を傷つけ、食料を捨てて逃げるしかなかった飛行魔獣だ。
そいつは人間三人を獲物として、卵殻城の前哨へ降下していた。
俺は四本の脚で立ち、震える尾を床へ置いた。
昨日までの俺なら、逃げるしかなかった。
今日の俺は飛べず、火も吐けず、曲がるだけで転ぶ。
それでも、もう殻の中にはいない。




