第17話 孵化床を守る夜
人間の靴跡は三つあった。
転生二十七日目の朝、卵殻城から北へ続く乾いた通路。濡れた泥の上に、踵のある細長い跡が等間隔で残っている。ミーナの前脚より長く、ガンツの足より細い。爪も肉球もなく、底に格子の模様が刻まれていた。
一つは深く、一つは軽い。最後の一つだけ歩幅が乱れ、右へ引きずった線が続いている。
「三人。重い荷物を持つ者、軽い者、右脚を傷めた者」
ミーナが匂いを嗅いだ。
「昨夜から今朝。血の匂いは薄い。ここで止まって、卵殻城の方を見てた」
「追うぞ」
俺は即座に言った。
人間だ。転生してから初めて、自分の前世と同じ種族が近くにいる。言葉は通じるのか。外の国はどうなっているのか。龍王家を知っている者がいるかもしれない。
何より、こちらを見て去った理由が分からない。敵なら仲間を呼びに戻る。味方なら、なぜ声をかけない。
「誰が追うの?」
ミーナの質問で、俺は止まった。
「お前とグラウが」
「私は狩猟と外周見張り。グラウは飛べない。二人で離れたら、卵殻城にはポロとガンツと、割れかけたあなたしか残らない」
「ではガンツも」
「孵化床の二重壁は誰が作る」
ガンツが淡々と問う。
「水蛇は昨夜も外壁を叩いた。決戦用の弁と罠も未完成だ」
「ぼくは栄養液を作らないと」
ポロも言った。
「白灯茸を移すのは今日です。遅れると、アルドさんの殻が先に割れるかもしれません」
グラウは三つの足跡の先を睨んでいる。
「追跡はしたい。だが、あちらが三人とは限らん。靴跡を残した三人の後ろに、十人いるかもしれない」
未知の人間と、目前の水蛇。
両方を追えば、どちらにも負ける。
俺の殻の内側で、小さな爪が亀裂を押した。昨夜より明らかに強い。熱、栄養、安全区画は孵化床の支援条件だ。それだけでは孵化できず、格上へ決定的な経験を得る条件がまだ残っている。逆に今、不意に殻が割れれば、俺は変態中に感覚も指示も失う。
「追わない」
口にすると、前世へつながる扉を自分で閉めるような寂しさがあった。
「孵化床と水蛇対策を優先する。人間は外周から観測するだけだ。罠は仕掛けるな。敵意がないと示す印を残す」
「どんな印なら通じる?」
ポロが聞く。
俺は考えた。文字が同じとは限らない。竜の印を描けば脅しに見える。
「赤い布を三角に折り、その下へ水と包帯を置く。傷ついた者を助ける印だ。武器は置かん」
「水を分けるの?」
ポロの声が揺れた。代替水は二日分しかない。
「一杯だけだ。飲用ではなく傷を洗う量。受け取られなければ日暮れに戻す」
「毒を疑われるかも」
ミーナが言う。
「なら俺たちが先に同じ桶から飲んだ跡を残す。濡れた布と、使っていない布を並べる」
人間への救難印はミーナとグラウが設置した。二人は追跡せず、足跡から十歩離れた横穴へ赤布、水、包帯を置き、卵殻城側へ戻る道には石を三つ積んだ。グラウは高い棚から人間が戻るか見張る。
その間、卵殻城は四つの仕事を同時に進めた。
第一は決戦準備。ガンツが石噛みの牙で罠の留め具を補強し、水流弁へ二重の柄を付ける。ポロの力だけで閉まらなければ、退避杭へ結んだ縄を全員で引ける形だ。
第二は孵化床。白灯茸二株から搾った栄養液へ、温水鱗の粉と菌炭を混ぜる。炉の熱を直接当てず、床下の管へ通して石全体を温める。
第三は防壁。ガンツが孵化床の周囲へ二重の石壁を作る。外壁は水圧を横へ逃がす斜面、内壁は砕石を詰めた厚い円。二つの間に空間を残し、外が崩れても内へ直撃しない。
第四は交代表。ミーナが狩猟、対人見張り、水蛇見張り、孵化中の護衛を時間ごとに割り振る。
「俺にも役目を寄越せ」
俺は床の中央から抗議した。
「あなたは休む」
「それは役目ではない」
「孵化前に共鳴を使わず、殻をこれ以上割らない。最重要の役目よ」
「殻響で壁の外は見られる」
「一刻ごと。ずっと見ない。魔力が減ったら栄養液を作っても変態へ入れないでしょう」
グラウが交代表へ一本、太い線を引いた。
「アルドが無断で鑑定か殻響を使ったら、次の一刻は俺が荷台ごと孵化床へ固定する」
「なぜお前までミーナ側なのだ」
「お前の側だからだ」
言い返せなかった。
午前、最初の問題が起きた。
孵化床の温度が上がらない。炉の熱管は赤くなっているのに、中央の石は冷たいままだ。
ガンツが床板を外すと、管の途中へ白い結晶が詰まっていた。凝結水に含まれた石灰が、熱で固まったのだ。
「水をそのまま使ったのが悪い」
ポロは耳を伏せた。
「菌炭を通したから、大丈夫だと思いました」
「飲めることと、管を通ることは別だ」
ガンツは責めずに答えた。
「細い布で石の粉を取る。管はまっすぐでなく、途中に掃除口を作る」
「時間は?」
「半日」
俺は焦った。殻の爪がまた動く。水蛇の衝撃は時折、遠い雷のように壁へ響く。
「炉の出力を上げれば、詰まりを溶かせないか」
「石灰は熱で硬くなる」
ポロがすぐ返す。
「前に炉を暴走させた時みたいになります」
自分の失敗が、こういう時だけよく使われる。
「分かった。掃除口を作れ。俺は待つ」
「待つと言いながら揺れてるわよ」
狩りから戻ったミーナが俺を前脚で押さえた。
「これは爪が勝手に」
「あなたの見栄も勝手に動くものね」
彼女は小さな洞魚二匹と、吸水性の高い灰苔を持ち帰った。洞魚は夕食と明日の保存食。灰苔は防壁の間へ詰め、水を吸わせる。
午後、孵化床の温度がようやく上がった。
ポロが栄養液を浅い溝へ流す。乳白色の液が床を一周し、俺の殻へ温かな魔力を送る。亀裂の痛みが少し和らぎ、内側の爪がゆっくり開いた。
【鑑定結果】
名称:龍王卵の孵化床
状態:孵化床の支援条件を整備中
熱支援:達成
栄養支援:達成
安全区画支援:外壁未完成
決定的経験:未達
変態移行:待機可能、開始非推奨
「二つ揃った」
ポロが嬉しそうに言う。
「あと壁だけです」
俺も喜びかけた。その時、北の見張りにいたグラウが石鈴を一度鳴らした。
人間が戻った合図だ。
全員が動きを止める。俺は殻響を使いたくなったが、交代表の約束を守った。グラウが自分の目で見て、戻るのを待つ。
しばらくして、彼は赤い布切れを嘴に咥えて帰ってきた。置いた水は半分減り、包帯はなくなっている。代わりに、布の下へ磨かれた銅貨が一枚あった。
「敵意はなさそう?」
ポロが尋ねる。
「少なくとも、罠は置いていない。三人は高い岩棚からこちらを見ている。弓を持つ者が一人、短い剣が二人。傷ついた者は座っている」
「こちらへ来る気は?」
「今はない。水蛇の音に怯えている」
銅貨を鑑定すると、人間の交易用貨幣とだけ出た。王国名までは読めない。
「追わない判断は正しかったわね」
ミーナが言う。
「彼らも今は、私たちより水蛇を怖がってる」
「観測、救難、返礼。次に接触だ」
俺は銅貨を石棚へ置いた。
「だが決戦が先だ。人間には赤布をもう一枚置き、今夜ここへ近づくなと示す。水路側に黒い石、反対に白い石を並べる」
伝わる保証はない。それでも何も示さず戦いへ巻き込むよりよい。
夕方、外壁が完成した。
ガンツは最後の楔を打ち、ポロが灰苔へ水を含ませる。ミーナは外側に三本の見張り線を張り、触れれば石鈴が鳴るようにした。グラウは交代表を孵化床の入口へ固定した。
「熱、栄養、安全区画。孵化床の支援条件」
俺は一つずつ確認する。
「三つとも揃った」
胸の奥から熱が込み上げた。十七日間、手も足もない殻で転がり、運ばれ、助けられてきた。この壁の内側でなら、ようやく身体を得られる。
「まだよ」
ミーナが俺の浮かれた声を止めた。
「水蛇を倒して、流れを戻して、全員が傷を治せる水を確保してから。変態中のあなたを濁り水で洗うつもり?」
「分かっている」
孵化床の支援条件は揃った。だが孵化条件そのものは未達だ。開始に必要な格上への決定的経験と、変態を支える竜脈の力が足りない。
日が沈むと、五人は配置についた。
ガンツは決戦用の顎罠と水流弁を最終確認。ポロは薬三包、代替水、退避杭。ミーナは水蛇側の見張り線。グラウは人間側と孵化床の間。俺は中央で休み、殻響は一刻ごとのみ。
ポロの群れ捜索用の薬箱は、北の退路側へ移した。決戦に勝って横穴が開けば持ち出す。負ければ箱ごと退避する。どちらでも、群れを探す目的だけは失わない配置だった。
最初の一刻は静かだった。
二刻目、北の岩棚で人間の小さな灯りが動く。赤布の警告を見たらしく、それ以上近づかない。
三刻目、水蛇側の見張り線が一本切れた。
ミーナが前脚を上げ、全員を静止させる。
壁の向こうから、水ではない匂いが流れ込んだ。金属を溶かしたような刺激臭。
「腐食水!」
ポロが叫ぶ。
黒緑の液が外壁の下から染み出した。触れた石が泡立ち、表面から崩れる。水蛇は力で壁を砕くのではなく、溶かしにきたのだ。
「外壁を閉じろ!」
俺が命じる。
ガンツが遮断板を落とす。だが腐食水は板の下を回り、二重壁の間へ入った。灰苔が液を吸って黒く膨らむ。
「苔を外せ!」
ミーナが爪をかけるが、腐食した苔が糸を引き、前脚へまとわりつく。
「触るな、風で剥がせ!」
グラウが風袋を持ち上げようとする。
「それは決戦用です!」
ポロが止めた。
一袋を使えば、明日の作戦から一つ減る。だが使わなければ安全区画が溶ける。
「風袋は使わない」
俺は判断した。
「吸わせた苔を壁ごと切り離せ。ガンツ、外壁の下段を落とせ。ポロ、菌床の隔離槽を入口へ。ミーナは風刃を石だけへ当てろ」
「外壁が一枚なくなるぞ」
「腐食水を抱えた壁は盾ではない。毒の塊だ」
ガンツが留め楔を木槌で打ち抜く。ミーナの細い風刃が石の継ぎ目を切る。外壁下段が灰苔ごと倒れ、待ち構えた隔離槽へ滑り込んだ。
しかし腐食水は止まらない。空いた隙間から内壁へ向かう。
ポロが栄養液用の管を見た。
「孵化床の温水を逆に流します! 腐食水を薄めて排水溝へ押せます」
「栄養条件が下がる」
俺の口から反射的に出た。
ポロは怯えながらも、俺を見返した。
「床を守るための栄養液です。使わずに壁が溶けたら、全部なくなります」
その通りだ。
「やれ!」
ポロが弁を反対へ回す。温かな乳白色の液が壁の下を走り、黒緑の腐食水とぶつかった。白い蒸気が上がる。液は灰色へ薄まり、ガンツが開いた排水溝から隔離槽へ流れた。
水蛇はさらに圧を上げた。排水溝が溢れかける。
「二つ目の槽を!」
「処分槽は一つしかありません!」
「保存庫の空桶を使え。後で捨てる!」
ミーナとグラウが桶を運び、ガンツが溝を二股へ割る。ポロは弁を半分閉じ、栄養液を使い切らないよう流量を落とした。一度は腐食水が内壁へ触れ、石が拳一つ分崩れた。ガンツが自分の尾で穴を塞ぎ、鱗を焼かれながら楔を打つ。
「尾を離せ!」
俺が叫ぶ。
「楔が入るまでだ!」
三打目で石板が固定される。ガンツが尾を引くと、先端の鱗が赤く爛れていた。
やがて水蛇側の圧が弱まった。腐食水が流れ込まなくなる。
俺たちはすぐに喜ばなかった。ミーナが匂いを確認し、ポロが床の液を採取し、俺が鑑定する。毒性が安全域まで下がった場所だけ、乾いた灰を撒く。隔離槽二つは蓋をし、旧採掘穴へ運ぶ印を付けた。
被害は外壁下段、灰苔半分、栄養液三分の一、保存桶一つ。ガンツの尾は軽い腐食傷。内壁は一か所損傷したが、孵化床そのものは無事だった。
「外壁を厚くするだけでは駄目だった」
ガンツが傷へ薬を塗られながら言う。
「敵は硬い場所を避け、下から溶かした」
「私も苔を手で取ろうとした」
ミーナは前脚を洗った。
「毒に触れた物は、守る設備でも切り離す。菌床で覚えたのに、焦ると忘れるわね」
「ぼく、栄養液を使うのが怖かったです」
ポロは空になった管を見た。
「アルドさんの孵化が遅れたら、ぼくのせいになると思って。でも、使ってよかったですか」
「よかった」
俺は即答した。
「孵化床を守るために孵化の材料を使った。お前の判断が正しい。俺が一瞬惜しんだことの方を記録しろ」
「それも書くんですか」
「書け。明日の俺がまた惜しむかもしれん」
ミーナが笑いそうになり、疲れでその場へ座り込んだ。
夜明け前、壊れた外壁は一段だけ直った。安全区画は完全ではない。それでも決戦中と変態中、四人が交代で守れば持ちこたえられる。
人間は北の岩棚から離れず、こちらの作業を見ていた。遠目にも、弓を下ろしているのが分かる。魔物が負傷者用の区画を守り、毒水を隔離し、互いの傷を洗う。その光景をどう受け取ったかは分からない。
日の出と同時に、最後の風袋が満ちた。
罠二基。薬三包。備蓄二日分。孵化床の熱、栄養、安全区画。対人見張りと変態護衛の交代表。
全てが揃った。
俺たちは最後に、声に出して役割を復唱した。ガンツは顎罠と担架。ポロは水流弁と退避杭。ミーナは頭部の誘導と撤退判断。グラウは風袋、上方警戒、変態中の交代表。俺は共鳴を一度だけ使い、二度目を求めない。
「北の細道まで水が来たら?」
ミーナが問う。
「決着寸前でも退く」
「人間が細道へ入ってきたら?」
「戦場へ近づくなと警告する。通じなければ、グラウが救難印側へ誘導する。敵か味方かを確かめるために、罠から人を外さない」
「あなたの殻が途中で割れたら?」
答えるのが一番怖い問いだった。
「俺を孵化床へ運び、作戦を中止する。水蛇より、無防備な変態を守れ」
四人の返事が重なった。勝つ方法だけでなく、勝てない時に何を守るかまで決めた。これで初めて、準備が終わったのだ。
直後、深層水路の壁が内側へ膨らんだ。
一撃で亀裂が走る。
二撃目で石が落ちる。
三撃目、水門から押し出された濁流とともに、二本の長い牙が卵殻城へ突き出した。
水蛇が、こちらから攻めるのを待たずに侵入してきた。
決戦開始後、使える撤退路は北の細道一本だけだった。




