第16話 水蛇の牙を測る
勝つために負けに行く。
そう説明すると、ポロは耳を伏せた。
転生二十六日目。深層水路の入口に、ガンツが作った石の卵が置かれている。大きさも輪郭も俺に似せ、表面には竜印炉で温めた水蛇の鱗を貼った。暗がりなら本物に見えるはずだ。
「負けに行くのではない」
俺は言い直した。
「敵の牙が届く間隔、水球を作る時間、水位の変化、竜脈の圧力を測る。数字を持ち帰れば勝ちだ。攻撃して傷をつけても、戻れなければ負けだ」
「でも、水蛇はもう卵殻城の壁を叩いています」
ポロは代替水の入った袋を抱えた。
「ぼくたちが行ったら、今度は待ち伏せてるかも」
「そのための囮だ」
ガンツが石卵の底を叩く。内部は空洞で、引き革を引けば炉石が転がり、俺の殻響に似た振動を出す。正面には水圧で外れる板、後ろには測量用の縄が十歩ごとに結ばれていた。
ミーナは水路図を指す。
「退路は二本。いつもの通路と、昨日ガンツが広げた上段の亀裂。下段に水が来たら上へ逃げる。上が崩れたら杭の革を辿って下へ戻る」
「風袋は三つ持つ」
グラウが続ける。翼の固定帯はまだ外れない。短い距離なら斜面を滑り降りられるが、飛行はできない。
「一つは水球を逸らす。二つは退路用。俺が使えと言っても、ミーナが撤退を命じた後は敵へ使うな」
「薬は四包です」
ポロが腰袋を確かめる。
「入口、二本目の杭、上段の出口に一包ずつ置きます。残りはぼくが持つ。誰かが流されても、全部一緒になくさないように」
準備条件は揃っている。代替水二日分は卵殻城へ残した。保存食三日分。罠は本戦用を含め三基あるが、今日は石囮一つしか使わない。日暮れ前に必ず戻る。
それでも怖い。
「俺は怖い」
約束どおり口にした。
ミーナが頷く。
「私も」
ポロも小さく前脚を上げた。
「ぼくもです」
「俺も怖い」
ガンツが平然と言うので、少し意外だった。
「お前にも怖いものがあるのか」
「岩角トカゲは石ではない」
「俺は恐怖より腹が立つ」
グラウは水路の闇を睨んだ。
「飛べれば、上から見られる。今は他人の報告を待つしかない」
「待つのも役割だ。今日は誰も一人で見ない。見たものを声にする」
五人は互いの顔を確かめ、進み始めた。
前回より水位が高い。足首だった場所でポロの腹まで水が来る。壁には新しい擦過痕があり、黒緑の粘液が糸を引いていた。水蛇は水室から卵殻城側へ何度も往復している。
二本目の杭で、ポロが水面へ細い炭棒を立てた。
「今、印一つ。流れは奥から毎息二歩」
ミーナは濡れた毛糸を天井から吊るす。
「風は奥から。あいつが動けば、先に毛がこっちへ倒れる」
グラウは上段の亀裂へ登り、短い滑空で対岸の棚へ移った。着地した瞬間、固定帯の下が軋んだが、血は出ていない。
「上から水室の端が見える。頭は見えん。尾が中央の岩を二巻き」
ガンツが石囮を水面へ押し出した。
縄の最初の結び目まで五歩。囮の中で炉石が転がり、こつ、こつ、と低い振動を出す。
水室は静かだった。
十歩。
十五歩。
囮が前回の追跡限界へ入っても、水蛇は動かない。
「気づいてないの?」
ポロが囁く。
「いや」
俺の殻響には、別の振動が届いていた。正面ではない。足元のずっと下から、長い身体が岩を擦る音。
「囮を引け。敵は床下だ!」
ガンツが縄を引いた瞬間、俺たちの背後で水柱が上がった。
水蛇の頭が、二本目の杭と入口の間から現れる。前回の円形水室ではない。壁を掘り、退路の横穴へ回っていたのだ。
金色の目が、石囮ではなく俺を見ている。
「見分けてる!」
ミーナが叫ぶ。
水蛇は囮を無視し、口を開いた。牙の間へ水が集まる。
「呼吸一!」
グラウが上から数える。
「水位、印二!」
ポロが炭棒を見る。
「呼吸二!」
俺たちは攻撃せず、距離を取る。ガンツが俺の新しい簡易担架を持ち上げ、上段亀裂へ向けた。
「呼吸三! 来るぞ!」
水球が放たれる。
グラウが風袋一つ目を上から落とし、ミーナが爪で口を裂いた。横風が水球へ当たり、中心を右へずらす。だが水蛇は前回の失敗を覚えていた。水球の直後に尾を横穴から出し、風で逸れた先へ叩きつける。
水球が尾に当たり、扇状の濁流へ変わった。
「上へ!」
ミーナが担架の前を持つ。ガンツが後ろから押す。ポロは上段へ続く石段を駆ける。
最初の水が足元をさらった。担架が右へ傾く。俺の亀裂へ固定帯が食い込み、痛みで視界が白くなる。
「止まるな!」
叫んだ俺へ、ミーナが怒鳴り返す。
「痛むなら言って!」
「痛い! だが動かせ!」
言えた。痛みを隠さず、それでも進む判断を皆へ渡せた。
上段へ上がる直前、水蛇の頭が担架へ追いついた。二本の牙が俺の亀裂を狙って閉じる。
ガンツが担架を床へ落とした。牙が頭上で噛み合い、石の火花を散らす。ミーナが水蛇の目へ風刃を二つ放つ。一つは鱗に弾かれ、二つ目が瞼へ当たった。水蛇が首を振る。
「今だ!」
ポロが引き革を三度引く。右、上段への合図。
ガンツが担架を拾い直す。ミーナが前へ出ようとしたが、水蛇の尾が横穴から戻り、彼女の退路を断った。
「先に行って!」
ミーナは壁へ爪を立て、尾を跳び越そうとする。
「置いていかん!」
俺は殻響を尾の付け根へ集中させた。水蛇の鱗の下を、強い圧が脈打っている。頭と尾を同時に動かす瞬間だけ、流れが一呼吸遅れる。
「グラウ、二つ目を尾の下へ!」
「退路用だぞ!」
「一つは残る。今使わねばミーナが戻れん!」
グラウが判断し、風袋を落とす。ガンツが木槌を投げ、袋の留め具を外した。吹き上がる風で尾がわずかに浮く。
ミーナは床を滑り、尾の下を潜った。爪先が鱗へ触れたが、挟まれずに抜ける。
五人が上段へ入った。
水蛇は巨体を持ち上げ、上段の壁へ頭をぶつける。天井が揺れ、前方に落石。いつもの退路が塞がれた。
「右の支路へ!」
ポロが走る。だが支路の床にも水が流れ始めていた。水蛇は下から水圧を送り、先回りしようとしている。
「印三、四……上がるのが速い!」
ポロは壁へ刻んだ目盛りを読み上げる。
「十息で膝、二十息で腰です!」
「圧力方向は下から右!」
グラウが濡れた毛糸を見る。
「上段の出口へ流す気だ」
「三つ目の風袋を使えば水を止められるか」
俺が問う。
「一時だけだ。帰りの落石を吹く分がなくなる」
「なら使わん。水が上がる前に測って退く」
これは討伐ではない。攻撃する誘惑を抑え、必要な数字を持ち帰る戦いだ。
ガンツが石囮の縄をまだ握っていた。囮は水室側へ残り、流れに引かれている。
「囮を水へ落とす。浮いた時刻で上段への圧を測れる」
「やれ」
縄を緩めると、石囮が横穴へ吸い込まれた。五息後、支路の床が震える。七息後、囮が俺たちの前方の水面へ飛び出した。底を通じて水が一周する時間は七息。
「水蛇の水圧切替は七息だ!」
俺は叫ぶ。
背後の壁が砕け、水蛇の頭が上段へ突っ込んできた。狭い通路では鱗が左右へ擦れ、速度は落ちている。それでも三歩で俺たちへ届く。
「撤退!」
ミーナの命令。
今度は迷わない。
ガンツが石囮の縄を切る。俺たちは上段出口へ走った。水位はポロの胸まで上がり、小さな身体が浮く。ミーナが襟を咥える。グラウは斜面を滑り、前方の落石へ三つ目の風袋を叩きつけた。
風で小石は飛んだが、大岩が一つ残る。
「俺を下ろせ!」
ガンツは担架を置き、肩で岩を押す。動かない。水蛇の呼吸音が近づく。
俺の殻の中で、白い結晶の圧が響いた。前回、敵は俺の竜圧を飲んだ。だが今は、放つのではなく、相手の圧へ重ねればどうなる。
「一呼吸だけ時間を稼ぐ」
「駄目!」
ミーナが即座に叫ぶ。
「竜圧は餌になる!」
「放たない。向こうの脈へ同じ震えを返す。合わなければすぐ切る」
「亀裂が広がるぞ」
ガンツも止める。
「分かっている。だから一呼吸だ。その間に岩を動かせ」
ミーナは俺と水蛇を見比べた。拒否権を持つ彼女が、歯を食いしばる。
「一呼吸。二つ数えたら、私があなたを水へ落としてでも止める」
「許可する」
水蛇の眉間が白く光る。俺は殻響をそこへ合わせた。
押し返さない。飲ませない。敵の圧が高まる瞬間、その波と同じ速さで殻を震わせる。
世界から音が消えた。
水蛇の金色の目が見開かれ、頭が止まる。流れていた水まで一瞬、空中で形を保った。
「今だ!」
ガンツが岩を押す。ミーナも肩を入れ、グラウが嘴で隙間へ石片を噛ませる。岩が半歩ずれた。ポロが先に潜り、担架の革を向こう側から引く。
一息。
俺は共鳴を切った。
途端に殻の亀裂が内側へ裂けた。熱い液が固定帯へ滲む。声が出ない。
水蛇が動きを取り戻し、牙を打ち下ろす。ガンツが担架を隙間へ押し込み、全員が出口側へ転がった。牙は残した大岩へ刺さり、抜けなくなる。
「走れ!」
ミーナが俺の革を咥えた。
卵殻城まで、誰も振り返らなかった。
戻ってから、俺は半刻ほど声を出せなかった。ポロが亀裂へ薬を塗り、ミーナが固定帯を巻き直す。ガンツは失った物を数え、グラウは石板へ数字を刻んだ。
罠一基。風袋三つ。石囮。測量縄半分。薬一包。
得たものは、呼吸三回で水球、七息で水圧切替、上段の増水は十息で膝、二十息で腰。頭と尾を同時に動かす時、圧が一呼吸遅れる。竜圧共鳴は一呼吸だけ水蛇を止めるが、俺の殻も割れる。
さらに、尾の後ろには水が引くたび開く細い横穴があった。三本爪の印と同じ方角へ続いている。ポロは歓声を飲み込み、水蛇を倒して水位を下げるまでは入らないと自分で線を引いた。
【鑑定結果】
技能成立:竜圧共鳴:ランクF Lv1
効果:接触可能な竜脈圧へ殻響を同期し、一呼吸だけ乱す
制限:現在は一戦一回。使用時に殻亀裂が拡大し、連続使用不能
「勝ったのですか」
ポロが尋ねた。
俺はすぐには答えなかった。
敵へ傷はつけていない。罠も道具も失い、俺の殻はさらに危うい。だが全員が戻り、欲しかった数字を持っている。
「今日の目的には勝った。水蛇には、まだ二度負けている」
「前より素直ね」
ミーナが疲れた笑みを見せた。
「次は、その一呼吸へ全部を重ねる」
ガンツが図へ三本の線を引く。
第一段、顎を固定する罠。第二段、水圧が切り替わる七息の間に弁を閉じる。第三段、俺の共鳴一呼吸へ、ミーナ、ガンツ、グラウの攻撃を顎下の隙間へ集中する。ポロは戦うのではなく、水流弁と退路を守る。
「敵が同じように動くとは限らん」
グラウが言う。
「囮を見破った。風袋も覚えた。次は別の反撃をする」
「だから、罠が一つ壊れたら次へ進まない」
俺は答えた。
「作戦の段階ごとに撤退を選ぶ。決着を焦って全てを失うな」
「具体的に決めよう」
ミーナが石板を引き寄せた。
「第一罠が壊れたら?」
「顎が一度も止まらなければ撤退する」
俺が答える。
「少し止まったが、片牙だけ抜けたら?」
「水流弁へは進まん。ミーナとグラウが左右から注意を引き、ガンツが罠縄を切る。敵に引かれて全員が水室へ入らないようにする」
「水蛇が罠を無視して、先にポロを狙ったら?」
グラウが問う。
ポロの肩が強張る。弁を閉じる役は戦線から離れ、単独になる時間がある。
「ぼく、逃げられます」
「逃げるだけでは足りん」
ガンツは図の弁位置へ二本の杭を書き足した。
「ポロの腰と退避杭を革でつなぐ。水に浮いても、三歩以上流されん。弁の足場には菌床の灰を撒き、滑りを止める」
「革が牙で切られたら、私がポロを回収する」
ミーナが続けた。
「その時点で弁は諦める。水を止めるためにポロを置いていかない」
ポロは反論しかけたが、昨日の俺と同じだと気づいたらしい。小さく頷いた。
「分かりました。弁より、ぼくが戻る方を先にします」
第二段も決めた。水圧切替は七息だが、六息目には全員が足場へ上がる。七息ぎりぎりまで作業しない。弁が半分しか閉まらなくても、流れが弱まれば十分とする。完全を欲張り、次の水圧を受けない。
第三段が最も難しかった。
「共鳴を使った後、俺は声も出せん」
「今日と同じなら半刻は動けない」
ミーナの表情が曇る。
「決着しなかったら、誰があなたを運ぶの?」
「俺だ」
ガンツが迷わず答えた。
「だが攻撃にも俺の木槌が要る。殴った後、すぐ担架へ戻るには距離を二歩以内にする」
「私が最後の攻撃を引き受ける」
グラウが傷んだ翼を見た。
「飛べなくても、風袋を顎下へぶつけられる。俺は攻撃後にアルドの固定革を担架へ結ぶ」
「お前の嘴では結べん」
「なら留め具を輪にしろ。引けば閉まる形ならできる」
ガンツはすぐに革帯を持ち出し、輪の大きさを測り始めた。
「私は水蛇の頭を押さえる」
ミーナが言う。
「共鳴が切れた直後、最初に動くのは頭。顎下を裂いたら、傷口へ風を押し込んで顔をこちらへ向ける。ガンツとグラウがアルドを運ぶ間、ポロは退路の水位を読む」
「お前が残ることになる」
「一番速いのは私よ」
「だが前回、尾の下に取り残された」
俺は強く言った。
「最後尾だから犠牲になってよいとは認めん。十息で戻らなければ、ガンツは俺を置いてでも迎えに行く」
「アルドを置くの?」
「孵化床の手前だ。敵の追跡限界を越えてからなら、固定した俺より動けるお前を先に回収する」
ミーナは驚いた顔をし、それから視線を逸らした。耳の先がわずかに赤い。
「……なら、十息以内に戻る」
作戦を声にするほど、足りない物も見えた。退避杭は三本あるが、ポロ用を加えると四本要る。風袋は今日すべて使い、再充填に二日。灰は菌床境界から一袋だけ借りる。薬は三包となり、一人一包には足りない。
狩猟班は翌朝、薬になる赤茸と風袋用の外皮を取りに行く。内政班は罠、弁、担架の留め具を直す。俺は休みながら殻響で水蛇の掘削音を監視する。休むことまで、作戦の工程に書かれた。
「王が寝る時間まで決める必要があるか」
俺は不満を述べた。
「勝手に共鳴を試さないために必要」
ミーナが即答した。
「俺を何だと思っている」
「亀裂を広げた当日に、もう一度できるか考えてる卵」
図星だったので、反論は威厳のある咳払いに変えた。
反省を石板へ残した。共鳴の成功に酔わない。敵を止めたのは一呼吸だけで、逃げるために使った。次に攻撃へ使うなら、その後に動けなくなる俺を誰が運ぶかまで決める。
ミーナが固定帯を結び終えた時、外周警報の細い石鈴が鳴った。
水蛇とは逆、地上へ続く北の通路だ。
グラウが見張り穴へ行き、戻ってきた時には顔が険しかった。
「靴跡が三つ。二本脚で、爪がない。新しい」
人間。
俺たちが水蛇との決戦準備を整える、そのすぐ外まで、別の観測者が来ていた。




