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魔物に育てられた人間  作者: イリス


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第二章 夏 第3話 灰牙狼

第二章 夏


第3話 灰牙狼


灰牙狼は静かに歩いていた。


草を踏む音すらほとんどしない。


大きな体。

鋭い牙。

力強い脚。


それなのに、不思議なほど静かだった。


イリスは息を殺しながら見つめる。


もし戦ったら強い。


そんなことは子供でも分かった。


フワ角ウサギとは全く違う。


獲物ではない。


狩る側だ。


ガロンが囁く。


「違いは何だ」


イリスは考えた。


大きさ。


強さ。


牙。


全部違う。


でも。


もっと大事な違いがある気がした。


その時、ふと変なことを思った。


フワ角ウサギは村で食べる。


灰牙狼はあまり食べない。


だから――


「味?」


口から出た瞬間、自分でも少し変だと思った。


数秒。


沈黙。


ガロンは固まった。


灰牙狼は気付いていない。


森も静か。


そして。


ガロンの肩が震えた。


「ぶっ……」


吹き出した。


イリスは目を丸くする。


ガロンが笑った。


本当に珍しい。


「味か」


ガロンは口元を押さえながら言った。


「確かに違うな」


イリスは少しだけ安心した。


怒られてはいないらしい。


ガロンは笑いを収める。


「悪くない」


そう言った。


「食う側なら重要だ」


イリスは首を傾げる。


「でも違う」


ガロンの目が狼へ向く。


「立場だ」


イリスも狼を見る。


「立場?」


「ウサギは狩られる側」


ガロンは言った。


「狼は狩る側」


なるほど。


そう言われると全然違う。


狼は怯えていない。


周囲を探している。


自分が襲われることより、何を襲うかを考えている。


「考え方が違う」


ガロンは続けた。


「動き方も違う」


「警戒する場所も違う」


イリスは狼を観察した。


確かに。


耳も鼻も目も。


全部が何かを探している。


フワ角ウサギは逃げ道を探していた。


灰牙狼は獲物を探している。


「だから覚えろ」


ガロンの声が低くなる。


「森で生きるなら」


「狩られる側も理解しろ」


「狩る側も理解しろ」


イリスは頷いた。


その時だった。


風向きが変わる。


ほんの少し。


だが狼は気付いた。


鼻が動く。


ひくっ。


ひくっ。


空気を嗅ぐ。


そして。


こちらへ顔を向けた。


イリスの心臓が跳ねる。


見つかった?


ガロンが小さく言った。


「動くな」


それだけだった。


イリスは身体を固くする。


草むらの中でじっと伏せる。


呼吸も浅くなる。


灰牙狼は動かない。


ただ匂いを探っている。


風。


草。


土。


木。


そして。


人間と狼獣人の匂い。


狼は一歩前へ出た。


イリスの背中に汗が流れる。


怖い。


もし見つかったらどうなる。


逃げられるだろうか。


戦えるだろうか。


分からない。


でも。


ガロンは動かない。


だからイリスも動かなかった。


時間が長く感じる。


十秒。


二十秒。


もっと長かったかもしれない。


やがて。


灰牙狼は鼻を鳴らした。


フンッ。


そして向きを変える。


反対方向へ歩き出した。


少しずつ。


少しずつ。


姿が遠ざかる。


最後には森の奥へ消えた。


静寂。


イリスはようやく息を吐いた。


気付けば肩に力が入っていた。


ガロンが立ち上がる。


「よし」


短い言葉。


だがそれだけで十分だった。


「正解だ」


イリスは顔を上げる。


「匂い?」


「ああ」


ガロンは頷く。


「狼は鼻がいい」


「逃げる時も」


「狩る時も」


「まず匂いだ」


イリスは狼が鼻を動かしていた姿を思い出した。


本当にそうだった。


目より先に鼻だった。


ガロンは周囲を見回した。


そして言う。


「覚えておけ」


イリスは真剣に聞く。


「森で怖いのは強い奴じゃない」


少し意外だった。


強い奴が一番怖いのではないのか。


ガロンは続ける。


「気付かない奴だ」


イリスは考える。


気付かない?


「強い敵は警戒する」


ガロンは言った。


「だが」


「気付いていない危険は警戒できない」


その言葉は妙に印象に残った。


確かにそうだ。


見えている危険なら避けられる。


見えていない危険は避けられない。


ガロンは何かを感じ取ったように森を見る。


そして。


突然言った。


「出てこい」


イリスは驚いた。


誰もいない。


そう思った。


しかし。


草むらが揺れた。


ガサッ。


顔が出る。


フィアだった。


「見つかった」


続いて。


ソラ。


「見つかった」


さらに。


ミィ。


「見つかった」


最後に。


セリナ。


「だから言ったのに」


ガロンが黙る。


イリスも黙る。


完全に尾行されていた。


フィアが気まずそうに笑う。


「えへへ」


「えへへじゃない」


セリナが呆れたように言った。


「私は反対したのよ」


「でも付いて来た」


「心配だったの」


「一緒」


ソラが頷く。


ミィは眠そうだった。


「起きたらいなかった」


ガロンは深くため息を吐いた。


イリスは少し笑いそうになる。


その時だった。


後ろの茂みが大きく揺れた。


ガサガサガサッ!


全員が振り返る。


ガロンは一瞬で前へ出た。


イリスたちを背中に隠す。


狩人の動き。


いや。


父親の動きだった。


そして。


茂みから飛び出してきたのは。


小さな影。


「みんな待ってぇぇぇ!」


リリィだった。


四歳になったリリィ。


木彫りの竜を抱えたまま、必死に走ってくる。


沈黙。


フィアも固まる。


ソラも固まる。


セリナは額を押さえた。


ミィは目を閉じた。


ガロンは空を見上げる。


「最悪だ」


小さく呟いた。


どうやら尾行は全員参加だったらしい。


そしてイリスは知らない。


この騒がしい出来事のすぐ後に。


村の運命を変える出会いが待っていることを。

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