第四十四回
来島の渦、無窮の帰還
太平洋の虚無を抜け、ついに見えた陸地は、かつて出発した時に見たものと同じ「緑」のはずだった。だが、今のビアンの瞳には、それはただの高密度の有機データの塊に過ぎない。
船団が来島海峡へと差し掛かったその時、波間から無数の小早と関船が、鱗を光らせる魚群のように現れた。来島海軍だ。彼らはこの難所の潮流を銀の筆致で制御し、満身創痍の船団を逃さぬよう、海峡に巨大な重力の網を張り巡らせた。
(下書き:……この海域は、潮の「流れ」そのものが一つの巨大な命令文になっている)
陣太鼓の振動が船底を通じて脳を叩く。放たれた火矢が、夕闇を拒絶の筆跡で塗り潰していく。四隻の船団は激しい潮流と攻撃に翻弄され、沈没の危機に瀕していた。ヨンギが刀を抜き、意味の通じない叫びを上げてビアンを守ろうとする。だが彼女の視界は、もはやその戦いさえも消えゆく残像として捉えていた。
ビアンは、縦に裂け今にも砕け散りそうな真っ黒な鉛筆を構えた。
(下書き:……足りない。この強固な「現実」を書き換えるには、まだインクが足りない)
最後の一欠片となった消しゴムを、迷うことなく自らの胸の奥、魂の核へと突き立てた。
キュリ、キュリ……!
代償として剥がれ落ちたのは、生きたいという願いそのものだった。自分が存在しているという実感さえも消え去る。彼女は、物理法則を修正するためだけの透明な筆へと完全に変質した。
鉛筆を一閃させると、来島海峡の逆巻く潮流が、見えない消しゴムで消されたかのように静まり返った。彼女が虚空に引いた一本の帰還の線が、海賊たちの船を左右に押し退け、釜山へと続く最短の航路を黄金の光で清書した。
来島海軍の将兵たちは、自分たちの信じる海が塗り替えられる光景を前に、戦意を喪失し、ただ平伏するしかなかった。
夜明け。
黄金の航路を滑るように進む四隻の船団の前に、ついに釜山の港が現れた。三年半前、華々しく送り出されたあの港。世界一周を成し遂げた伝説の帰還を待つ、粛宗と数千の民衆の姿があった。
甲板に立つビアンには、故郷の感慨も、達成の喜びも、王への忠誠もない。
その足元で、豊山犬が港の方角を向いて立っていた。尻尾を振っている。三年半、世界の果てを共に巡ったその命だけが、帰還の喜びを知っていた。
味、色、匂い、温もり、言葉、恐怖、時間、名前、母国語、そして生存。
すべてを世界の果てに置いてきた純白の空洞。
彼女は、手の中で砂となって崩れゆく鉛筆を見つめ、ただ一つの事実だけを、その透明な意識に刻み込んでいた。
――世界は、繋がっていた。




