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『刻印の乙女 〜備案(ビアン)の書〜』  作者: 水前寺鯉太郎
ビアン旅行記

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第四十三回

水平線、空白の記録


 かつて連なっていた山々を、ビアンの鉛筆が一本の線で消去した。

 パナマの地峡を割って造られた奇跡の航路。船団がそこを抜けた瞬間、目の前に広がったのは、マヨルカの地図にさえ「……」としか記されていなかった、圧倒的な虚無の蒼だった。

(下書き:……ここは、まだ誰も清書していない「余白」。神様が書き忘れた頁だわ)

 自己を失った「それ」にとって、パナマという不条理な近道さえも、単なる記述の効率化に過ぎなかった。

 太平洋。見渡す限り、海、海、海。陸地の気配も鳥のさえずりもない。永遠に繰り返される波の周期という名のデータだけがある。

 百名の船員たちは、この広すぎる空白に正気を削られていった。かつて金や名誉を語り合った彼らも、今や空腹と渇きという最も原初的な不足の記述に支配されている。

 ――三十二名、壊血病。生命のインク、薄る。

 ビアンには、彼らの身体から色が抜け、背景の蒼に溶け込んでいくのが見える。だが恐怖も悲しみも残っていない。彼女はただ、彼らの死を一文字の削除として冷静に記録し続けていた。

 ヨンギがひび割れた唇で何かを伝えようと、ビアンの前に跪いた。言葉は意味をなさない。だが船底を通じて伝わる星の運行と地球の自転の微かな振動が、どの海図よりも正確な座標として脳に直接書き込まれていた。

 もはや握る感覚さえない右手を動かし、何も見えない水平線の彼方、正確な西の座標に鉛筆を向ける。その先にあるのは、かつて通った台湾か、一周して辿り着く釜山か。時間の概念を失った彼女にとって、それは既に到達した場所であり、永遠に目指す場所でもあった。

 航海開始からついに三年半。太平洋の真ん中で、ビアンの鉛筆が限界を迎えた。雷を吸い、呪縛を食い破り、大陸を割ってきたその鉛筆は、芯が露出し、筆圧に耐えきれず縦に裂け始めている。

(下書き:……もう少し。この世界を閉じ終えるまで、折れないで)

 彼女は、自分の中に残された最後の記憶を、鉛筆の芯を繋ぎ止めるための接着剤として差し出した。代償として剥がれ落ちたのは、故郷の言葉の概念だった。朝鮮という国が使っていた文字、響き、そのすべてが消え去る。

 豊山犬がビアンの足元に来て、丸くなった。吠えない。ただそこにいる。名もないままのその命だけが、世界の果てでも変わらず、彼女の隣にあった。

 四隻の船団は帆もボロボロになり、海流に身を任せるようにして太平洋を突き進む。

 ビアンの瞳には、見えないはずの水平線の向こう側、かつて旅立った釜山の港の光景が、陽炎のようにゆらゆらと映り始めていた。幻覚か、それとも時間を失った彼女が見ている未来の残像か。

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