第四十ニ回
境界のリスボン、失われし自己
「ヘラクレスの柱」と呼ばれたジブラルタルの岩壁が、左舷へと遠ざかっていく。
三年前、ここを東へ抜けた時の高揚感はもうない。四隻に減った船団は潮風に晒されて銀色に退色し、百名の船員たちはもはや生きた人間というより、船という装置の一部のように黙々と動いている。
ビアンには、時間の流れが分からない。
(下書き:……釜山を出たのは今日だったか。あるいは、マヨルカの風は明日吹くのか)
彼女にとって過去も未来も「今この瞬間」に重なって存在する。ただ、マヨルカの地図が指し示す外海への出口だけを、幾何学的な直感で追い求めていた。
テージョ川を遡り、ベレンの塔が見えた時、船団はリスボンの港へと滑り込んだ。七つの丘に広がる白い街並み。だが視覚的な思い出を失ったビアンには、それは高低差のあるデータと無機質な反射光の集積でしかなかった。
リスボンは世界中の富と情報が集まる銀のペンの最大の集積地だ。街を歩けば至る所に銀の装飾を施した宮殿が立ち並び、その影には世界各地で見かけてきた銀の仮面の一団が、呼吸するように街の記録を統制していた。
ビアンはマヨルカの地図に欠ける最後のピースを求め、ジェロニモス修道院へと足を踏み入れた。かつて東方を目指して散っていった航海士たちの墓碑が並ぶ。彼らの無念の下書きが、石の壁を通じて鉛筆に語りかけてくる。
言葉の意味は分からない。だがその振動は、大西洋を越えた先に、故郷の東へ繋がる最後の綻びがあることを告げていた。しかしその情報を引き出すためには、修道院の奥底に安置された聖なる銀の書に、自らの存在を捧げなければならなかった。
ビアンは、もはや自分が誰であるか、なぜこの旅を続けているのかという核さえも揺らいでいるのを感じていた。
最後の一欠片となった消しゴムを握りしめる。足元では豊山犬が低く唸り、その手に鼻を押し当てた。だがビアンには、それが犬なのか風なのか、今なのか昔なのか、もう判別がつかなかった。
キュリ、キュリ……!
代償として剥がれ落ちたのは、自己の記憶だった。「ビアン」という名前、そして「自分」という意識そのものが消え去る。もはや「私はビアンである」と思うことさえできない。そこにあるのは、世界を記録し修正し一周させるための、純粋な機能としての存在だった。
修道院を出た「それ」を見て、ヨンギは絶望に近い表情で立ち尽くした。彼が呼ぶ「ビアン」という音は耳に届いている。だがそれが自分を指す記号であるという認識は、もうどこにも存在しない。
豊山犬だけが、変わらずその足元に寄り添っていた。
しかしその透明な瞳には、大西洋の向こうに、釜山の海へと繋がる光の航路がはっきりと清書されていた。
四隻の船団がリスボンの港を静かに出帆した。
味、色、匂い、温もり、言葉、恐怖、時間、そして名前。
すべてを捧げた記録の化身が導く船団は、世界一周の最後の一線を閉じるために、西へと突き進む。




