第四十五回
完結、そして白紙の目覚め
ハニャンの王宮。三年半前、銀のペンによって「世界を記せ」と命じられたその場所へ、ビアンは帰ってきた。
出迎えた粛宗は、玉座から立ち上がり、息を呑んだ。目の前に立つ女性は、かつて慈しんだ淑媛ではなかった。陽に焼け、潮風に晒され、その瞳には光も感情も宿っていない。彼女はただ、そこに存在する現象そのもののようだった。
ビアンは言葉を発しなかった。王の驚愕も、家臣たちの囁きも、ただの無機質な空気の震えに過ぎない。
彼女は、パナマを割り太平洋を越え来島の渦を静めた、真っ黒に焼けた鉛筆の残骸をゆっくりと差し出した。そして、マヨルカで得た空白の羊皮紙を広げる。そこには、五感を捧げてまで捉え続けた真実の地球が、どの銀のペンよりも鋭利な線で清書されていた。
(下書き:……世界は、閉じていました。そして、これからは私の手を離れ、あなたの「清書」へと委ねられます)
地図を王の机に置いた瞬間、手にしていた鉛筆が役目を終えたようにサラサラと灰になって崩れ落ちた。
崩壊と同時に、ビアンを繋ぎ止めていた意志の慣性が途切れた。糸の切れた人形のように、彼女はその場に崩れ落ちた。駆け寄るヨンギ、叫ぶ粛宗。だが何も聞こえない。
豊山犬がビアンの傍に来て、その頬に鼻を押し当てた。動かない。ただ離れなかった。
彼女は深い病の床に就いた。肉体の病ではない。あまりにも多くの概念を使い果たし、自己というページが白紙に戻ろうとするための、長い初期化の時間だった。
(下書き:……暗い。けれど、何も感じないことは、こんなにも静かなのね)
彼女の意識は、パタゴニアの雪原、インドの市場、エジプトの砂漠を漂い、かつての思い出の断片を一つずつ拾い集める作業に入った。
ビアンが再び目を開けたのは、春の日だった。
窓から差し込む光に、微かに目を細める。
「……色が、見える」
掠れた声で呟いた。言葉の意味がゆっくりと脳内に戻ってくる。かつて捨てた木蓮の白さや母の声が、長い眠りの中で波打ち際に打ち上げられる小瓶のように返ってきていた。
しかし完璧に戻ったわけではない。指先にはまだ感覚がなく、時折、時間の前後が分からなくなる。失った代償の爪痕は、世界を知った者の証明として、その身に刻まれ続けていた。
枕元には、新しい鉛筆が一箱、粛宗からの贈り物として置かれていた。傍らで豊山犬が丸くなり、眠っている。
ビアンは震える手で一本取り、真っ白なノートに最初の一線を引いた。
世界一周の記録ではない。今日、窓から見えた名もなき鳥の羽ばたきという、小さな小さな日常の下書き。
(下書き:世界は繋がっている。そして、私の物語は今、ここからまた新しく綴られる)
世界を一周した記録者は、今度は「自分」という名の未知の航海へと、ゆっくりと帆を上げた。




