表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『刻印の乙女 〜備案(ビアン)の書〜』  作者: 水前寺鯉太郎
ビアン旅行記

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/45

第四十回

獅子の咆哮、鉄の共鳴


 ケープ・タウンを離れ、大西洋を北へと切り裂く船団の影は、どこか頼りなげに揺れていた。

 三年前の華々しさは微塵もない。百名のクルーは伝染病を潜り抜けた代償として誰もが幽霊のように痩せこけ、黙々と作業に励んでいる。旗艦の船首に立つビアンもまた、かつての淑媛の面影を失っていた。瞳に映るのは、空にうごめく気圧の歪みと、船体が波を裂く物理的な抵抗という無機質なデータだけだった。

 熱帯の厚い雲を突き破るように、海岸線に険しい山々が姿を現した。断続的な雷鳴が、巨大な獣の咆哮のように大地を震わせる。シエラレオネ。銀のペンが記した秩序を、天の雷と大地の鉄分が常に書き換えようとする、荒々しい未完の戦場だった。

(下書き:この大地の底からは、強い「磁気の筆跡」が立ち昇っている)

 入港したビアンの鉛筆が、これまでになく激しく共鳴し、指を弾いた。触覚を失ったはずの彼女だが、鉛筆を通じて伝わる磁気の振動だけは、脳の芯に直接火花を散らすような衝撃として伝わってきた。

 港で待っていたのは、全身に鉄の装飾を纏った部族長たちだった。彼らが使うのは銀のペンではなく、大地の鉄を溶かして地面に流し込む重力的な記録だ。一度固まった鉄の法は、大地そのものと同化し、決して動かすことができない。

 部族長の一人が、熱を帯びた鉄の板をビアンの前に差し出した。言葉の意味は分からない。だがビアンはその板に刻まれた歪な重力の渦から、彼らの要求を読み取った。

 ――この地を通りたければ、アヌビスの吐息と巨人の残り火を置いていけ。さもなくば、山の咆哮でお前の船を灰の記録に変える。

(下書き:……断るわ。これは私の感覚を切り売りして手に入れた、世界の一部。誰にも渡さない)

 もはや握っている感覚のない手で、鉛筆を垂直に空へと掲げた。部族長が錫杖を振ると、山頂から巨大な雷光が落ちてきた。だがビアンが空中に描いた電気のバイパスがその破壊的な記述を吸い込み、海へと逃がした。

 足元では豊山犬が四肢を踏ん張り、雷光の中でビアンの傍を離れなかった。

 キュリ、キュリ……!

 代償として剥がれ落ちたのは、恐怖という感情そのものだった。死を恐れ、痛みを避けようとする生存本能がすべて消え去る。

 真っ黒に変色した鉛筆を握りしめ、ビアンは無言で部族長を見つめた。恐怖を失った人間の瞳ほど、底知れぬ深淵を感じさせるものはない。部族長たちは自分たちの鉄の法さえも凌駕するその存在感に圧され、沈黙のまま道を開けた。

 ヨンギがビアンに近寄り、変色した鉛筆に触れようとした。彼女はそれを避けた。

 船団は補給を終え、再び北へと舵を切る。三年という歳月をかけて世界を一周しようとするその航海は、ビアンという一人の少女を、完璧に非人間的な何かへと書き換えてしまっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ