第二十五回
スパイスの航路、未完の世界図
珠瑠国の民にとって、ビアンはもはや「巨大な誤字」ではなく、国の存亡を救った「歩く守護神」だった。
贈られた品々は、掌に乗るほどの小さな真珠、極彩色の羽、そして感光インクの製法が記された極小の巻物。ビアンはそれらを布に包み、朝鮮の土を踏んだ。
(下書き:私の旅は、この小さな記録から始まったのだ)
都へ戻った彼女を待っていたのは、王の特使としての熱い眼差しだった。
「よく戻った、ビアンよ。お前の持ち帰った南の記録は、余の目を世界へと開かせた」
粛宗は政殿に広げられた巨大な白紙の地図を指し示した。傍らには鋭利に研がれた王の銀筆が置かれている。
「余はこの地図を、余の言葉だけで埋め尽くすことはせぬ。お前の鉛筆で、世界の隅々にある真実の音を拾わせるのだ」
粛宗が求めているのは、領土の拡大ではなかった。西方の国々で金と同じ価値を持つという香辛料――それを得るための、誰も歩んだことのない世界一周の航海だ。
「スパイスか……。記録には残らない『香り』を求めての旅ですね」
「そうだ。銀のペンでは、鼻を突く刺激も五感を揺さぶる熱も記録できぬ。だからこそ、お前が行かねばならぬのだ」
ビアンは懐の短くなった鉛筆に触れた。これまでは朝鮮の内側の綻びを直してきた。だがこれからは、白紙の海図に自分だけの線を引いていかなければならない。
(下書き:世界は、まだ清書されていない巨大な物語だ)
粛宗から授けられたのは、香辛料の鑑定を司る「味覚の記録計」と、世界中の銀の文字を翻訳するための特別な硯だった。
数日後、釜山の港に巨船『清風号』が停泊した。ヨンギとジョンチョルも、王の命により記録の護衛として同行する。そして、タラップを駆け上がってきた白い影があった。豊山犬だ。ビアンの足元にぴたりと座り、潮風に鼻を鳴らしている。
「あなたも来るの」
子犬は尻尾を大きく振った。名もないまま、どの記録にも書かれていないこの命が、世界の果てまで同行するらしい。
「行きましょう、従事官様。おじさん。私たちの鉛筆で、世界の果てを書き換えるために」
錨が上げられ、帆が潮風を孕んだ。
彼女の鉛筆が次に刻むのは、灼熱の大地か、極寒の海か。香辛料の香りに導かれた大航海が、今、幕を開ける。




