第ニ十四回
沈黙の和平、消えない筆跡
嵐のあとの凪のように、海は不気味なほど静まり返っていた。
漂着から七日目の朝、水平線の彼方から白銀の帆船が現れた。隣国『京瑠国』からの使節団だ。彼らは戦火を交える代わりに、一本の白銀の筆を掲げ、和平の意思を示した。
(下書き:王宮の争いと同じだ。剣が引けば、次に出てくるのは「言葉」の刃だ)
和平交渉の席で、珠瑠国の王と京瑠国の使者の間に、巨大な和平の原稿が広げられた。
「本日より、両国は茹で卵の茹で加減を問わず、互いの食文化を永久の記録とする」
使者が銀のペンを走らせ、流麗な文字を刻んでいく。銀の光が議場を包み、長年の対立を塗り潰していくかのように見えた。
だが、ビアンの目はその完璧な清書の影に、不自然な余白を見逃さなかった。
(下書き:この条約には、肝心な「逃げ道」が書かれていない)
完璧すぎる記録は、一度でも綻びが生じれば二度と修復できない脆さを孕んでいる。
「これでお終いですな」
傍らでヨンギが安堵の吐息を漏らしたが、ビアンは首を振った。
「いいえ。京瑠国が争いを無意味と考えたのは、慈悲からではありません。銀のペンで『平和』と書くことで、珠瑠国の警戒心を眠らせようとしている……。あの使者のペンの運びを見てください」
指摘した通り、使者のペンは最後の署名の際に微かに震え、インクの滴をわざと落とした。後から記録を書き換えるための、極小の綻びだった。
「王様、お待ちください!」
ビアンの巨躯が動くと、議場に地響きが走った。珠瑠国の王が署名する直前、巨大な指先が条約書の余白を鉛筆で叩く。
「無礼な! 神聖な記録を汚すつもりか!」
使者が叫んだが、ビアンは動じなかった。鉛筆でなぞった場所から、隠されていた文字が浮かび上がる。
――ただし、卵の供給源である「麗島の北端」については、京瑠国の排他的支配を認めるものとする。
「平和という文字の裏に、欲望を忍び込ませる。それがあなたたちの和平ですか」
ビアンの声が、議場を凍りつかせた。美しく清書された「平和」が、醜い奪い合いの下書きへと引き戻された瞬間だった。




