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『刻印の乙女 〜備案(ビアン)の書〜』  作者: 水前寺鯉太郎
立志編

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第十八回

虚空の旋律


 銀の刺繍が施された絹の衣。奴婢であった頃には想像もつかない重みだった。

 淑媛となった彼女は、王宮の一角に居所を与えられた。だが、そこは豪華な「檻」であり、真っ白な「余白」でもあった。

(下書き:私は、淑媛。王様に救われ、名を授かった幸福な女)

 鏡の前でそう呟いてみるが、言葉は銀のインクのように滑り、心に染み込まない。指先は無意識に衣の裾を弄ぶ。そこには、監察府時代に染み付いた黒鉛の汚れが微かに残っていた。公式記録がどれほど美しく装飾しても消し去れない、彼女の「本質」の跡だ。

 そんな折、幽閉されているはずのチャン尚宮から一輪の牡丹が届けられた。届けた女官の手元で、蝶の鍵飾りが怪しく揺れる。その鍵が何を意味していたのか、今の彼女には断片的な恐怖としてしか思い出せない。

 だが、花の下に一枚の紙片が隠されていた。五線譜のような横線と、その隙間に鉛筆で殴り書きされた不協和音の図形。

「……この、音」

 それを見た瞬間、耳の奥で編馨の石が砕ける音が蘇った。記憶を消しゴムで消しても、身体が覚えている共鳴までは消し去れなかったのだ。

 夜の闇に紛れ、トンイは掌楽院の物置へと向かった。淑媛の身では許されない記録外の行動だ。

「淑媛様、何をしておられるのですか」

 ソ・ヨンギだった。王の命により、記憶を失った彼女を見守る「銀の番人」となっていた。

「この紙に書かれた音が、私を呼んでいる気がするのです。私が消してしまった『私』が、まだどこかで鳴り響いているように」

 ヨンギは紙片を見て息を呑んだ。

「これは編馨の調律図だ。だが、公式記録の音階とは違う。王の心を操るためにヒジェが作り出した、呪いの旋律だ」

 チャン尚宮は、兄が捕らえられてもなお、この音の記録で王宮を内側から腐らせようとしていたのだ。

(下書き:この音が王宮を支配すれば、王様の意志さえも銀のペンに操られる文字と化す)

 トンイは物置の隅に落ちていた炭化した木の枝を拾い上げた。鉛筆も消しゴムも、今の手元にはない。だが、折れた枝を握りしめ、地面に一本の鋭い線を引いた。

「記録が奪われたのなら、新しい音を、私がここに書き込みます」

 炭の枝を筆代わりに、紙片の不協和音を一つずつ書き換えていく。王から与えられた銀のペンによる清書ではなく、命の脈動が刻む泥臭い「下書き」だ。

 その時、王宮の反対側でチャン尚宮の銀の硯がパリンと割れた。

「……記憶を失ってなお、私の線を書き換えるというの……!」

 名もなき炭が刻む一本の線。それが、偽りの旋律を打ち砕くための、新たな武器だった。

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