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『刻印の乙女 〜備案(ビアン)の書〜』  作者: 水前寺鯉太郎
立志編

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第十九回

黒鉛の鎮魂歌

 宮廷の空気は、不気味なほど甘く重く沈んでいた。

 粛宗はここ数日、原因不明の睡魔と頭痛に悩まされていた。王の銀筆は机に置かれたまま動かず、代わりにチャン尚宮が枕元で静かに銀の鈴を鳴らし続けていた。

「王様、心地よい旋律でしょう。これが、この国の正当な安らぎの記録でございます」

 鈴の音は、呪いの旋律を増幅させていた。王の意志を薄め、彼女の望むがままに書き換えるための儀式だ。粛宗の瞳は虚ろになり、意識は偽りの記録の中に閉じ込められようとしていた。

 その頃、トンイは掌楽院の奥深く、埃を被った編馨の前に立っていた。足元には、白い豊山犬がぴたりと寄り添っている。名もないままの子犬は、彼女が炭の枝を握るたびに、鼻先をその手に押し当てた。

「……そうね。あなたも、記録に残らない余白の中で生きているんだもの」

 トンイは炭の先を噛み、指を黒く汚しながら、石の表面に直接下書きを書き込んでいった。

(下書き:この音は、偽りの調和を打ち砕く「不協和音の真実」となる)

 背後にはヨンギが控えていた。

「淑媛様。その炭で打てば、石は割れるかもしれません。同時に、あなたの身分が宮廷の法によって破棄されることを意味します」

「構いません。私は、名前が欲しくて淑媛になったのではありません。王様の耳に、消された人々の声を届けるためにここにいるのです」

 子犬が低く唸り、編馨に向かって一歩踏み出した。まるで背中を押すように。

 トンイは炭の枝を振り上げた。

 ――カーーンッ!

 澄んだ音ではない。地を這うような重低音が、見えない波紋となって王宮を駆け抜け、粛宗の寝所にまで達した。チャン尚宮の銀の鈴がパリンと弾け飛ぶ。

「な、何事ですか……! 誰が私の旋律を汚したの!」

 フラフラと立ち上がった粛宗の瞳に、鋭い理性の光が戻り始めた。

「……この音、聞き覚えがある。銀の法を笑い飛ばす、自由な下書きの響きだ」

 王は机の銀のペンを掴んだ。

 編馨を打ったトンイの脳裏に、強烈な閃光が走った。消し去ったはずの記憶の欠片が、炭の振動によって溢れ出してくる。

(……父様が私に言った言葉。名前よりも大切な……)

 ――ビアン。お前が引く線こそが、誰にも縛られない、お前自身の命の記録だ。

「父様……!」

 名前は思い出せない。だが、その意志が枯れ果てた心に熱いインクを注ぎ込んだ。足元の子犬が、彼女の足首に身を寄せる。

 その時、編馨の石が真っ二つに割れ、中から一通の古い密書が転がり落ちた。先代の王がチャン家を監視するために遺した、真実の原稿だった。

「……これがお前の狙いだったか、淑媛」

 扉を蹴破って現れたのは、銀の剣を抜いたチャン・ヒジェだった。

「その下書きを清書させる前に、お前の命という頁をここで破り捨ててやろう!」

 子犬が牙を剥き、低く吠えた。トンイは折れた炭の枝を握りしめ、不敵な笑みを浮かべた。彼女は、もはや無名の少女ではなかった。

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