第十六回
残された一筆
「そこまでだ、ビアン。お前の存在は既に法典から削除された。消されるべき影が、王の宝に触れることは許されぬ」
内需司の隠し書庫。ヒジェが空中に鋭い一画を刻むと、銀の奔流が空気を固定し、ビアンの四肢を金縛りにした。
(銀の命令:この娘の立ち位置を「虚無」と定義せよ)
足元が銀の光に飲み込まれていく。幻覚ではない。公式記録が彼女の居場所を「存在しない」と書き換えたことで、物理的な世界が彼女を拒絶し始めたのだ。
「……私の居場所を消せても、ここに記された罪の筆圧までは消せません!」
金縛りの隙間を縫い、ビアンは震える手で壁に鉛筆を走らせた。
(下書き:この壁の裏には、先代の王が遺した隠し通路がある)
そこには壁しかない。だがビアンの鉛筆が描いた可能性の線が、内需司の古い建築構造に眠っていた綻びを無理やりこじ開けた。
「なっ……記録にない道など……!」
驚愕するヒジェを置き去りに、ビアンは崩れかけた壁の隙間へと滑り込んだ。背後で怒号と銀のペンの衝撃音が響く。彼女は暗い通路を、父から託された真実だけを灯火にして走り続けた。
ビアンがたどり着いたのは、粛宗が一人佇む池のほとりだった。
「王様……!」
ボロボロの衣服、煤けた顔。だがその瞳には、王の威光さえも跳ね返す光が宿っていた。
「お前は既に大逆人と定義されている。私が言葉を発すれば、お前の命は今この場で清書されるのだぞ」
傍らにはヨンギが刀を携えて立っていた。記録に従うべきか、この少女の下書きを信じるべきか。
ビアンは秘密記録を王の足元に差し出した。
「どうかご覧ください。銀のペンが塗り潰した、この国の裏の筆跡を。ヒジェが、南人の重臣たちが、あなたの名前を使って書き換えた……父と、職人と、多くの民の死の記録を!」
その時、闇の中からチャン尚宮が現れた。手には呪われた銀の硯が握られている。
「王様、惑わされてはなりません。その記録こそ、この娘が捏造した偽りの下書きに過ぎませんわ」
硯に血を落とし、銀のペンを振り上げる。証拠書類が白紙に変わろうと襲いかかった。
「させない……!」
ビアンは最後の一片となった消しゴムを、書類の上に叩きつけた。
キュリ、キュリ……!
これまでで最も激しい音が響き、全身から力が抜け落ちる。代償として失われたのは、ビアン自身の「名前の記憶」だった。
(私は……誰? 父様が最後になんと呼んでくれたのか……思い出せない)
己が何者であるかという根源的な記憶を捧げたことで、チャン尚宮の書き換えは無効化された。白紙になりかけた書類の上に、チェ・ヒョウォンの、そして多くの犠牲者の黒い文字が鮮烈に浮かび上がった。
「……これが、余の治める国の真実であったか」
粛宗の言葉と共に、空気が一変した。ヨンギがゆっくりと刀を抜き、ビアンではなくヒジェとその手下たちへと向けた。




