第十三回
余白の埋め合わせ
都へ帰還した一行を待っていたのは、割れんばかりの沈黙と畏怖の視線だった。
死んだはずの男を連れ戻したビアンの名は、一晩にして宮廷中に知れ渡った。だが、賞賛を浴びる彼女の心はどこか虚ろだった。
(下書き:……思い出せない)
自室の暗闇で母の顔を思い出そうとする。脳裏に浮かぶのは、煤けた銀の霧ばかりだ。消しゴムの代償は、彼女の心の支えを確実に削り取っていた。
「ビアン監察官。王様がお呼びです」
夜の政殿で、粛宗は銀のペンを置いてビアンを待っていた。慣れぬ手つきで煎じた茶を差し出す。王自らが女官に茶を出すなど、前代未聞の記録外の出来事だ。
「見事であった。お前の引いた線が、国の崩壊を食い止めたのだ」
「……恐れ入ります。職務を全うしたまでです」
「職務か。私には、お前という人間が、この退屈な記録の海に投じられた光のように見えるのだ」
粛宗の言葉が、凍えた心に触れた。だがその睦まじい様子を、扉の隙間から見つめる影があった。チャン尚宮だ。彼女は銀のペンを握りしめ、震えていた。
(私の場所が……あの娘の余白に塗り潰されていく)
翌朝、監察府はチャン・ヒジェへの調査を開始した。
「キム・ユンダルとの密約、および死体偽装への関与。申し開きをしていただこう」
ヨンギの宣告に、ヒジェは余裕の笑みを崩さなかった。
「あの娘の『下書き』が、公式な記録に勝てるとでも思うのか」
銀のペンを走らせると、提出された証拠書類の文字が不自然に滲み、消えていく。
(下書き:消されたなら、その消えた跡を読めばいい)
ビアンは懐から短くなった鉛筆を取り出した。
「ヒジェ様、文字は消せても、紙に残された筆圧までは消せなかったようですね」
鉛筆の腹で書類を薄く擦ると、消えたはずのヒジェの署名が浮き彫りのように現れた。
「これは……!」
「鉛筆は、隠された凹凸を見逃しません」
窮地に陥ったヒジェが逆上し、懐から包みを投げ捨てた。
古びた、血に汚れた蝶の鍵飾り。
ビアンの息が止まる。チャン尚宮が持っていたものとは違う。あの日、雪山で父の命を奪った者が持っていた、本物の対の飾りだった。
「……なぜ、あなたがこれを」
「これの持ち主を殺したのは私ではない。だが、これがお前の父の死の真実を記した鍵であることは間違いないぞ」
邪悪な笑い声が廊下に響く。
父の死の真相。消された記憶。目の前に突きつけられた残酷な鍵。
ビアンは激しい眩暈の中で、折れそうな鉛筆を必死に支えていた。




