第十ニ回
第十ニ回:江華島の残響
江華島の海岸線に、荒い波が打ち寄せていた。
「三日の猶予、最後の日だ。キム・ユンダル、お前の『死』という記録を、ここで清書させてもらうぞ」
ソ・ヨンギの声が、海鳴りに混じって響く。彼の傍らには、馬を駆り、息を切らしたビアンが立っていた。彼女の瞳は、砂浜に残された「銀の馬蹄の跡」を捉えている。
一方で、チャン・ヒジェに雇われたチャ・ジョンチョルは、キム・ユンダルを連れて廃屋に潜んでいた。
「……おい、案内人。早く船を出せ。このままでは銀の法の番人が追いついてくる」
ユンダルが怯えながら、懐の密輸帳簿を握りしめる。ジョンチョルはゆっくりと笠を脱ぎ、焚き火の光の中で冷酷な笑みを浮かべた。
「船なら用意してある。だが、それはお前を清国へ運ぶためのものではない。地獄の淵へと案内するためのものだ」
「な、何だと……!」
その時、廃屋の壁を突き破るように、一本の銀の矢が飛来した。ソ・ヨンギの「追跡の記録」が、ユンダルの居場所を確定させたのだ。
「そこまでだ!」
踏み込むヨンギと武官たち。だが、ユンダルは必死の形相で、隠し持っていた「編馨の欠片」を取り出し、床に叩きつけた。
「来るな! この石の音が、お前たちの『記録』を狂わせてやる!」
石が砕け、不快な高周波が空間を支配した。銀のペンを持つ武官たちが、耳を押さえて崩れ落ちる。魔法的な秩序を乱す不協和音。それは、第6話でビアンが目撃した「記録を壊す音」そのものだった。
ビアンは、激しい頭痛に耐えながら、折れかけた鉛筆を握りしめた。
「(下書き:この音は、中心となる『核』があるはず……)」
彼女は鉛筆の先で、空中に舞う石の粉塵の動きをなぞった。銀のペンでは捉えきれない、不安定な振動。その中心に、鉛筆の線を叩き込む。
「消えて……偽りの共鳴!」
ビアンは、すり減った消しゴムを自分の心臓に近い胸元に押し当てた。
代償として、彼女の脳裏から「母が最後に微笑んだ顔」の記憶が、霧のように消えていく。その痛切な犠牲と引き換えに、空間を揺らしていた不協和音がピタリと止んだ。
静寂が戻った廃屋で、ジョンチョルがユンダルを組み伏せる。
「ビアン、よくやった。お前の『下書き』が、この偽装を打ち砕いたぞ」
捕らえられたユンダルの前で、ソ・ヨンギが冷徹に銀のペンを走らせる。
「キム・ユンダル、生存を確認。密輸の罪状、および死体偽装の共犯者を、ここに記録する」
その瞬間、物陰から逃げ出そうとしたチャン・ヒジェの手下たちが、銀の重力によって床に縫い付けられた。
三日の期限、その数刻前。
ビアンとヨンギは、生け捕りにしたキム・ユンダルを連れて都へと帰還した。清国大使は、目の前に現れた「死んだはずの男」を見て、ぐうの音も出なかった。
「……約束通り、真実を連れてまいりました。これが、私たちの国の『記録』です」
ビアンの毅然とした言葉に、大使は黙って頭を下げた。外交危機は回避され、ビアンの監察官としての地位は、もはや誰も否定できないものとなった。
その夜、ビアンは一人、王宮の塀の上で月を見上げていた。
助け出したジョンチョルは、再び闇へと消えた。彼は「ヒジェの背後に、もっと巨大な筆がいる」という言葉を残して。
そして、代償として失った母の笑顔を思い出そうとするが、どうしても霞んで見えない。
「(下書き:私は……多くのものを消しながら、この線を引いているのね)」
涙を拭い、ビアンは新しい帳面に線を引いた。その先には、事件の黒幕へと続く、長く険しい道が書き込まれようとしていた。




