第十一回
偽りの死、真実の逃走路
「……これまでと同じように、私に接してはくれぬか」
人払いをさせた政殿で、粛宗は玉座から降り、ビアンの前に立った。王の銀筆は国の運命を決定する。だがその瞳に宿るのは、記録に縛られない一人の男の孤独だった。
「王様、私はただの女官に過ぎません。銀の記録が、私たちの間に明確な境界線を引いております」
「その境界線を鉛筆で書き換えたのは、お前ではないか」
粛宗の微かな微笑みが、ビアンの心に形のない動揺を残した。
ビアンが解いた暗号から、慕華館の床下に大量の銃が発見された。清国から密輸された、王宮を脅かす物理的な暴力だ。ソ・ヨンギは即座に兵を動かしたが、たどり着いた先には無残に息絶えた死体があった。
「自害……。銀の法を逃れるために、自ら筆を折ったというのか」
報告を受けた粛宗のもとに、清国大使が怒鳴り込んできた。自国の民の死が確定すれば、外交問題は避けられない。
「その死体は、キム・ユンダルではありません」
ビアンの声が、凍りついた空気を震わせた。死体の首筋に、編馨の石による共鳴痕がない。それが偽装の証だった。
「三日だけ猶予をください。必ず、生きている本人を見つけ出してみせます」
大使はビアンの眼差しに圧され、条件を飲んだ。
都の裏通りで、ヒジェはキム・ユンダルを清国へ逃がすべく、笠を深く被った男に銀を積んでいた。
「江華島まで案内しろ。追手はヨンギの精鋭だ」
「……承知した。地獄の果てまで案内してやろう」
チャ・ジョンチョルの低い声が夜風に溶けた。ヒジェは気づいていない。目の前の男が、かつて自分が追放した宿敵であることを。
ビアンは地図をなぞり、ユンダルが逃げるであろう最短の綻びを特定した。ソ・ヨンギと共に白馬を駆り、江華島への道を飛ばす。
漢江手前の街道で、ビアンの馬が急に足を止めた。
道の端に、白い毛の塊が丸くなっていた。豊山犬の子犬だ。片耳に泥をつけ、冷たい石畳に貼りつくようにして震えている。
「……ビアン、急ぎますぞ」
ヨンギの声に、ビアンは一瞬躊躇した。だが次の瞬間、馬から飛び降りて子犬を外套に包んでいた。
「迷い込んだのね。あなたも、記録に残らない余白の中で生きているの」
子犬は力なく尾を振った。ビアンはそれを懐に抱き、再び馬に跨った。
三日の猶予。それはビアンが真の監察官として清書されるための、最後の戦いだった。その懐に今、どの記録にも書かれていない小さな命が息づいていた。




