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7/10

先生と呼ばれた日

 朝、マリーを教室に案内した。


 と言っても、空き地にテーブルを一つ置いただけの場所だ。使っていなかったものを家から運んできた。木目のあちこちが欠けているが、書き物をする分には問題ないだろう。


「ここが教室……!」


 マリーは紙と鉛筆を胸に抱えたまま、おずおずと周囲を見回している。


「まあ、屋根もないけどな」


「い、いえ!木陰があって、その、涼しくて……いいと思いますっ」


 小さな声だったが、嫌がっている様子ではなさそうで、少しほっとした。


 マリーは椅子に座ると、持ってきた紙をテーブルに広げる。そこで、俺が用意しておいたものに気づいたようだった。


「あの……紙の下に置いてある、これは?」


「下敷きって言ってな。これを敷くと書きやすくなるんだよ」


 と言っても、薄い木の板を削り、表面を滑らかにした代物だ。それでも、何も敷かないよりはずっとマシだろう。


 マリーは恐る恐る紙を乗せて、鉛筆で線を引いてみた。


「あ……ほんとだ。書きやすい、です」


「だろ? 使っていいぞ」


「い、いいんですか……? こんな、立派なもの」


「立派じゃない。ただの鉄板だ」


 それでもマリーは、宝物を扱うような手つきで下敷きを撫でていた。


「じゃあ、始めるか。ただ、先に言っておくと、俺はこの世界の字が書けないんだ」


「そう、なんですか?」


「読むのはなぜかできるんだけどな。だから、言葉と数字だけで教えることになる。分かりにくかったら、遠慮なく言ってくれ」


「は、はい」


     ※


 まずは、一番簡単なところから始めた。


 一足す一。二足す三。指を折れば数えられる範囲の足し算だ。


 マリーはすらすらと解いていく。手が止まる気配もない。


「よし。じゃあ次はこれだ」


 俺は数字を並べて書いた。八足す七。


 繰り上がりが出てくる問題だ。ここでつまずく子は多い。


 マリーはしばらく紙を見つめてから、ためらいがちに口を開いた。


「十五、でしょうか」


「正解だ。どうやって考えた?」


「あ、あの……間違ってたら、ごめんなさい」


 マリーは俯いたまま、鉛筆の先で紙をなぞる。


「八に、あと二を足したら十になるので……七から、二を借りてきて。残りが五なので、十五かなって……」


 俺は思わず声を上げそうになった。


 教えてもいないのに、いわゆる「十の合成」を自力で見つけている。


「すごいな。今の考え方、まさにその通りだ」


「……え!?」


 マリーが、ぱっと顔を上げた。


「ああ。十を作ると計算が楽になる。学校で最初に教える、大事な考え方だ」


「そ、そうなんですか……!?ここで、十を作るんですね」


 小さく呟いたその声には、これまでにない張りがあった。


「ああ、そうすれば計算しやすいだろ?」


 そこからは、まるで坂道を転がるような速さだった。


 繰り下がりのある引き算も、少し説明しただけで飲み込んでしまう。二桁の計算に進んでも、紙に書く手が止まらない。


 一通り教え終わる頃には、式を見ただけで答えを口にするようになっていた。


「あの……!もっと、難しいのも……あります、か?」


 顔を伏せたままだったが、指先はもう次の問題を待っている。


 ――この子は、本当に「向いている」んだ。


 運動もだめ、会話もだめ、と言われ続けてきたらしい。だが、それは単に、この子の得意な土俵が誰の目にも

触れていなかっただけの話だ。


     ※


 その間、もみじにはチチルと一緒に周囲の散策に行ってもらっていた。ファームから見える範囲だけ、という約束で。


 そういえば、さっきから姿が見えない。


「あれ? あいつらは?」


「それならさっき、奥に行くのが、見えました」


「え!? 危険だ。すぐに連れ戻しに――」


 立ち上がりかけた俺を、マリーがきょとんとした顔で見上げた。


「あの……チチルがいるので、たぶん大丈夫です」


「え?」


「あの子、周りに何があるか、全部見えてるそうで……」


「ん? 周り?」


「は、はい。街の中でコインが落ちても……どこで落ちたか、分かるみたいです」


 ――それ、とんでもない能力じゃないか?


「わ、私がここに一人で来られるのも……その、チチルがいるからで……」


 マリーは、こともなげにそう言った。


 チチル。ランクは確かにFだった。だが、あの索敵能力があるなら、下手な戦闘力よりよほど価値があるんじゃないだろうか。


 もしかして――「ランク」という枠を外して見たら、この世界のモンスターは、どいつもとんでもない力を持っているんじゃないか?


 もみじの鬼火も、チチルの探知も、ランクの数字だけを見ていたら絶対に気づけないものだった。


 俺はしばらく、その考えを頭の隅に留めておくことにした。


     ※


 夕方になり、そろそろマリーが帰る頃合いになった。


「あ、ありがとうございました……!」


「お疲れ様。チチルもありがとうな」


「いいえ。この辺を回るの初めてだから、楽しかったわ。それに」


 チチルは、もみじの方をちらりと見た。


「面白い話も聞けたしね」


「チチルさん! 内緒って言いました!」


 もみじが顔を真っ赤にして声を上げる。


 なんの話だろうか。聞いてみようかとも思ったが、もみじの慌てぶりを見る限り、藪蛇になりそうだったのでやめておいた。


「あ、そうだ。これ、お土産」


 俺は、朝のうちに焼いておいたものを差し出した。


「……? な、なんでしょう」


「クッキーって言ってな。帰りにお腹が空いたら食べてみてくれ。ドライフルーツも入ってるから、そっちはチチルに」


「え……そんな、いいんですか……?」


「ああ、俺も楽しかったし。またおいで」


 マリーはしばらく袋を見つめてから、意を決したように顔を上げた。



「……はい! タケル先生!」



「先生?」


 思わず聞き返すと、マリーは慌てて肩を縮める。


「あ、あの……魔法学校では、教えてくださる人のこと、先生って呼ぶって……だ、ダメでしたか?」


 ――先生、か。


 この世界に来て始めて呼ばれる懐かしい呼び名だった。


「いや、うん。ありがとう。そのままでいいよ」


「は、はい……!」


 マリーははにかむように笑って、小さく手を振りながら帰っていった。


 その背中が森の向こうへ消えるまで、俺はずっと見送っていた。


 まだ、生徒は一人だけだ。それでも、この場所は確かに学校になったのだと思う。

読んでくださりありがとうございます!あと三話です。

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