先生と呼ばれた日
朝、マリーを教室に案内した。
と言っても、空き地にテーブルを一つ置いただけの場所だ。使っていなかったものを家から運んできた。木目のあちこちが欠けているが、書き物をする分には問題ないだろう。
「ここが教室……!」
マリーは紙と鉛筆を胸に抱えたまま、おずおずと周囲を見回している。
「まあ、屋根もないけどな」
「い、いえ!木陰があって、その、涼しくて……いいと思いますっ」
小さな声だったが、嫌がっている様子ではなさそうで、少しほっとした。
マリーは椅子に座ると、持ってきた紙をテーブルに広げる。そこで、俺が用意しておいたものに気づいたようだった。
「あの……紙の下に置いてある、これは?」
「下敷きって言ってな。これを敷くと書きやすくなるんだよ」
と言っても、薄い木の板を削り、表面を滑らかにした代物だ。それでも、何も敷かないよりはずっとマシだろう。
マリーは恐る恐る紙を乗せて、鉛筆で線を引いてみた。
「あ……ほんとだ。書きやすい、です」
「だろ? 使っていいぞ」
「い、いいんですか……? こんな、立派なもの」
「立派じゃない。ただの鉄板だ」
それでもマリーは、宝物を扱うような手つきで下敷きを撫でていた。
「じゃあ、始めるか。ただ、先に言っておくと、俺はこの世界の字が書けないんだ」
「そう、なんですか?」
「読むのはなぜかできるんだけどな。だから、言葉と数字だけで教えることになる。分かりにくかったら、遠慮なく言ってくれ」
「は、はい」
※
まずは、一番簡単なところから始めた。
一足す一。二足す三。指を折れば数えられる範囲の足し算だ。
マリーはすらすらと解いていく。手が止まる気配もない。
「よし。じゃあ次はこれだ」
俺は数字を並べて書いた。八足す七。
繰り上がりが出てくる問題だ。ここでつまずく子は多い。
マリーはしばらく紙を見つめてから、ためらいがちに口を開いた。
「十五、でしょうか」
「正解だ。どうやって考えた?」
「あ、あの……間違ってたら、ごめんなさい」
マリーは俯いたまま、鉛筆の先で紙をなぞる。
「八に、あと二を足したら十になるので……七から、二を借りてきて。残りが五なので、十五かなって……」
俺は思わず声を上げそうになった。
教えてもいないのに、いわゆる「十の合成」を自力で見つけている。
「すごいな。今の考え方、まさにその通りだ」
「……え!?」
マリーが、ぱっと顔を上げた。
「ああ。十を作ると計算が楽になる。学校で最初に教える、大事な考え方だ」
「そ、そうなんですか……!?ここで、十を作るんですね」
小さく呟いたその声には、これまでにない張りがあった。
「ああ、そうすれば計算しやすいだろ?」
そこからは、まるで坂道を転がるような速さだった。
繰り下がりのある引き算も、少し説明しただけで飲み込んでしまう。二桁の計算に進んでも、紙に書く手が止まらない。
一通り教え終わる頃には、式を見ただけで答えを口にするようになっていた。
「あの……!もっと、難しいのも……あります、か?」
顔を伏せたままだったが、指先はもう次の問題を待っている。
――この子は、本当に「向いている」んだ。
運動もだめ、会話もだめ、と言われ続けてきたらしい。だが、それは単に、この子の得意な土俵が誰の目にも
触れていなかっただけの話だ。
※
その間、もみじにはチチルと一緒に周囲の散策に行ってもらっていた。ファームから見える範囲だけ、という約束で。
そういえば、さっきから姿が見えない。
「あれ? あいつらは?」
「それならさっき、奥に行くのが、見えました」
「え!? 危険だ。すぐに連れ戻しに――」
立ち上がりかけた俺を、マリーがきょとんとした顔で見上げた。
「あの……チチルがいるので、たぶん大丈夫です」
「え?」
「あの子、周りに何があるか、全部見えてるそうで……」
「ん? 周り?」
「は、はい。街の中でコインが落ちても……どこで落ちたか、分かるみたいです」
――それ、とんでもない能力じゃないか?
「わ、私がここに一人で来られるのも……その、チチルがいるからで……」
マリーは、こともなげにそう言った。
チチル。ランクは確かにFだった。だが、あの索敵能力があるなら、下手な戦闘力よりよほど価値があるんじゃないだろうか。
もしかして――「ランク」という枠を外して見たら、この世界のモンスターは、どいつもとんでもない力を持っているんじゃないか?
もみじの鬼火も、チチルの探知も、ランクの数字だけを見ていたら絶対に気づけないものだった。
俺はしばらく、その考えを頭の隅に留めておくことにした。
※
夕方になり、そろそろマリーが帰る頃合いになった。
「あ、ありがとうございました……!」
「お疲れ様。チチルもありがとうな」
「いいえ。この辺を回るの初めてだから、楽しかったわ。それに」
チチルは、もみじの方をちらりと見た。
「面白い話も聞けたしね」
「チチルさん! 内緒って言いました!」
もみじが顔を真っ赤にして声を上げる。
なんの話だろうか。聞いてみようかとも思ったが、もみじの慌てぶりを見る限り、藪蛇になりそうだったのでやめておいた。
「あ、そうだ。これ、お土産」
俺は、朝のうちに焼いておいたものを差し出した。
「……? な、なんでしょう」
「クッキーって言ってな。帰りにお腹が空いたら食べてみてくれ。ドライフルーツも入ってるから、そっちはチチルに」
「え……そんな、いいんですか……?」
「ああ、俺も楽しかったし。またおいで」
マリーはしばらく袋を見つめてから、意を決したように顔を上げた。
「……はい! タケル先生!」
「先生?」
思わず聞き返すと、マリーは慌てて肩を縮める。
「あ、あの……魔法学校では、教えてくださる人のこと、先生って呼ぶって……だ、ダメでしたか?」
――先生、か。
この世界に来て始めて呼ばれる懐かしい呼び名だった。
「いや、うん。ありがとう。そのままでいいよ」
「は、はい……!」
マリーははにかむように笑って、小さく手を振りながら帰っていった。
その背中が森の向こうへ消えるまで、俺はずっと見送っていた。
まだ、生徒は一人だけだ。それでも、この場所は確かに学校になったのだと思う。
読んでくださりありがとうございます!あと三話です。




