~幼児編 8~
母は自分は召使いでも世話係でもない!と泣いていたが、それには彼女自身と夫の育った環境での価値観であり、娘の認識とは齟齬があった。
彼女は幼い頃、失語症の為、誰かが側にいたし、不登校児でもあった。
両親も良い所の産まれだったため、子育てとは召使いや教育係の仕事だったため、彼女も同じ環境で育った。
また夫も同じだった。
最も、夫の場合は身体が弱く入退院してばかりいる母を置いて父が愛人の家に移ってしまい、その環境は瓦解したが。
戦争で夫も子供もなくした母の姉である叔母の所へ養子と言うことで一般的な環境に置かれたが、その頃には既に学生であり教育係は不要だった。
夫は贅沢だが冷たい家庭よりも二人きりで苦労も多いが暖かい家庭に満足した。
叔母は自分よりも早く起き遅く寝る人だった。
そんな叔母を理想の母親像とした夫は、産みの親に似た、身体が弱く働き稼げばその分身体を壊し治療費が掛かるという令嬢育ちを妻にした。
その為か、理乃の両親は子育てとは無縁であり、それは召使いの分担である、親とは時折可愛がり、生活費を稼げば良いという価値観の持ち主だった。
けれど、現状の生活では、娘である理乃は大変手が掛かる子供だった。
夫は父と喧嘩別れをし、既に亡くなっていたし、召使いを雇えるほどの余裕などなく、自分達で世話をするしかなかった。
朝は溺れた記憶のせいか、顔に水を着ける事が出来ない娘の為に濡れタオルで顔を拭いてやり、朝食の準備をし、それが終われば歯磨きをしてあげ、着替えの洋服も母が選び、次は髪を結う。
娘の準備が出来た所で、保育園に連れて行けるだけの外出の準備を整え、保育園に預ける。
夕方に帰って来た娘が一番風呂であり、入れてやる。
自分で洗えない娘の全身を洗い、髪の手入れまでしてから、夕食、寝支度までと手が掛かる。
娘は当たり前の様にそれらを受け入れ、母にとっては完璧に召使いの仕事だった。
最も、娘の認識とは程遠いのだが。
歯磨きは口の中に異物を突っ込まれ、それがノドに刺さらないか感覚で監視し、趣味に合わない服を着なければならない。
髪を結われる時は引っ張られて痛く、髪が沢山抜ける。
そして水嫌いな彼女は、シャンプーハット必須であり、洗われている間はタオルを顔に押し付け完全防備である。
洗い流す時はタオルを外され、シャワーの水圧との戦いで呼吸は出来ない。
終わった後に慌ててタオルを求めて手を彷徨わせるが、お風呂場には父の剃刀が有り大変危険な為、慌てて母がタオルを顔に押し付ける。
身体を洗われるのも嫌いで簡単な呼吸困難に陥る。
湯舟では、水圧に負ける体質の為、肺が圧迫され、やはり呼吸困難になる。
少しでも負担を減らそうと上半身を水面から引き上げ様とすれば、母に肩まで浸かれ、と戻される。
通常の人間は湯舟程度の水圧に負けない様に身体から反発する様に出来ている。
だが、どういった体質なのか、彼女は水圧に負けるほどの反発しか出せず、肺や胃などが圧迫される。
湯舟の水圧に負ける程なのだから、通常時の重力も他の人間よりもかなり重く感じるのだが、それが普通と思っている彼女が疑問に思う事はない。
お風呂とは彼女にとっては忍耐との戦いであり、殆どパニック状態で過ごしている。
入浴後は息も絶え絶えで、意識は軽く飛んでいる。
母がいなれけば、自分は普通の生活ですら困難である。
その為、少しでも役立とうと自分で出来る範囲の手伝いをし、自分で出来る事はしようと思っていた。
だが、洗面台は届かないため、よじ登れば叱られ、自分で服を選ぼうとすれば母に叱られる。
髪も以下同文であり、お風呂なども一人で入るのは禁止されている。
洗濯物を畳むのを手伝うのは叱られないのでセーフとし、日々畳み方の勉強中である。
霞沢家では、役立たずに発言権はなく、子供用のテレビは兄の独占状態だ。
兄は自分で出来るのだ。
足を引っ張らないだけ、足手まといの理乃よりも権限は上である。
その為、自分で出来る事を見つけ、修得していくのは彼女にとっては当然だった。
”働かざる者、食うべからず”
そんな格言を元に手伝いや兄の宿題の答え合わせなどの簡単な仕事をする。
算数や理科などは答えが決まっていて、問題集の回答集と記号を一つずつ確認していけば答え合わせくらいは出来る。
彼女の中に算数やカタカナの知識はないため、回答集は全て記号の集まりだが、形の見分けくらいは出来るのだ。
暇があれば、兄の国語辞典を借り、”あ”から順番に見ていくのだが、難しすぎて理解出来ないことばかりだ。
彼女は”子供の仕事は寝る、食べる、遊ぶ”などという事を知らない。
娘は外見的には両親に似ていないが、内面で言えば兄よりも両親に似ている。
クシャミの仕方は母と全く同じだし、本が好きなのも同じだった。
現実逃避と知識欲では根本的に違うかもしれないが。
食べ物や物の趣味は辛いのを除けば父にそっくりである。
兄は出来ない事はしない。だってしょうがないじゃん。出来ない事は出来ない。という、母と同じような性格だった。
娘は、壁にぶち当たったら、攻略しろ!乗り越えるかぶち壊せ!精神の持ち主で父と同じだった。
その為、父娘は大変気が合い、父は調子に乗って、軍隊時代に拝借してきた小銃の扱い方まで娘に教えている。弾は抜いてあるが。
興味を持った娘にドンドン調子に乗った父はいらない事まで教えていたが。
理乃同様、好奇心が強い父は劇団員経験があり、そこである種のトラウマを作った。
そのトラウマを娘によく話した。
テレビで女の子の子役を見ては「こいつ等は嘘つき予備軍だ!」と嫌悪を露わにした。
そのため、理乃は「嘘つきはダメ」と覚えた。
群れのボスの言うことには従う。
霞沢家で最も権限を有しているのは、幼い理乃の見立てでは父だった。
実の処、妻に大変甘い父は旅行先や外出先などは妻の希望に合わせている。
有給なども妻が「シーズン中は高い!」という要望で無理矢理連休前に取り、連休中に出勤していたのだが、そんなことを理乃は知り得る筈もなかった。
幼く、保護が必要で有り、生存本能に長けていた理乃は、父に最も権限が有り、母は機嫌を損ねてはいけない、兄は多少雑に扱っても良いが、怒らせると暴力を振るわれると判別していた。
自分の権限は何処まで可能か、なども色々区分けした。
最下層にいた理乃は不自由だった。
彼女の苛立ちは立場ではなく、その立場に追いやった周りではなく、自身の不甲斐なさに向かった。
自分だけに色々な”ダメ”があるのは”自分がダメだから”だと。
その為、少しでも役立ち”普通であれる様””ダメを減らす”努力する事を当面の目標とした。
けれど、彼女の努力は違う形で影響し、返還された。
お手伝いを積極的にする妹。
ゲームばかりで全くお手伝いをしない兄。
兄はゲームを買う為にお小遣いを欲した。
その為、両親はお手伝いをした分だけお小遣いをあげる制度にした。
お兄ちゃんが少しでも家のお手伝いを積極的にするようにしたかった。
お金が欲しいのは兄だけだったし、お小遣い制度にしてしまえば、娘の行動も「お小遣い欲しさ」と思い込める為に母の精神衛生上、かなり楽になると思った。
夫には、ご褒美をあげたいから、と言えば、簡単に許可が出た。
娘は何が好きなのか、何が欲しいのか全くわからず、誕生日やクリスマスの度に苦労していた。
息子は玩具屋さんで大騒ぎしてくれるので大変わかりやすい。
その為、息子にあげるものは困らず、少々高いのが問題だったが、折角買ったのに喜ばないよりはマシだと思い、それを与えていた。
可愛い娘への褒美のあげ方がわからなかった夫は賛成した。
けれど、お金の使い道がない理乃は貯金箱にジャラジャラと貯まっていった。
ゲーム三昧の兄はお金が足りず、余らせている妹に「貸して?」と頼み、使い道がない理乃は「どうぞ」と貸していた。
それを聞いて、母も娘に借りる様になった。
二人とも返済する気は皆無である。
良く似た母兄だった。
返済を強要も催促もしない理乃に対し、両者は益々借りて行ったが、毎日いくつかのお手伝いをしてお小遣いを貰っていたし、お年玉も丸ごと貯めている理乃の貯金箱が空になることはなかった。
客観的に見れば、母の自爆だった。
自分だけズルい事をし、ズルい自分に言い訳して許し、正当化させていった母に対し、真面目に出来る事をし、出来ない事は工夫して出来る様に試行錯誤し、日々努力と忍耐を惜しまず生活している娘に良心の呵責だのコンプレックスを抱こうが、理乃の知った事ではない。
理乃は誰かに何かを指図する権利もなく、養われている身では文句を言える立場でもないと思っていた。
自分でどうにか出来ない事は放置。が基本理念なのもあった。
だが「知った事ではない」と放置出来るのは第三者のみで有り、巻き込まれていた理乃は本人の知らない間に当事者となっていた。
父の様に怒鳴る事もなく、兄の様に抗議する事もない理乃は、ストレスの格好の捌け口となっていた。
小さな女の子という侮りもあった。
障害が有り、一人じゃ何も出来ず、それ故に拒絶出来ないという安心もあった。
母や兄には攻撃してこない、という事実もあった。
それ故に。そうであったが為に。
父の知らないところで、理乃は二人に当たられ、搾取され、強奪され、利用された。
それらすらも、理乃が疑問に思う事がないほどに。
「当たり前なこと」と認識してしまうほど日常的なモノとなっていた。
そのうち、キレた理乃の本能により母や兄は殺されはしないものの、半殺しくらいにはされていただろう。
人間は被害妄想が強く、被害者意識が強く、自分より強いモノは排除し安寧を得ようとし、それを正義とする生き物だ。
理乃は母により「人間外であり強者」と認識され、「守り愛する幼い娘」という事実は母の自己防衛により無視された。
他者と本能の欲求が衝突する時、生き物は争う。自己の安全の為に。利益の為に。
そして、最初に手を出すのは、大抵はその牽制に圧倒され混乱した側か、圧倒的有利を確信した側か、機会を得た側。
母は、全ての条件を満たしていた。
それが覆された時、人はどう感じるだろうか。
相手を畏怖し敬遠するか。
または全力を持って排除するか。
母は後者を選び失敗し、前者を選ばざるを得なかった。
罪悪感故に。夫に告げ口される恐怖心故に。自分が悪者だと発表されない為に。
そんな家の中にいては、彼女は脅迫感は増すばかりだと思った。
家にいたくないと思った。
いもしないあの子に監視されているかと思うと怖かった。
その為、本の世界へと逃げた。
けれど、家にいたにも関わらず、部屋が片付いていない事を指摘されるのが怖かった。
堂々巡りが巡りすぎて、パニックを起こし、窮鼠猫を噛むとはこの事か・・・などとアホな事まで考えた。
そんな中、大好きな本屋で憧れのアルバイトが出来ると知って、適当な理由を付けて夫の許可を求めた。
収入が少ないから。などと言えば夫が怒るのは眼に見えていた。
だから「本屋さんで働いてみたかった」とか「ずっと一人で家にいるのは寂しい」などと言った。
実際、彼女は高校卒業後、学校のコネで銀行に就職したが、一年足らずで厭きたとか、お局が煩い、という理由で退職している。
そしてその後、憧れだったという理由で再就職もせず、喫茶店でアルバイトをしていた。
そんな過去を知っていた夫は、その理由を不思議に思わなかった。
夕方までには帰って来ることや、祝日休日は働かないという条件で許可を出した。
理乃は保育園が終わると、保育園の目の前にある夜まで営業している児童保育へと移動する事になったが、兄が保育園に迎えに行く事で解決した。
タイトルなんて・・・(ぇ




