~幼児編 7~
理乃の保育園生活は平和に日々成長し、順調に経過していた。
クラスの子が色々と教えてくれたお陰で、絵本の中の単語も大体理解出来る様になった。
ただ「何故そんな事をするのか?」というのだけは理解出来なかった。
理乃には生存本能やそれに伴う防衛本能、目立ちたくない願望、目指せ”普通”という擬態能力の修得であり、知識欲くらいだった。
そのため、支配欲や物欲などとは無縁である。
金に目が眩んだ物語や地位に執着した物語など理解不能だった。
「隣の芝は葵」とも無縁だった。
理乃の目指しているのは、自分の中に掲げた目標であり、他人ではない。
そのためか、他人を羨ましいと感じた事もない。
欠陥品である自分の前で健常者が当たり前の様に出来る事は自分には出来ない。
その事に対しても、欠陥品である自分に苛立ちを覚えるだけだった。
理乃には、他人の存在をきちんと認識する能力を有していない。
それもあり、自分と比べるという事をしない為、羨ましがる、悔しがる、憧れるという事がわからない。
欠陥品に産んだ母を恨むなどという発想もない。
母が自分の様な子を望んでいなかったのは明白だったのだから。
むしろ、欠陥品でごめんなさい。普通の子じゃなくてごめんなさい。と謝罪の嵐であり、どうにか頑張って母が喜ぶ様な人間に成りたいと思っていた。その頃は・・・。
ある日、武田の元に母が訪れた。
「あの子普通じゃない!何なの?!アレは何?!」
半狂乱を起こしていた。
焦ったのは武田である。
数ヶ月振りに訪れた彼女は、以前よりも切羽詰まっていた。
あの子供は保育園に入り、接触時間は多く減り、同時に彼女は自由な時間を手に入れた筈である。
「どうしたんですか?大丈夫です。どうか落ち着いて」
落ち着いて貰わなければ、碌に話も出来ない。
特別にコーヒーを出し、落ち着くまでゆっくりと声を掛け続けた。
彼女に落ち着く様に諭しながらも、武田の内心は何があったのかと嫌な予感に襲われていた。
人間は嫌な予感ほど中るものだ。
落ち着いた彼女は少しずつ話だした。
娘が保育園に通い出したこと。
保育園で人気者で上手くやっているらしいということ。
言葉もかなり覚え、流暢に話す様になったこと。
夫とも仲が良く、難しいテレビの内容について話していること。
簡単な家事は率先して手伝ってくれること。
自分が苦手な掃除や整理整頓も代わりにやってくれる様になったこと。
それを聞いた武田は一安心した。
やはり、同世代の子達との接触は良い影響をもたらしたのだという事に。
「保育園には、歩いて行き帰りをしてるんです。うちの近所には信号も横断歩道もない小道ばかりですし」
住宅地の中心ということもあったし、当時の車の普及率もまだ高くなかった。
「娘の手は、夏はかなりの熱を持っていて、冬は冷たいので、手を繋いだりはしません」
その理由は車が通る道を目に軽度の障害がある幼い子供と手を繋がない理由に足りるとは思わなかったが、武田は相槌を打つに留めた。
「あの子、おかしいんですよ。手は物凄く熱いのに、顔に汗かかないんです。首から下にしか汗かかないんですよ。おかしいでしょう?私は汗で化粧が崩れてドロドロなのに」
熱中症が心配になる体質だが、女優さんなどに良く聞く体質でもある。
当時はウォータープルーフの化粧品は下地くらいな物だった。
「保育園の帰りに、道を歩いてたんです。真っ直ぐの道で、道の反対側に私が先に行って、距離がわからないあの子の代わりに私が車が来ないか見て、あの子に来るタイミングの指示を出すんです」
まぁ、それならば問題はないのかもしれない。
真っ直ぐの道ならば、見渡しも良いだろうし、突然車が曲がって来ると言う事もないだろう。
「なのにおかしいんですよ!!?どうして?!絶対に轢かれるタイミングだったのに!!!二回もやったのに、絶対に怪我の一つもしないなんてあり得ます?!ぶつからないどころか、擦りもしないっておかしいでしょう?!」
彼女の瞳孔は完全に開いており、興奮状態だった。
「轢かせようとしたんですか?」
それは、もはや殺人罪を問われてもおかしくない。
轢いたのが彼女じゃないとしても。
殺人罪を問われるのは、不幸にもそこを通った運転手だとしても。
彼女のしようとした事は裁かれるべきものだった。
「だってあの子邪魔なんだもの!!あの子のせいで!!あの子がいるから私はダメになるの!!私を見てくれないの!!夫も娘ばっかり!!私はあの子の世話係じゃないわ!!召使いでもないの!!それなら、私だって、ああなりたいわよ!!そうしたらみんな私を愛してくれるの??くれないでしょう??あの子がいる限り。私はなれないの。私にはあの子みたいに成れないの!!私はあんなに強くないの!!!!」
彼女は完全に正気を失っていた。
保育園に通い、日々成長していく子供に、成長期が終わった大人は、成長速度ではとても敵わない。
本来であれば、子を産む時点でアドバンテージを持っており、その上で育児を通して親も成長する。
けれど、育児を拒絶した彼女には、親として育つ機会がなかったのだろう。
上の子と一緒に育つ事は出来ても、障害のある子の親というのは大変なものだ。
その大変さに彼女は耐えきれず逃げ出し、一人で耐え成長していく子供に置いていかれた。
母親に拒絶された子供は多大なショックを受け、トラウマとなり、一生重くのし掛かる。
彼女は、自分の事で精一杯で子供の事を考える余裕もなかったのだろう。
あの子の成長速度は、検査という短い間でもかなりの速度だった。
同世代の子供達と学ぶ事で、より速く成長していったのだろう。
あの強く真っ直ぐな瞳のままに。
「あの子、何て言ったと思います?」
直後の事だろうか。
「”怖かった”とかですか?」
「・・・だったら良かったんです。怖かったって、泣きついてくれれば、私だって”危なかったね。気をつけようね”って言えたんです・・・」
狙った人間がなんとまぁ、いけしゃあしゃあと。
「では、なんと?」
事故に合いそうになった子供は恐怖以外に何て言うのか。
「”危なかったね。ママは大丈夫?”って言ったんです。”怪我してない?顔色悪いよ?”って・・・」
それは・・・なんとまぁ、しっかりしたお子さんである。
あのまったりペースな口調しか知らない武田には想像もつかない。
「顔色悪いよって!私が狙った事、絶対気付いてるんですよ!!だって私が来なさいって言ったんだもの!!気付くに決まってるわ!!そして夫に告げ口するのよ!!!そしたら・・・そんなことになったら・・・!!!!私の家での立場なんて無くなるわ!!居場所も!夫からの愛も!!!あの子のせいで!!何もかもあの子に奪われるの!!!私は何も悪い事なんかしてないのに!あの子がでしゃばるから!!ダメなままでいてくれれば良かったのに・・・!!!!」
支離滅裂だった。
けれど、ここまで行ってしまった人間に他人の言葉が何処まで届くのだろうか。
彼女が欲しいのは許しであり、愛される事。
それを与えられるのは夫であり、娘だろう。
「旦那さんは何と?」
無言で首を横に振った。
彼女の顔は汗ではなく涙でグチャグチャだった。
あの子の性格を分析すると、母親の悪事を告げ口するとは思えない。
下手したら、気付いてもいないかもしれない。
武田はそんな希望を願った。
誰だって、母親に殺されかけた、なんて知りたくないだろう。
「・・・それ以来、あの子、怖いんです。まるで二重人格みたいに」
「詳しくお願いします」
二重人格みたいに、とは穏やかではない。
その事件はそれ程あの子にショックを与えたのだろうか。
・・・ショックを受けて当然かと思った。
「・・・朝、起こそうとすると、怒るんです。冷たい声で。尖った声で。”黙れ。邪魔だ”って。”消えろ。目障りだ”とも言われました!!でも、ちゃんと起きた時にはそんなこと知らないって言うんです!!!」
「口調は同じですか?雰囲気など」
「いいえ。全然知らない人間みたいです。子供の口調じゃないですあんなの!!!大人の!!女王様みたいに命令に慣れている、そんな感じで・・・!起きたらいつものウザイ口調で”おはよぉ~”なんて言うのに・・・!!」
二重人格の可能性はあった。
二重人格になるだけの経験をあの子はしている。
「あの子、怖いんです。人間じゃないですよ、あんなの。みんなお腹壊しても、一人だけ平気だし。保育園で感染性の風邪が流行っても平気だし。お兄ちゃんがインフルエンザで寝込んでる同じ布団で寝てても移りもしないんですよ?子供のウチに罹っておいた方が良い病気の注射しても発症しないんです。何ですか?アレ。うちの子は何処に行ったの?私の子供を返して・・・!!」
それは・・・物凄い体質なのだろうか?ただの偶然の可能性が高いと思うのだが。
あの子は病気にかかりにくい体温を維持している。
流行りの風邪だって、何も全員がかかるわけでもない。
先入観が強すぎて、意識しすぎてしまうのだろう。
「・・・一人で家にいたのでは、息が詰まりませんか?」
「・・・・はい。つまらなくて。何かしなきゃって思うんですけど・・・」
毎日毎日、家事に明け暮れていては、息も詰まるだろう。
彼女自身が息抜きをして、自信を着けた方が良いかもしれない。
彼女の子供はずっと見ていなくてはならない様な障害でもない。
「近所でアルバイトでもなさったら如何ですか?読書がお好きでしたよね?商店街に小さな本屋があるでしょう。あそこを口添えしておきましょうか?知り合いなので、時間の融通とかもさせますよ?」
武田は恩着せがましくならないように言った。
実際、一人で経営してる店だったので、休憩時間が取れないと。
短時間での募集では人は来ないと悩んでいた。
彼女がアルバイトに頷くならば、互いに条件が合う。
「本屋さんは良く行くのでわかりますが・・・。そこまでお世話になるわけには・・・」
否定しつつ、彼女にその気が芽生えているのを見つけた。
それなら話は早い。
「あぁ。旦那さんとのご相談も必要ですよね。あちらは急いでもいませんし、どうとでもなりますからご安心ください。口添えするだけで、面接には受かって頂かないと流石に無理ですしね」
明るい話をしよう、と思った。
前を向いて歩き出せる様に。
希望的観測だが、あの子は気にしていないと思った。
それよりも、目の前にいる母親の意識や思考が負の悪循環に陥っている方が問題に思えた。
母親の意識さえ変われば、それはあの子への思いも変わるだろう。
助けを必要としているのは母親だった。
誰かの補助なくては自信も打ち砕かれ、可愛がっていた筈の子供がバケモノに見えてしまうほど。
事実、理乃は気付いていなかった。
母の「危ない!!」という声に振り向いたら車があった。
距離を計るための時間を割くなどということもせず瞬時に身体に任せた。
理乃の防衛本能は優秀で有り、彼女が怪我をすることは許さない。
精々が完全に回復可能な切り傷くらいである。
そのため、転んだ際には見えない側の膝小僧をよく擦りむいた。
けれど、一月も経たずに完治する。
絆創膏すら必要ない。
瞬時に本能に支配権を譲渡した故に怪我もなく、また細かい事は記憶に残らない。
本能的に母に殺されかけた事は彼女が傷付くと判断した為、記憶も映像も彼女が認識出来る場所には置かなかった。
二回目ともなると、危ないので直前のみ映像を残した。
彼女の記憶映像に音声を残すのことはまだ出来ない。
轢かれそうになった事だけ映像として残しておけば、今後、道路を渡る時には自分で注意するだろう。
彼女は見えなくても、それを補うだけの聴覚がある。
車が近寄って来ていたら聞こえている。
本来は母の合図など必要なかったのだ。
武田達が疑った二重人格の原因は本能である。
脳の殆どを任され、時に身体の支配権すら任せられる本能はある意味、別人格とも言えるだろう。
本能を人格と言える程、強化し、発達させたのは彼女の無意識による防衛手段だ。
何せ、寝ていても有事の際や、深夜のトイレ、水分補給など身体に必要な事はしてくれる。
寝ている時に活動しているのは深層意識の脳である。本能の活動時間とも言える。
風邪に関しても同様である。
対ウイルスに強いだけで、普通の風邪は引く。
ウイルスはモノによっては命に影響するが、ただの風邪では死に至る様な環境ではない。
その為、本能は風邪程度の弱性ウイルスを対処するほどのエネルギー分配をせず、経験により抗体を作り出す方を選んだ。
ウイルスに対抗する為にも多くのエネルギーを消費する。
効率良く運用しなければ、身体がもたない。
夏と冬は春や秋よりも体温調節の為に多くのエネルギーを必要とするのだが、与えられる食事量は季節によって変動することもなく、母親の手料理では今の摂取量が限界だった。
食事環境に問題がなければ、ただの風邪すらも引かなかっただろう。
食中毒に関しては、危険なモノは胃が消化を拒み、口から排出される。
それは意識して行う事は出来ない。逆に消化を意識して進める事も出来ない。
けれど、吐くタイミングは自分の意思で可能だった。
拒食症の人間は吐く為には指を口に突っ込まなければならず、吐きダコというものが出来る。
だが、理乃は自分の意思で吐く事が可能だった。
そう思えばいい。その器官に意識を傾けるだけで済む。
彼女は満腹という状態は認識出来るが、空腹という現象がわからない。
赤ん坊だった頃に、空腹による夜泣きがなかったのはその所為である。
空腹状態でより多くのエネルギーを必要とする大泣きなどしては無駄使いと判断され、寝ていただけだ。
彼女は赤ん坊の頃からすでに”泣けば食事が与えられる”という当たり前で有り、人間であれば誰しも本能で理解している事を知らなかった。
彼女は本能という強いモノに守られ他の人間とは違う価値感を、感覚を抱いてこの世に産まれていた。




