~猫を被るって難しい~
真知子が注意をしようと思い、予想外の態度に唖然とした理乃の態度。
理乃は別に敬語が使えないとか、礼儀知らずな訳ではない。
あえて使わない。と言った方が正しい。
理乃はアルバイト経験も含めれば、十年以上社会人経験がある。
敬語やTPOにあった態度くらいは繕えて当然だった。
それに、彼女は接客などは滅多にない専門職ではなく事務職経験者でもあった。
接客応対やお茶出し、電話対応なども担当することになるのだから、実経験で言えば、真知子よりも上だ。
理乃が普段しないのは、プライベートというのが大きい。
それにプライベートだからと言って、誰でも彼でも同じように接したりはしない。
相手が親しく話をするに値する人間であり、相手が許容出来ると判断した場合のみに限られる。
そして、相手の面子が潰れるような公の場所では弁えるのだから、相手も何も言ったりしなかった。
「自分の勝手で相手に迷惑を掛けない」それが理乃のポリシーである。
例えその「迷惑」の判断が独特だとしても。
校長室でゴロゴロしていた時、「授業が始まったから戻りなさい」と言われても、「出ないからいい」と断る。
けれど「一人の生徒だけを特別扱いしてると言われると問題だから、教室に戻りなさい」と言われたら、それもそうだ。と退室するくらいである。
いくら中学生と言えど、女子生徒。
それが授業中に男性と密室で二人きり。ゴロゴロしているせいで、スカートに皺が付いている。
第三者がドアを開けていたら、たちまちスキャンダル発生である。
校長先生の立場を思いやって行動するくらいの礼節や判断能力は持ち合わせていた。
だが、思いやるのは相手がそれに値すると判断した場合のみであり、それが実行されるのは稀である。
中学校の校長先生や武田がいい例だろう。
彼女は中学時代、校長先生以外とは碌に会話もしていない。
会話があったとしても、指示を出す、くらいなものだった。
三者面談ですら、主導権は彼女にあったのだから。
彼女は不遜だった。自分の行動は自分で決める権利があった。責任を負うのは義務であり当然だった。
そして、親に養われている身、というのも充分に理解していた。
それらを踏まえた上での自分の意見を述べた。
そしてそれを教師陣はたとえ社会的に問題だろうが崩せなかった。
ある者は説教をした。
黙殺された。
ある者は懐柔しようとした。
食べ物は受け取るくらいだった。
ある者は正論を諭した。
信念を持った強い言葉で端的に必要ない事を告げた。
ある者は力加減はしただろうが、叩いた。
一度では効果がなかったので、再び呼び出して叩いた。
彼の経験では、叩けば大抵の中学生の女子は怯えて言う事を聞くようになる。
けれど、結果は、侮蔑した冷え冷えとした視線を向けられて終わった。
彼女に「言う事を聞かないから」と言って暴力を振るった時点で、その人間は彼女が最も軽蔑する母親と同じ扱いになった。
他者の言葉を一切受け入れず、自分の言葉すら相手に届ける気も皆無な彼女は、校長先生くらいしか会話をする教師などいなかった。
中学校という社会の中で他の教師陣は会話をするに値するものではなく、彼女が認識出来たのがたまたま一番偉い校長だけだったのだ。
その時の校長は人格者としてそれなりに有名だった。
無駄に話が長く、無駄に偉そうで権力を振り撒く小物ではなかった。
また権力のある立場にいる人間のみ親しくしているわけでもなかった。
彼女に取っての肩書きはただの記号と一緒だった。それ自体に価値を感じたりはしない。
肩書きがあろうがなかろうが、彼女は彼女の中のナニかで測っていた。
高校ではまともに会話をした教師など一人もいなかった。
会社では、相応の態度が給料に含まれていると弁えていたので、それなりの態度は作る。
最も長くいた職場が三年半なので、問題は態度だけではなかったとは思うが。
三年半も理乃が同じ場所に居られたのは仲が良くなった女性の影響が大きい。
人生で会社関係で仲良くなった人間は女性二人だけだった。
その内の一人に、一回目の転職で出会った。
もう一人は最初の職場で出来た付き合いである。
彼女は中々、他人に打ち解けない性格をしている。
被り慣れていない猫も被っていたので、余計に。
その為、女性だけの職場だったこともあり、彼女は「人見知りが激しく大人しい子」という認識がされた。
だが、社内に一人でも彼女が打ち解けた人間がいれば、差が歴然となり、今までは気にも留めなかった彼女の態度が全く違う方向に受け取られるのだ。
節度ある態度を求めていた先輩達は、今までは気にしていなかった態度が俄然、我慢出来なくなったのだ。
人見知りが激しく無口だが仕事はスピーディーに文句を言う事もなくこなす子。から、懐いてくれない可愛気のない子。へと変わった。
社会人として求められているのは仕事をこなす事である。
または、定時の間にその場にいて、求められた仕事を処理してくれれば問題ない筈だろう。
そこに素直さや従順さ、言わなくても処理してくれる。ミスがない。などが付けば文句も言えないのが普通といえる。
三十路を過ぎた今だからこそ、許される場合も多々ある。
だが、若かった頃の理乃は年齢不詳な外見と、お昼休みにはすやすやと寝ている所作から子供っぽく見られ、華奢な体型がそれに輪を掛けた。
普段から無口なのもいけなかったのかもしれない。
雑談中にわからない箇所があると、首を傾ける、などというジェスチャーで返す事が多々あった。
質問があると挙手をする、ということもあった。
それらが余計に幼さや小動物感を演出した。
社会人用にと猫を被っていたのが最たる原因かもしれない。
自分が他者からどう見えるかについて全く自覚がなかったのも問題だったかもしれない。
彼女の先輩達は彼女に自分にも懐く事を強要した。
勿論、彼女の答えは「No」だった。
職場は仕事をする場所であり、先輩方の人形でもマスコットになることでもないというのが理乃の自論だった。
だが、先輩方や同僚、後輩が求めたのは「マスコットであること」だった。
その会社が理乃に求めたのは、常識からも外れていたが、理乃がそれに気付くことはなかった。
よくある事だった。何故か自分を支配下に置きたがる人間は子供の頃からよくいた。
それらをことごとく無視をするか、逆に支配権を握るという対処方法で自分の安寧を手に入れていた理乃にとっては慣れた事である。
だが、流石に職場でそんな事をするわけもいかず、少々困っていた。
会社側が求めた事は仕事なんて出来なくてもいいのである。
むしろ、出来ない方がいい。
「先輩、わかんないです。教えてください~」
なんて困った様子で泣きついて頼られたいのである。
何せ、理乃がその会社に採用された理由が「可愛いから。お姉様って呼ばれたい」だったからだ。
だが、「お姉」という愛称で呼ばれ、懐かれたのは理乃より後に入った、理乃より一つだけ年上の女性だった。
その後輩が入る前までは、こっそりと愛でていたのだが、懐いた理乃は妄想フィルターが掛かっている彼女等から見たら、親鳥にくっついて歩いているひな鳥にしか見えなかった。
電話で「お姉いますか?」と言えば、社内の誰もがその女性だとわかるほどに浸透していたのもあったし、
寝坊しがちな理乃に対して、モーニングコールをその女性に上司自らがお願いする。という不思議なルールすらあった。
十九時まで残業していれば、一人暮らしの理乃に対して「門限大丈夫?」と上司が心配したり。
飲み会で遅くなれば、タクシーまで二周り近く年上で本部長でもある女性がエスコートしたり。
運の悪い事に彼女は人の眼を惹いた。
ナンパや変質者対策を周りが勝手に心配したのだ。
人目を惹くというのは、いい事ばかりではない。
彼女がトイレだ小休憩だと席を立つ度に、みんな視線が向いてしまうのである。
いつもはパーテーションに区切られていて見えない分、席を立った時に眼に入った時の衝撃が凄かった。
足音なんてしないよう静かに歩いているにも関わらず見られていた。
そのせいか、彼女の離席だけが印象に強く記憶に残った。
よって「あの子はしょっ中休んでいる」という誤った印象を残した。
社内で最年少だった彼女が入社して三年で先輩方を置いて部長候補に上がってしまったのも、尚更その印象を悪いものへと変わっていったのだろう。
八つ当たりされようが、自分が一切関わっていない案件のミスを自分のせいにされようが理乃は文句も反論もしなかった。
無駄だとわかっているからだ。
彼女の優先順位は理不尽に対する怒りでもなく、社会のルールや規則でもなく、常識でもなかった。
嘘をつかない。約束を破らない。これが絶対遵守のルールであり、彼女の中にあるルールは常識より遥かに重く厳しく自分を縛る枷だった。
だが、嘘をついた。コレが理乃が会社を辞めた最も強い理由だったかもしれない。
たまたま、運悪く、彼女が懐いていた女性が支社へと異動になったのも大きかった。
感情表現があまりない理乃の通訳をしてくれる相手がいなくなったのだ。
難しい話を理解出来ない年上の女性への解釈は理乃がし、理乃の通訳はその女性がした。
彼女が会社を辞める、と宣言して、反対したのは自分の後釜にと、彼女に懐いてもらいたい現・部長だけだった。
やっかいな事に、理乃に執着していたのは女性の部長だったのである。
社長はむしろ賛成した。「辞めたいなら止めなくていい」と。
彼女は社長や副社長とは余り親しくなかった。
だが、会長とはそこそこ仲が良かったのである。
飲み会など、最初は参加自由だったのだが、会長のお気に入りとわかるや否や参加が必須になった。
社長にとって会長のお気に入りの歳若い女の子にしか見えない人間が部長の座に就かれた日には立場が危ない。
明らかに彼女の立ち位置や扱いは異常だったが、それに気付いた者は当事者には誰もいなかった。
会社関係の人で理乃が仲良くなる人は少ない。
十年以上の社会人期間で女性二人しか現れなかった。
それだけ稀少な存在である。
人間関係が狭い理乃にとっては、そうそういない相手だった。
だが、その内の一人であるその女性は、理乃が会社を辞める際に「一緒に映画見に行こうね。絶対だよ!スケジュール今度連絡するからね」という約束をついうっかり忘れたため、理乃のアドレスから名前が消えた。
それくらい、理乃の中で約束を破る、と言うのは重い。
そして、同じくらい嘘を付く、というのも重かった。
理乃にとって、表面だけを取り繕った礼節ある態度。は嘘と同義だった。
その為、給料に含まれておらず、そういった態度を取ることを約束されていないプライベートでは、相手の面子に関係がない限り、普通に会話をするというのが、存在を認めているという意思表示のようなものだった。
理乃にとっての「せんせー」や「せんぱい」という音だけを取り繕うよりも、心からの「師匠」や「お姉」や呼び名の方が余程重みがあり、認めた相手にはキチンと尊敬語や丁寧語、謙譲語を使う。
大抵の人間には自然に。当然に。必然に。親や教師、先輩から覚える処世術を彼女は持ち合わせておらず、また持つ機会も少なかった。
彼女の生い立ちや生態は、特殊だった。
少なくとも、その会社のおかげで、猫を被る、という行為が危険と認識してしまうような生い立ちだった。
理乃はその後、猫を被る、という行為をしなくなった。




