第8話 老宰相の遺言
人が最後に残す言葉は、その人の生き様そのものだと思う。
ハインツ老宰相が倒れた。
宮廷会議の召集をかけた直後、執務室で意識を失ったという知らせが走った。
王宮の侍医が駆けつけたが、首を横に振るだけだったらしい。ロジーナが蒼白な顔でそう伝えてくれた。
私が駆けつけたとき、ハインツは寝台の上で、紙のように白い顔をしていた。
白髪の痩身。背は曲がりかけていたが、それでも眼光だけは鋭かった──はずの人が、今は瞼を閉じて横たわっている。
枕元には、あの古い懐中時計が置かれていた。蓋が開いたまま、止まっている。
「……エステルか」
声は驚くほど明瞭だった。
目を開けたハインツは、私を見て小さく笑った。皺の刻まれた顔に、不思議な穏やかさがある。
「来ると思った」
「宰相閣下、会議の件は──」
「会議は間に合わんだろう。この身体では、もう時間がない。自分の身体のことは、自分が一番よく知っている」
枕元に座り、老人の手に触れた。
乾いて冷たい手だ。しかし微かに、私の指を握り返す力がある。骨ばった指が、思い出したように動く。
「聞いてくれ、エステル。お前が調べていること──シュテルン家のこと、王太子の不正、すべて知っている」
「知っていた……?」
「三年前から、ずっとだ。だが証拠を揃える前に、王太子の力が大きくなりすぎた。俺一人では動けなくなった」
老宰相の目に、悔恨の色が浮かんだ。
この人はずっと、一人で抱えていた。正義を行うべき立場にいながら、力が及ばない。その無力感に、どれほど苛まれてきたのだろう。
「お前が処刑されるのを、止められなかった。力が足りなかった」
(この人は──まるで、前の人生のことを知っているかのような口ぶりだ。だが、そんなはずは……)
「宰相閣下?」
「お前に渡したいものがある。机の二番目の引き出し──古い懐中時計の裏に、鍵がある」
言われた通り、引き出しを開けた。
見覚えのある懐中時計。ハインツが重要な決断の前に必ず開いていた、あの古い時計。金属の蓋に細かな傷がいくつも刻まれている。長年ポケットの中で揉まれてきた、生きた道具の痕跡。
裏蓋を開けると、小さな鍵が一つ、布に包まれてはめ込まれていた。
「その鍵は、王宮の地下文書庫を開ける。──そこに、シュテルン家の継承権に関する原本がある。王太子が破棄したと思っているものの、本物だ」
「本物? 王太子が持ち出したのは──」
「写しだ。原本は三年前、俺が密かに地下に移した。公文書の原本は、王印が押された唯一のもの。写しは何枚でも作れるが、原本は一つしかない。あの文書さえあれば、王太子の偽造は証明できる」
中世の宮廷文書において、原本と写しの区別は極めて重要だった。
原本には王の御璽が直接押されている。御璽の印影は蝋の温度や圧力で毎回異なり、物理的に複製できない。
だからこそ原本だけが唯一の法的効力を持つ。
ハインツの声が、少しずつ弱くなっていく。
息継ぎが長くなり、言葉と言葉の間の沈黙が広がる。
私は老人の手を両手で包んだ。
「宰相閣下、もう少しだけ──」
「エステル。お前は昔から、正しいことを正しくやろうとする人間だった。それは美徳だ。だが──」
咳が響いた。長く、苦しそうな咳だった。
背中をさすろうとしたが、ハインツは手を振ってそれを制した。
「正しさだけでは、この宮廷では生き残れん。したたかに、賢く、そして──信じられる者の手を離すな」
ハインツの視線が、扉の近くに立つニクラスに一瞬だけ向けられた。
「シュテルン家の若者か。──お前の父は、立派な男だった」
ニクラスが息を呑むのが聞こえた。
「父を知っているのか」
「友人だった。──守れなかったことを、ずっと悔いている」
老宰相の目から、一筋の涙が零れた。
泣いているのを見たのは、初めてだった。この厳格な老人が涙を見せるとは。
その涙は、三年分の──いや、もっと長い歳月の重みを湛えていた。
「エステル。王を──この国を、頼む」
それが、ハインツの最後の言葉だった。
握っていた手から力が抜け、古い懐中時計が静かに鳴りを止めるように、老宰相は息を引き取った。
窓から入った冷たい風が、寝台の傍で灯っていた蝋燭の最後の一つを、揺らして消した。
◇
泣いている暇はなかった。
ハインツの死は、すぐに宮廷中に知れ渡る。
そして王太子は、この機に乗じて動くはずだ。老宰相という最大の抑止力がいなくなった今、障害を一気に排除しにかかる。残された時間は、おそらく三日もない。
ニクラスが、私の肩にそっと手を置いた。
温かい手。大きな手。何も言わず、ただそこにある手。
「大丈夫か」
「大丈夫。──泣くのは、全部終わってから」
声が震えた。でも足は震えなかった。
ハインツが最後に見せた涙を、私は一生忘れないだろう。あの涙の重さに報いるために、今は前を向く。
ハインツの遺した鍵を握りしめる。
地下文書庫の原本。それが手に入れば、王太子の偽造を証明する決定的な証拠になる。
ヨーゼフのもとに使いを走らせた。
「ヨーゼフ、宰相閣下が亡くなった」
「……そうか」
短い沈黙。その沈黙の中に、言葉にならない悼みが詰まっていた。
「俺たちの時間は限られている。王太子が動く前に、地下文書庫の原本を確保する」
「分かった。宮廷会議を開く名目は俺が作る。──ハインツ殿の遺志を、無駄にはしない」
ヨーゼフの声には、いつもの皮肉がなかった。
代わりに、静かな決意が込められていた。
私はニクラスと二人で、地下文書庫に向かった。
王宮の地下は、表の華やかさとは別世界だ。湿った石壁。蝋燭の光が揺れる狭い通路。足元に水が滲み、靴裏が湿った石を踏むたびに小さな反響が返ってくる。
ハインツの鍵が、古い鉄の扉を開いた。
錆びた蝶番が軋み、重い空気が流れ出す。
地下の空気は、地上とは別の時間を刻んでいるようだった。壁に染みた水の跡が、何十年もの歳月を物語っている。ハインツはこの場所を三年間、たった一人で守り続けていた。誰にも打ち明けず、孤独のまま。
中には──一通の文書が、防水布に包まれて保管されていた。
シュテルン辺境伯家の継承権を認める王家の勅令。王の御璽が押された、正真正銘の原本。
蝋に刻まれた獅子のランパント。正規の封蝋特有の、深く澄んだ赤が蝋燭の光を受けて静かに輝いている。
「これで──証拠が揃った」
手が震えた。緊張ではなく、込み上げるものを抑えきれなくて。
ここに至るまでに、どれだけのものを失ったか。マティルデの命。ハインツの命。取り返せないものばかりだ。
ニクラスが、私の震える手にそっと自分の手を重ねた。
何も言わず、ただ、手の温度だけを伝えてくれた。
その温もりが、崩れそうな何かを内側から支えてくれた。
「……行こう」
頷いて、地下を出た。
階段を上る足取りは、もう震えていなかった。
三日後、ヨーゼフが開いた臨時宮廷会議──その場で、すべてが決する。王太子クリストフとの、最後の対峙が始まる。




