第6話 夜会の仮面
宮廷とは、全員が仮面をつけた舞台だ。素顔を見せた者から退場する。
ドロテーア公爵令嬢が主催する夜会への招待状が届いた。
紫の封蝋だ。彼女が典礼の全権を握ってからの、最初の大きな催し。
「これは、罠でしょう」
ロジーナが眉をひそめて言った。エプロンの裾を無意識に撫でている。
「ええ、そうね」
「それなのに行かれるのですか?」
「罠だと分かっていれば、罠じゃなくなるわ」
ロジーナは心配そうな目で私を見た。
この人の勘は鋭い。主人の危機を嗅ぎ取る嗅覚が、侍女としての長年の経験で磨かれている。
ドロテーアの狙いは明白だ。
夜会の場で私に恥をかかせ、宮廷社交界から完全に追い出す。前の人生でも、同じ手口だった。社交の場での評判を落とすことで、政治的な発言力を奪う──それがドロテーアの戦い方だ。
違うのは、今回は私が準備していること。
夜会に向かう前、ロジーナが私の髪を整えてくれた。
「エステル様、あの……お気をつけて」
「大丈夫よ」
「大丈夫じゃないから心配しているのです」
ロジーナの声が震えていた。両手を胸の前で組みながら、必死に笑顔を作ろうとしている。この人は、主人の危険を本能的に感じ取る。前の人生でもそうだった。
「ロジーナ。私が戻ってこなかったら、東棟の私の部屋の机の引き出しに、封をした書類がある。それをヨーゼフ伯爵に届けて」
「そんなことを言わないでください」
「念のためよ。──でも、必ず戻るから」
ロジーナの目が潤んだ。けれど泣かなかった。その強さが、今の私を支えている。
ニクラスが、護衛として同行してくれることになった。
ただし彼は貴族ではないから、会場には入れない。
「外で待つ。何かあったら窓を二回叩け。すぐに入る」
「乱入したら大変なことになるわよ」
「あんたが危ないなら、大変で結構だ」
ぶっきらぼうな言い方だった。でも、その声には有無を言わさない静かな強さがあった。
頬が少しだけ熱くなったのを、冷たい夜風のせいにした。
夜会は、王宮内の公爵別邸で行われた。
蝋燭の光が壁一面を照らし、花の香りが漂う広間。着飾った貴族たちが、酒杯を片手に談笑している。華やかだが、どこか張り詰めた空気がある。
壁際では楽士たちが弦楽の調べを奏でている。古典的な宮廷曲ばかり。格式を重んじる姿勢を見せつけるための演出だ。
この場の全てが、彼女の権力を誇示するために設計されている。
私は杯を手に取り、中身には口をつけずに会場を歩いた。知らない場での飲食は、宮廷では基本的な自衛だ。
会場に入ると、すぐにドロテーアが近づいてきた。
「まあ、エステルさん。来てくださったの。嬉しいわ」
親しげな声。けれどその銀の瞳には、品定めするような冷たさが浮かんでいる。
この女性の親しげな声には、常に計算が透けて見える。甘い言葉の裏に潜む冷たい意図を、私は見逃さない。
「素敵な催しですね。さすが、ドロテーア様のお力が行き届いています」
社交辞令を交わしながら、会場を観察する。
ドロテーアの夜会の招待客は約四十名。その顔ぶれを見れば、宮廷の勢力図が読める。王太子派が七割、中立が二割、それ以外がちらほら。私はその「それ以外」の少数派に入る。この場で孤立していることを、改めて実感した。
招待客の中に、見知った顔が混じっている。ルドルフ男爵。それから──ヨーゼフ伯爵。
(ヨーゼフが招かれている。ドロテーアと伯爵の間にも接点があるのか)
夜会が進む中、ドロテーアが仕掛けてきた。
「そういえばエステルさん、マティルデさんのことはお聞きになって? 体調を崩されて里帰りされたとか」
会場の視線が、一斉にこちらを向いた。
マティルデの名前を出すこと自体が挑発であり、同時に私の反応を見るための罠だ。動揺すれば「何か隠している」と思われる。平然としすぎても「冷たい人間だ」と評判が立つ。
(ここで感情を見せたら負けだ)
呼吸を整える。左手の指先を軽く握り、それから柔らかく微笑んだ。
「ええ、聞いています。早く良くなられるといいですね」
ドロテーアの目が、一瞬だけ細くなった。
予想した反応が返ってこなかったことへの、微かな苛立ち。
「ところでドロテーア様。この夜会、素晴らしい蝋燭をお使いですね」
「え?」
「蜜蝋の純度が高い。南方産の上質なものでしょう。蜜蝋の品質は産地の花の種類に左右されるそうですね。──ところで、蜜蝋といえば、封蝋の品質管理は典礼の管轄でしたけれど、今はどなたが?」
何気ない質問を装った。
しかしドロテーアにとって、封蝋の話題は触れられたくない急所のはずだ。彼女が典礼を握ったことで、封蝋の管理も彼女の手に移った。
ドロテーアの扇を持つ手が、わずかに強張った。扇の骨が、きしりと音を立てる。
「……当然、私の管轄です。何か問題でも?」
「いいえ、ただの確認です。引き継ぎ書類に不備がないか気になっただけ」
笑顔のまま引き下がった。社交の場では、勝ちを見せないことが真の勝利だ。相手に「負けた」と気づかせなければ、次の手を打つ余裕が生まれる。
深追いはしない。今夜の目的は、ドロテーアの反応を確かめること。反応は十分に得られた。次の手を打つ材料は揃った。
(封蝋の話題で動揺した。彼女は偽造の存在を知っている。──少なくとも、無関係ではない)
夜会の終盤、ヨーゼフ伯爵が私の隣を通りがかった。
すれ違いざま、低い声が耳に届いた。
「明日、俺の書庫に来い。見せたいものがある」
振り返ったとき、ヨーゼフはもう背を向けていた。
窓の外に視線を向けるその横顔は、夜会の灯りに照らされて、不思議と穏やかに見えた。敵の顔ではない──と思った。あるいは、敵を装うことに疲れた男の顔なのかもしれない。
帰り道、ニクラスが外套のまま門の脇に立っていた。
私の姿を見て、壁から背を離す。
二人で並んで歩いた。
ニクラスの歩幅は、いつものように私に合わせて少し狭い。隣を歩く距離が、初めて会ったときよりほんの少しだけ近くなっている気がした。
「うまくいったのか」
「小さな勝ち。でも、大事な一歩」
ニクラスは小さく頷いた。
月明かりの下、彼の横顔を見上げたとき、ふと思った。
この人がいなかったら、私はまた一人で戦っていた。そしてまた、一人で潰されていた。
「ニクラス」
「ん?」
「……ありがとう」
ニクラスは少し驚いたように私を見て、それから視線を前に戻した。
「礼を言われることはしていない」
「いるだけで、助かることもあるのよ」
沈黙。夜風が吹いて、ニクラスの外套の裾が揺れた。
「……そうか」
短い返事。だがその声は、普段の素っ気なさとは違い、いつもより少しだけ柔らかかった。
不意に、外套を着た彼の腕が私の肩にかすった。偶然なのか、意図なのか、分からない。でも冷えた体に、確かに温度が伝わった。
翌日、ヨーゼフ伯爵の書庫で私を待っていたのは──三年前に消された辺境伯家の名前と、それが持っていた「もう一つの王位継承権」だった。




