第5話 蜜蝋に刻まれた嘘
信じたい人ほど疑え──それが、一度目の人生で私が学び損ねた教訓だった。
ヨーゼフ伯爵との面談から三日。
私はマティルデの死の真相と、消された辺境伯家の名を追い続けていた。
手がかりは二つ。マティルデが残した封蝋の欠片と、書庫で見つけた紙片。この二つを結ぶ線を見つけなければならない。点と点を繋ぐのは根気のいる作業だが、急いで線を引けば見当違いの結論に辿り着く。焦りは禁物だ。
そんなとき、思いがけない人物が接触してきた。
「エステル様、少しよろしいですか」
ルドルフ男爵。宮廷の下級貴族で、穏やかな顔立ちに人懐こい笑顔を浮かべた男。
前の人生では、存在すら意識したことがなかった。廊下ですれ違っても、名前が出てこないような──そういう立ち位置の人物。
「王太子殿下の件で、内密にお話ししたいことがあります」
ルドルフは周囲を確認してから、声を落とした。
「殿下の周辺で、不穏な動きがあります。私のような下級貴族でも気づくほどの。──エステル様も、お気づきではないかと」
(この男、なぜ私のところに来た?)
観察する。ルドルフの目は真っ直ぐに私を見つめている。
瞳孔の動き、呼吸の深さ、手の位置──嘘の兆候は見当たらない。少なくとも、表面的には。
「どのような動きですか?」
「王太子殿下が、特定の貴族家に圧力をかけています。領地の召し上げ、爵位の剥奪をちらつかせて。──表向きは不正の摘発ですが、実態は口封じだと思います」
具体的で、論理的な説明。前の人生ではこの情報を持っていなかった。
ルドルフの存在そのものが、二度目の人生で初めて現れた未知の要素だ。
「なぜ私に?」
「エステル様が唯一、王太子殿下に対して動ける立場にいらっしゃるからです。典礼官としての権限が残っている今なら」
筋は通っている。
だが──前の人生で存在感のなかった男が、このタイミングで現れることに、小さな引っかかりを覚えた。
都合が良すぎる。ちょうど私が情報を必要としているときに、ちょうど必要な情報を持った人物が現れる。
(信じたい。でも、検証はする)
「分かりました。何か新しい情報があれば教えてください。私も調べています」
ルドルフは安堵したように微笑んだ。
その笑顔は──嘘をつく人間の笑顔とは違うように見えた。見えただけかもしれないが。
ルドルフが去った後、私は窓辺に座って考え込んだ。
情報の価値は、その情報が何を隠しているかで決まる。ルドルフの情報は正確だった。だが「正確な情報を渡す」こと自体が、より大きな嘘を隠すための手段になり得る。
信頼を得るために本物を小出しにし、最も重要な局面で偽情報を混ぜる。それは諜報の基本だ。
その夜、ニクラスに報告した。
「ルドルフ男爵。知っているか?」
「名前は聞いたことがある。目立たない男だ。宮廷での評判も特にない」
「目立たない──そうね。でも情報は正確だった。少なくとも、検証できる部分は」
ニクラスは剣の柄に手を置いたまま、考え込んでいた。
「気をつけろ。都合のいい味方ほど危険なものはない」
ニクラスの目は真剣だった。外套の奥で剣の柄に置いた手が、わずかに力を込めている。
この男は、人を見る目を持っている。剣士として生き延びてきた年月が、人間の嘘を見抜く感覚を磨いたのだろう。
「あの男の剣を見たか」
「剣? ルドルフは剣を持っていなかったけれど」
「持っていないのが不自然なんだ。宮廷の男は下級貴族であっても儀礼用の短剣を帯びる。あの男だけが丸腰だった」
(丸腰──つまり、武器を持たないことで敵意がないと示す意図がある。計算された親しみやすさ)
「分かっている」
分かっている、つもりだった。
◇
ルドルフの情報を手がかりに、私は圧力をかけられている貴族家を特定し、その一つを訪ねた。
辺境の小領主、ベッカー家。息子が王宮の近衛に所属しているが、最近になって突然の転属を命じられたという。
ベッカー夫人は、私の顔を見て泣きそうな顔をした。
「お願いです、典礼官様。息子は何も悪いことはしていません。ただ、ある夜の当直で──見てはいけないものを見てしまっただけなのです」
「何を見たのですか?」
「王太子殿下が──西棟の書庫から、大きな封筒を持ち出すのを」
点が繋がった。
王太子自身が書庫から文書を持ち出していた。近侍に命じただけではなく、自らの手で。それほど重要な文書を、他人に触れさせたくなかった。
王族が自ら文書を運ぶことは異例中の異例だ。通常、王家の者は直接手を汚さない。それが宮廷の慣習であり、身分の証でもある。その慣習を破ってまで自分で動いたということは、近侍にすら見せたくない内容だったのだ。
(その文書は「継承放棄」に関するもの。王太子がそれほどまでに隠したいものとは──)
一つの仮説が、頭の中で形を成し始めた。
もし「継承放棄」をしたのが王太子自身、あるいは王太子に代わって王位を継ぐべき人物だったとしたら。
王太子がそれを隠す理由は、自分の王位継承に直接関わるからだ。
封蝋について、もう一度調べる必要があった。
マティルデが残した封蝋の欠片──獅子のランパント。王家直系の印。
封蝋は、蜜蝋と樹脂を混合し、色ごとに異なる鉱物顔料を加えて作られる。
赤なら辰砂、紫なら貝紫──この調合比率は門外不出で、王家の封蝋師だけが知る秘伝だった。
つまり封蝋を分析すれば、それが正規の王家の蝋か、偽造かを判別できる。蝋に含まれる鉱物の配合比は、指紋のように一つとして同じものがない。
この知識は典礼官の研修で叩き込まれたものだ。外交文書の真贋を見分ける力は典礼官の最も重要な技能の一つだった。皮肉なことに、職を奪われた今になって、その技能が最大の武器になろうとしている。
私は封蝋の欠片を丁寧に保管し、比較のための資料を集め始めた。
典礼官として過去に受け取った、王家からの正式文書に使われた封蝋の色合いと質感を記憶と照合する。
そして気づいた。
マティルデが拾った封蝋は、色が微妙に違う。
正規の王家の赤蝋よりも、わずかに暗い。辰砂の赤が鈍く、光に翳したときの透明感が足りない。
(これは──偽造だ)
王家の紋章を模した、偽の封蝋で封じられた書簡。
その中身は「継承放棄」の文書。
「偽の文書で、誰かの継承権を消した」
私は暗い執務室で、声に出してみた。
仮説は仮説のまま。裏付けとなる検証にはまだ足りない。
でも、方向は見えた。
次に調べるべきは──三年前に消された辺境伯家の正体。そして、その家が持っていた「継承権」の中身。
ルドルフが持ってきた新たな情報が、机の上にある。
王太子の側近の行動記録。確かに有用だ。確かに、助かっている。
(でも──なぜ、この男だけがこれほど正確な情報を持っている?)
信じたい気持ちと、どうしても拭えない小さな違和感。
二度目の人生で、私はまだ同じ問いの前に立っている。
誰を信じ、誰を疑うか──その答えを間違えたとき、人は死ぬ。マティルデのように。




