第3話 燃え残った手紙
人は死の直前、不思議なほど穏やかな顔をすることがある。
マティルデがそうだった。
王宮の中庭で倒れた彼女の顔は、まるで何かを成し遂げたような、安らかな表情をしていた。
──だが、それは数日先の話だ。
今はまだ、舞踏会の前夜。私は記憶の中の時系列を辿りながら、やるべきことを整理していた。
前の人生で、マティルデは舞踏会の翌日に姿を消した。
「体調不良で里帰りした」と説明されたが、私が処刑台に立つまで、彼女は一度も戻らなかった。
当時の私はそれを疑問に思いながらも、自分の問題に手一杯で追及できなかった。
(今なら分かる。マティルデは何かに気づいていた。だから消された)
典礼官の執務室で、私は舞踏会の最終確認をしながらマティルデを待った。
元同僚の彼女は、今は女官として王太子の居室の管理を任されている。王太子に近い場所にいるからこそ、見えるものがある。
扉を叩く音。
「エステル、久しぶり」
マティルデは相変わらず、黒い髪をきっちりと編み込んでいた。
そばかすの浮いた頬に、少しだけ疲れの色が見える。目の下にうっすらと隈がある。最近、眠れていないのだろう。
マティルデとは、典礼官の見習い時代からの付き合いだった。真面目すぎるところが玉に瑕で、宮廷の陰謀には向かない性格。けれどだからこそ、嘘をつけない。この人が持ってくる情報には、作為がない。
「少し痩せたんじゃない?」
「そうかしら。仕事が立て込んでいて、食事が不規則なだけよ」
マティルデは困ったように笑った。その笑顔の奥に、疲労以上の何か──恐怖に近いものが見えた。
「舞踏会の件、聞きたいことがあって」
「ええ、私も話したいことがあるの」
マティルデは声を落とした。編み込んだ髪の先を指で弄びながら、迷うように口を開く。
「最近、王太子殿下の居室で……おかしなことがあって」
「おかしなこと?」
「殿下宛の書簡が、私の知らないところで処分されている。正規の手順を経ないまま、燃やされているの」
心臓が跳ねた。これは──前の人生では聞けなかった情報だ。
あのとき私がもう少しマティルデと話していれば、もっと早く真相に近づけたかもしれない。
「燃やされた書簡の差出人は分かる?」
「分からない。でも一度だけ、燃え残りを拾ったの。封蝋の欠片が残っていて──紋章の一部が読めた」
マティルデがエプロンのポケットから、小さな布に包まれた欠片を取り出した。
赤い蝋の破片。そこには、獅子の前足と思しき紋様の一部が刻まれている。
(獅子の紋章──王家の直系を示す印)
西洋の紋章学において、獅子は王権と勇気の象徴とされる。
特に前足を上げた「ランパント」の姿勢は、多くの王家が家紋に採用してきた。この国でも、獅子のランパントは王家の直系のみに使用が許される紋章だ。紋章の不正使用は、それ自体が重罪にあたる。
つまりこの書簡は──王家の誰かから王太子に宛てたものだ。
それが正規の手順を経ずに燃やされている。
「マティルデ、この欠片を私に預けてくれない?」
「もちろん。だからここに持ってきたの。他に頼れる人がいなくて」
彼女は小さく笑った。不器用だけれど、真っ直ぐな笑顔。
(この人だけは──絶対に守る)
「明日の舞踏会の後、一人で居室に戻らないで。私の官舎に来て。迎えを出すから」
「大げさね、エステルったら」
マティルデは軽く手を振って、部屋を出ていった。
編み込んだ黒髪が、廊下の燭台の光を受けて揺れる。その後ろ姿を見送りながら、私は拳を握った。前の人生では、この後ろ姿を見たのが最後だった。今度は違う。今度こそ、守り抜く。
◇
舞踏会の夜──王太子クリストフは、予想通りの「発表」をした。
「本日より、王宮の典礼に関する全権限を、公爵令嬢ドロテーアに委任する」
会場がざわめく。
私の職務を、婚約者に明け渡すという宣言。前の人生でもこの瞬間、私は衝撃を受けた。だが今は違う。
(来た。予定通りだ)
ドロテーアが優雅に一礼する。銀髪を飾る宝石が、燭台の光を受けて煌めいた。
微笑みは完璧だが、瞳だけが笑っていない──この人は昔からそうだった。口元の優雅さと、目の奥の冷徹さが噛み合わない。
社交界では「氷の薔薇」と呼ばれているらしい。美しいが、触れれば傷つく。その異名の正確さに、今更ながら感心する。
問題はこの後だ。
前の人生では、舞踏会の翌日にマティルデが消えた。
今度こそ、それを防がなければならない。
私はホールの隅に目をやった。ニクラスが柱の影に立っている。
目が合う。小さく頷いた。「見ている」という合図。
あの男は約束を守る。それだけは、わずか数日の付き合いで確信していた。信頼とは行動の積み重ねだ。言葉ではなく、行動で示す人間を私は信じる。
舞踏会が終わり、招待客が去った後──私は東棟に急いだ。
マティルデの部屋に向かう途中、廊下で異変に気づいた。
中庭に面した回廊に、人影が倒れている。
走った。息が切れるほど走った。
膝をついて、倒れた人の肩に触れる。
マティルデだった。
目を閉じて、石畳の上に横たわっている。
顔色が異常に白い。呼吸が浅く、唇が紫色に変わりかけている。手は冷たく、指先が微かに痙攣していた。
「マティルデ! マティルデ、起きて!」
駆け寄ったニクラスが、彼女の手首に指を当てた。
「脈が弱い。──何かを口にしたか」
マティルデの手が、かすかに動いた。
指先が私の袖を掴む。力は蜘蛛の糸ほどしかない。唇が、何かを形作ろうとしている。
「にし……とう、の……」
西棟。
それだけ言って、マティルデの手から力が抜けた。
握っていた指が開き、私の袖を離れていった。
「マティルデ!」
ニクラスが静かに首を横に振った。
私は彼女の手を握ったまま、声を出せなかった。
喉の奥が焼けるように熱い。目の奥が痛む。でも、泣いている場合じゃない。
今ここで泣いたら、この涙はただの感傷になってしまう。マティルデの最後の言葉を、行動に変えなければ意味がない。
前の人生では「里帰り」として処理された。
つまり、この死は隠蔽される。誰かが、彼女の死を「なかったこと」にする。
(必ず──この代償は払わせる)
ニクラスがマティルデの体を丁重に横たえ直し、外套を脱いでその上にかけた。
それは剣士としての弔いだった。戦場で倒れた者に、最後の敬意を示す所作。ニクラスがどんな過去を生きてきたか、その一つの動作に凝縮されていた。
中庭の石畳に膝をついたまま、私は考えた。マティルデは「西棟」と言い残した。あの最後の瞬間に、自分の命よりも情報を伝えることを選んだ。
私はマティルデの手をそっと石畳に置き、立ち上がった。
目尻を一度だけ拭い、呼吸を整える。左手の指先を強く握り込んだ。爪が掌に食い込む痛みで、頭が冴えていく。
「ニクラス」
「ああ」
「西棟の書庫に行く。今すぐ」
マティルデが最後に残した言葉。西棟。
そして王太子の近侍が何度も出入りしていた場所──西棟の書庫。
すべてはあの書庫に繋がっている。そして今夜、その扉を開けるのは私だ。




