第2話 名を持たない剣
知っている未来ほど、厄介なものはない。
すべてを知っているからこそ、一つの行動が蝶の羽ばたきのように未来を変えうる。
私は慎重に、前の人生と同じ行動を取り続けた。少なくとも、表向きは。
不用意に未来を変えれば、知っている情報の価値が失われる。慎重さこそが、今の私の最大の武器だ。
宮廷舞踏会の準備が着々と進んでいる。
典礼官として会場の配置を決め、招待客の席順を整え、楽団との打ち合わせをこなす。これは前の人生でもやったことだ。
違うのは、手を動かしながら、常に周囲を観察していること。以前の私なら見過ごしていたはずの些細な違和感を、一つも取りこぼさないように。
(王太子付きの近侍が、昨日から三度、西棟の書庫に出入りしている)
前の人生では気にも留めなかった些細な動き。同じ景色を見ているはずなのに、二度目の目で見ると、宮廷のあちこちに不自然な影が落ちていることに気づく。
今はその一つ一つが、パズルの欠片に見える。
「エステル様、あの、書簡の封蝋の件ですが」
ロジーナが控えめに声をかけてくる。
舞踏会の招待状に押す封蝋の色について、王太子側から変更の指示が来たらしい。
「赤から紫に? 理由は?」
「王太子殿下のご意向だとしか……」
封蝋の色には、宮廷の伝統において極めて厳密な意味が定められている。
赤は公式の祝事、紫は王族の私的な催事を意味する。
色一つの違いが、記録の有無を左右する。
(舞踏会を「私的な催し」に格下げする。つまり、記録に残さないつもりだ)
宮廷の儀礼を知らない者には、些細な色の違いに過ぎない。
だが封蝋の色は、その催事が公式文書に記録されるかどうかを決める。紫で封じられた招待状による催事は、王宮の公式記録から除外される慣例があった。
前の人生では、ここに気づけなかった。
王太子は最初から、記録に残らない場で何かを企んでいたのだ。
「ロジーナ、変更は受けるけれど、赤の封蝋で作った分は処分しないで。保管しておいて」
「はい、かしこまりました。……でも、なぜ?」
「念のため、よ」
ロジーナは不思議そうに頷いた。
この人は深く詮索しない。それが有り難い。けれどいつか、この人にも事情を話す日が来る。そのときは、信頼に足る行動を積み上げた後でありたい。
ロジーナが去った後、私は執務室の窓から中庭を眺めた。
庭師たちが薔薇の手入れをしている。王宮の庭園は四季を通じて花が絶えないよう設計されていた。春は藤と薔薇、夏は百合、秋は菊、冬は温室の蘭。
すべてが計算された美しさ。この宮廷も同じだ。表面は完璧に美しく、醜いものはすべて石壁の裏側に隠される。
午後、私は書庫で過去の舞踏会の記録を調べた。紫の封蝋が使われた事例を洗い出すためだ。
五年分の記録を遡ると、紫の封蝋による招待は三件。いずれも、公式記録に痕跡が残っていない催しだった。
つまり王太子は、前例を踏襲するふりをしながら、記録の抜け穴を意図的に使っている。巧妙だ。儀礼を知らない者にはまず気づけない手口。典礼官の知識がなければ、私でも見落としていただろう。
◇
その夜、私は一人で東棟の回廊を歩いていた。
三日前に出会った、あの男のことが気になっていた。
足音がした。
振り返ると──やはり、あの男が立っていた。同じ古びた外套。同じ灰青の瞳。
月明かりに照らされた横顔は、想像していたよりも若い。けれど目元には、年齢以上の疲労が刻まれている。
「また会ったな、典礼官殿」
「あなた、王宮の人間じゃないでしょう。どうやって入った?」
男は壁にもたれたまま、肩をすくめた。
「東棟の塀は古い。崩れかけたところを知っていれば、猫でも入れる」
「不法侵入ね」
「まあな」
悪びれもしない態度に呆れたが、不思議と警戒心は薄い。
この男からは、害意を感じない。むしろ──何かに急かされているような、切迫感がある。
体格は良いが、動きに無駄がない。剣を帯びた人間特有の、重心の低い立ち方をしている。
貴族の遊びの剣術ではなく、実戦で命を守るための技を叩き込まれた体だ。
「名前は?」
「ニクラス。ただの剣士だ」
「ただの剣士が、なぜ王宮に?」
ニクラスは少し間を置いてから、低い声で答えた。
「探し物をしている。──ここにしかない、あるものを」
具体的なことは語らなかった。
けれど嘘ではないと、直感が告げている。この男の目には、何かを追い求める人間に特有の、静かな飢えがあった。
「取引をしない?」
私は自分でも驚くほど冷静に、言葉を続けた。
「私はこの宮廷の内情に詳しい。あなたの探し物が何であれ、案内できるかもしれない」
「その代わりに?」
「私の護衛をしてほしい。この先、命を狙われることになるから」
ニクラスの目が、わずかに見開かれた。
おそらく、宮廷の典礼官が平然と「命を狙われる」と口にしたことに驚いたのだろう。
「……確信があるのか?」
「ええ。間違いなく」
沈黙が落ちた。
廊下の燭台が、風に揺れて二人の影を伸ばす。影が重なり、また離れる。
ニクラスは外套の中で腕を組み、しばらく私の顔を見ていた。何を考えているのか読めない表情。けれど、拒絶の色はない。
それから、ゆっくりと頷いた。
「いいだろう。ただし一つ条件がある」
「何?」
「俺に嘘をつかないこと」
真っ直ぐな言葉だった。飾りも駆け引きもない。
この宮廷では滅多に聞かない種類の言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「約束する」
こうして、私は二度目の人生で最初の味方を手に入れた。
名も素性もはっきりしない剣士。けれどその手は、確かに剣を握り慣れた手だった。
不思議なものだ。前の人生では、助けを求めることは弱さだと思っていた。
けれど今、見知らぬ男に護衛を頼んだことで、胸のつかえが一つ軽くなった。一人で抱え込まなくていい。それだけで、呼吸がずいぶん楽になる。
官舎に戻る道すがら、ニクラスが不意に口を開いた。
「一つ訊いていいか」
「どうぞ」
「今夜、西棟の書庫に誰かが入るのを見た。王太子付きの近侍だった。──あんたも気づいていたか?」
足が止まった。
この男は、部外者でありながら、私と同じものを見ていた。同じ違和感を、同じ場所で嗅ぎ取っていた。
(偶然? いや──この男は、最初から何かを知っている)
「気づいていた。あなたも見ていたのね」
ニクラスは小さく笑った。笑うと、少しだけ年相応に見えた。精悍な顔が一瞬だけ緩む。
「どうやら、探し物は同じ方向にあるらしい」
春の冷たい夜風が、回廊を吹き抜けていく。
私たちは並んで歩いた。まだ互いの事情を知らないまま、それでも同じ方向を向いて。
ニクラスの歩幅は大きかったが、私に合わせて少しだけ歩調を緩めてくれていた。それに気づいて、なぜか胸の奥がほんのり温かくなった。
翌日──宮廷に、一つの噂が流れた。
王太子が舞踏会の夜、重大な発表をするらしい、と。
前の人生で、その「発表」の内容を私は知っている。そしてそれが、すべての悲劇の始まりだったことも。




