第1話 断頭台の欠伸
首を落とされる瞬間、私が最後に見たのは──王太子の退屈そうな欠伸だった。
あの日の空は、どこまでも澄んでいた。処刑にはあまりに似合わない、穏やかな青。雲一つない空が、むしろ残酷に思えた。
広場を埋め尽くした群衆の声が、耳の奥で潰れたように遠い。
膝をつかされた石畳が冷たい。両手を縛る縄が手首に食い込んで、指先の感覚がない。
それでも私は前を見た。処刑台の下で並ぶ貴族たちの顔を、一人ずつ確かめるように。
宰相は目を伏せていた。
公爵令嬢は扇で口元を隠し、隣の令嬢と何か囁いている。
そして王太子は──大きく口を開けて欠伸をしていた。
(……ああ、そうか)
退屈なのだ。私の死は、この人たちにとって、昼食前の余興でしかない。
半年をかけて王家を脅かす陰謀を暴いた。寝る間を惜しんで記録を辿り、危険を冒して証人を守り、最後は自分の命を盾にして王宮を守った。
その功績は、すべて王太子のものとして発表された。
私に残されたのは「王家への反逆」という濡れ衣だけ。
「罪人エステル。王家に対する謀反の罪により、ここに処刑を執行する」
執行官の声が、石の壁に反響する。
私は目を閉じなかった。最後まで、自分を殺す者たちの顔を見ていたかった。
悔しさで喉が焼けるようだった。けれど涙は出なかった。泣くことすら、許されない気がした。せめて最後は、毅然としていたかった。
刃が振り上げられる。風を切る音。
首筋に冷たい感触が走った、その瞬間──
世界が、白く弾けた。
◇
目を開けると、天井があった。
見覚えのある天井だ。漆喰に細かなひびが走り、右端に小さな水染みがある。
私の部屋。王宮の東棟、典礼官に与えられた官舎の天井。
体を起こす。指先が震えている。
首に手を当てた。傷はない。血も、痛みもない。寝汗で肌着が湿っている。鼓動が、耳の奥で激しく鳴っていた。
(夢?)
窓から差し込む光は低い。季節の匂いが違う。処刑の日は夏の盛りだったのに、今は窓の外で木々が若葉を揺らしている。
鳥の声が聞こえる。処刑台の広場では決して聞こえなかった、穏やかな小鳥の声だ。
机の上に書類が広がっている。私は反射的に手を伸ばし、日付を確認した。
春の月、十七日。
息が詰まった。
これは──処刑の日から、ちょうど半年前だ。
ゆっくりと、両手を広げて見る。荒れた指先。インクの染みが残った爪。
紛れもなく、私の手だ。半年前の、まだ処刑を知らない私の手。
心臓が速く打つ。呼吸を整えようとしても、体が勝手に震える。
ベッドの端を握り、奥歯を噛んだ。額に脂汗が浮かぶ。膝の力が入らない。
(落ち着け。考えろ)
処刑の瞬間に死んで、半年前に戻った。
理由はわからない。仕組みも、条件も、何もわからない。
だが今、確かなことが一つだけある。
あの未来を、もう一度繰り返すつもりはない。
私は立ち上がった。膝がまだ少し震えていたけれど、背筋は伸ばせた。
鏡を覗く。亜麻色の髪、深い緑の瞳。二十五の顔。処刑台の上の、やつれた顔ではない。
頬に色がある。目の下の隈もない。まだ何も失っていない顔。
窓辺の水差しで顔を洗い、髪を結び直した。指先はまだ冷えていたが、動くことで血が巡り始める。
机に戻って書類を確認する。典礼の予定表、舞踏会の原案、外交使節の日程──すべてが半年前の配列のまま、整然と並んでいた。
王宮の典礼官とは、宮廷の儀式と外交記録を統括する役職だ。華やかに聞こえるが、実態は膨大な書類仕事と根回しの連続で、各国の使節を迎える席順一つで外交問題が起きかねない。
(今度は、私の番だ)
記憶がある。これから半年間に何が起こるか、誰が何をするか、すべて知っている。
誰が私を裏切り、誰が私を見捨て、誰が嘘をついたか。
前の人生では、忠義を尽くした。正しいことをして、正しく報われると信じていた。
その結果が、あの退屈そうな欠伸だ。
もう、あんな生き方はしない。
窓を開けた。春の風が頬を撫でる。
眼下に広がる王宮の庭園は、手入れの行き届いた薔薇の蕾がちょうど膨らみかけている。あと一月もすれば満開になるだろう。前の人生では、その薔薇が咲く頃に私は牢に繋がれていた。
復讐をしよう。
正しさではなく、賢さで。忠義ではなく、したたかさで。
あの王太子の退屈そうな顔を、恐怖に歪ませてやる。
まず必要なのは──味方だ。
前の人生で私に味方がいなかったのは、私が誰にも助けを求めなかったからだ。一人で抱え込み、一人で戦い、一人で潰された。
同じ失敗は繰り返さない。
まず情報を整理しよう。記憶にある半年間の出来事を、時系列で紙に書き出す。
誰がいつ何をしたか。誰と誰が繋がっていたか。どの時点で私は罠に嵌まったか。すべてを可視化すれば、見えなかった構造が浮かび上がるはずだ。
官舎の扉を開ける。廊下には、見慣れた顔の侍女が立っていた。
「おはようございます、エステル様。今日のご予定は──」
ロジーナ。私に最後まで付き添ってくれた、たった一人の侍女。
処刑の日、この人は泣いていた。群衆の中で一人だけ、声を上げて泣いていた。あの声は、処刑台の上でも聞こえた。
胸の奥が、きゅっと締まる。
こみ上げるものを抑えて、私は穏やかに微笑んだ。
「ロジーナ」
「はい?」
この人には、最初から本当のことを話すべきだ。
いや──まだ早い。今の私がいきなり「未来から戻った」と言えば、気が触れたと思われるだけ。信頼は、言葉ではなく行動で積み上げるもの。
「……何でもない。予定を教えて」
ロジーナが首を傾げながらも、今日の日程を読み上げる。
私はその声を聞きながら、記憶の中の半年間を辿っていた。
(春の月、十七日。この日から三日後──王太子が、宮廷舞踏会の開催を宣言する)
あの舞踏会こそが、すべての始まりだった。
私が陰謀に気づくきっかけになり、そして私が罠に嵌められる最初の一手が打たれた夜。
今度は、罠に嵌められる側が違う。
──三日後の夜、廊下の角で足音が止まった。
私が振り返ると、壁に寄りかかるように一人の男が立っていた。見たことのない顔。古びた外套に、使い込まれた剣。
「王宮の典礼官が、こんな時間に一人で歩くものじゃない」
低い声。警告のような、忠告のような響き。
灰青の瞳が、暗い廊下の中で光っていた。
この男を、私は知らない。前の人生にはいなかった人物。
けれどその目は──何かを知っている目だった。迷いのない、覚悟を決めた人間の目。
男が外套の下で剣の柄に手を置くのが見えた。
ただし、敵意はない。どちらかといえば──
(……守ろうとしている?)
「あなたは誰?」
男は答えなかった。ただ小さく笑って、闇の中に消えていった。
外套の裾が、春の風に一瞬だけ翻る。
私は立ち尽くしたまま、心臓の鼓動が収まるのを待った。
前の人生にはいなかった男。知らない味方か、新しい敵か。
答えはまだわからない。でも一つだけ、確かなことがある。
この二度目の人生は──一度目とは、もう違うものになり始めている。




