篠さんと音の話
久しぶりに、篠原が藤吉宅を訪れた。
「いやあ、前は前で旧家みたいな趣があってよかったけど、こっちはこっちで快適そうだね。天井高いし」
「今日は珍しくカラッとしていて、風が気持ちいいので開けましょうか」
眴がリビングの窓を全開にする。息吹の山の方から心地よい風が渡ってくる。
「ここはまたきれいに山が見えるね。ヒロくんは今頃修行の真っ最中かな」
「ヒロ」という単語を、由良姫は聞き逃さなかった。
「篠さん、それどういうこと? ヒロくん、修行って……」
「ああ、そうだね。以前、相談にのったことがあってね。歌をうたうにしても、体を楽器のように思う通りに声を出すにはトレーニングが必要だ、という話をしたことがあるんだよ」
「篠さんも、そんなに細いのにスゴい声出るもんね」
あはは……と篠原は軽く笑った。
「全部、筋肉なんだよ。正しくトレーニングする必要がある。由良姫さんも、そうなんじゃないの?」
「えっ……?」
由良姫は考えたことさえなかった。自分が生まれ持つ力のトレーニング。
「だって、まさか力があるといっても、それを使うのは体でしょ? 弟くん、ガタイいいからトレーニングしてるんじゃない?」
そう言って、篠原は宇羅彦の方を見た。
「ウーちゃん、それほんま?」
宇羅彦は、何を今更という感じで頷いた。
「由良も、依り代となったんやから、神さんの酷使に耐えれる体にせなあかんちゃう?」
「ヒロくんは、修行しに行ってるん? どこか、篠さん知ってるの?」
「いや、そこまではちょっと……ただ、以前一度顕現させただけで体ガタガタなったって言って相談のったんで、身も心も修行してるんだろうなって」
「え……っ、何もしてへんの、うちだけ?」
由良姫は、急に焦った表情を見せた。確かに、いつも祓いに行って疲れて寝込むのは、力を使っているから当たり前だと思っていた。
そうではないのかもしれない。
「そうですね、基礎体力くらいはつけたほうがいいかもしれません」
眴がお茶を出しながら、何気に由良姫を見て言った。
そこへ垰が図面と写真を持ってやってきた。篠原の近くに座ると、水琴窟の資料をテーブルに並べた。
「これは素晴らしいですね。よくこんな見事な甕が残ってましたね」
篠原は嬉しそうに、声が弾んでいた。
「おーい、眴! モヒートでも作ってや」
「いいですね。ちょうどもってこいの天気だ」
夏休みに入り、光代は秋の芸術祭に向け本格的なミュージカルの稽古が始まった。
恵麻はというと、予備校の夏期講習が始まり、連日大都市の駅前まで行っている。
昨年来ていた鹿野神と猪野神は、普段行けない遠方を回って祓いをする毎日だ。
「なんか、うちだけ何にもやってへん……」
「そんな焦らなくてもいいんですよ」
「なあ、眴ちゃん。お母さんもトレーニングしてた?」
「ええ、それはもう毎日、戦人の方々と鍛錬と訓練ばかりでした。大戦ともなれば、人一倍働かれてお休みするよう言われてもされませんでした」
あの母でさえ、そこまでやっているのに、自分は何一つやってこなかった。焦るなと言われても無理な話である。
「由良姫は、これから始めればいいんですよ。やっと人並みに、体がついて行くようになったんですから」
「そうそう、由良は寒けりゃすぐ熱出して寝込むし、暑けりゃ暑いでひっくり返るし、やっとまともになったとこやん」
「確か、神在月に来なさいって告げられたんですよね?」
「あ……っ!」
「それを目標に鍛えていきましょう。私と一緒にヨガでもしますか?」
「それよかさあ、眴ちゃん。お昼、フランク焼いてよ、あれを篠さんに食わさんでどうするん」
「何か美味いものの話?」
「陵ちゃんが作ったフランクソーセージが肉汁パンパンの激ヤバやねん」
「それは聞き捨てならないなあ。向こうへ旅行した時は、露店で焼いて売っててね、グラムで計って売ってくれたんだよ。焼きたては熱々の汁が飛ぶんで要注意なんだ」
それから、料理が出来上がってくるまで、篠原は垰と水琴窟の効果について話していた。
「なあ、小っちゃい頃さあ、なんや超音波光線銃とかいって特撮でやってへんかった? あれってさあ、実際できたりせんのかなあ」
いきなり宇羅彦が話を突っ込んでくる。
「超音波や音波は、使い方によってはありとあらゆるデジタルシステムを狂わせることができてしまうので、市販化は難しいかなあ。ケガレに特化した形での開発のみなら可能かもしれないけど……」
「おもろいなあ、俺、大学の専攻そっちにしようかな」
「周波数というのは、波長が少しズレるだけでも、人体に大きな影響を与える。それを聞かせ続けることで、脳への一定のダメージが与えられる。
それを応用してケガレ対策用に何か開発はできるかもしれない。でも同時に、人体への影響がどうかも検証されないと使えないよ」
篠原は音の怖さを語って聞かせた。実際、周波数は人が音として認識できる範囲はごく限られている。それ以外の方が自然界には多い。超高周波数音というものだが、それが人体に与える影響はすでに研究されている。
「音だけで人を殺すことは簡単、といっても過言ではないってこと」
「まあまあ、そんな物騒な方向へ話題が向くようなら、これでちょっと気分を変えて下さい」
ある程度まで焼きあがったフランクソーセージを、ホットプレートごと眴が運んできた。同時に国外の地ビールを瓶ごと運んでくる。
篠原と垰は、同時に懐かしそうに喉を潤していた。勉強する専攻は違っても、篠原も垰も同じ地方へ留学の経験があった。
先に、音を攻撃として、声と言葉を使ってきたのはケガレだった。それは本能的なものだったのか。それとも偶発的なものだったのか。
人は、音に敏感だ。特に、叫び声、危険が感じられる音に対して身構える。それはやはり生き物としての本能でもあるのだろう。
それをケガレが目をつけ使ったとして、なんら不思議はない。そこに知性があるかどうかも関係ない。考えること自体が無意味だから。
必要なのは、今現在ケガレの変容で起きていることの分析と対策だ。変容は続く、止めようがない。
それはまるでウイルスが、どのように進化を遂げていくかを推測することの無意味さと似ている。
たとえ推測できたとして、止める手立てがなければ意味がないのと同じだ。
「そうそう、宇宙にい、……宇宙依がケガレ対策室に協力して実用化させようとしたセンサーなんやけど」
宇羅彦が残念そうに話し始めた。先日、ネット上で出回った映像から解析して、モドキだけでもスキャンできないかどうか、研究した結果、モドキもケガレも可視化が不可能だった。
あの映像は特別だったのだ。人の目では認識できても、何をどうやってもデータ上に痕跡として計上されないのだ。
「やっぱりそっかあ」
宇羅彦には、そんな予感がしていた。というのも、宇羅彦が録音したケガレの声と言葉も、最初はデータとして可視化されなかった。
ただし、東の首都では毎日のように、ケガレの声、特に叫び声、言葉が日常化し、データが集積した。それによって、多くの集積の中から可視化の前に予測が立てられた。
あのイヤホンは、膨大な予測の積み重ねを可視化したデータから開発されたのだった。
「篠さん、あれなんて言ったっけ、音に敏感な……」
「ミソフォニアのこと?」
「どんな音がダメとか、傾向があるんだよね?」
「うん、トリガー音っていうんだけど。例えば、この食事の音、ものを噛む音、咀嚼音。鼻をすすったり、咳払いとかも、かな。人それぞれだけど、ね」
「それでイライラしたり、怒れてきたりするんやったっけ」
「そうそう、脳がね、拒否するんだと思うんだ。易怒性っていうのかな、コントロールする機能がうまく働かないっていうか」
「音って、怖いね」
「ねえ、そうでしょ。人を感動させることもできるのに、まったく正反対の状況へ追い込むこともできる」
篠原は語った後、ビールを飲み干した。そして、艶やかな声でシューベルトの歌曲の一節を歌った。
梅雨明けのからりと晴れた初夏の午後、歌声は山からの風に乗り心地良く響いた。




