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第2話 勇者が隠した二つの善意

 カイルがその村を再び訪れたのは、勇者レオンの葬儀から七日後のことだった。


 街道沿いの木々は、以前よりも少しだけ色づいていた。


 半年前、魔物に荒らされていた畑には新しい作物が芽吹き、焼け落ちた家々も、すっかり建て直されている。


 村の入り口では、子供たちが木の棒を振り回して遊んでいた。


「くらえ! 勇者レオンの必殺剣!」


「うわあ、やられた!」


 カイルは思わず足を止めた。


 子供たちは笑いながら走り去っていく。


 その背中を見送り、彼は小さく呟いた。


「……勇者レオン、か」


 この村で、あの男が何をしたのか。


 自分は忘れていない。


 法外な報酬を要求し、困窮する村人たちを見下し、金がなければ魔物に食われても仕方がないと言い放った。


 そんな男が、なぜ今も子供たちの憧れでいられるのか。


 カイルには理解できなかった。


     ◇


「これはこれは、カイル様!」


 村長は彼の姿を見るなり、慌てて家から出てきた。


「遠いところを、よくお越しくださいました」


「突然すまない。先日、手紙をもらっただろう」


「ええ。まさか、わざわざ足を運んでいただけるとは」


 村長は嬉しそうに笑った。


 以前会ったときより、ずいぶん顔色がよかった。


 頬はふっくらとし、着ている服も新しい。


 少なくとも、村の暮らしは立て直されつつあるようだった。


「手紙に、気になることが書いてあった」


「気になること、ですか?」


「レオンのおかげで冬を越せた、と」


 村長は頷いた。


「はい。あの方には、どれほど感謝してもしきれません」


 カイルは眉をひそめた。


「……本気で言っているのか?」


「もちろんでございます」


「忘れたわけじゃないだろう。あいつがこの村で何を言ったか」


 村長の笑顔が、少し曇った。


「……ええ。覚えております」


「なら、どうして感謝なんかする?」


 カイルは思わず声を強めた。


「あいつは、あんたたちから金貨百枚を取り立てようとしたんだぞ」


「はい」


「払えなければ魔物に食われろとまで言った!」


「……はい」


「それなのに、どうして!」


 村長はしばらく黙っていた。


 やがて、静かに口を開いた。


「カイル様。少し、お見せしたいものがございます」


     ◇


 案内されたのは、村長の家の奥にある小さな書斎だった。


 古い机の上には、分厚い帳簿が置かれていた。


「こちらをご覧ください」


 村長が開いた頁には、半年前の日付が記されていた。


 魔物討伐の報酬。


 金貨百枚。


 カイルは苦い顔をした。


「……やっぱり、払ったのか」


「はい。村の蓄えを集め、足りない分は近隣の商人から借り入れました」


「馬鹿な……!」


 カイルは拳を握った。


 あのとき、自分は村長に金を渡さないよう説得した。


 レオンが何を言おうと、報酬など支払う必要はないと。


 しかし村長は、約束した以上は支払わなければならないと言っていた。


 結局、あの男は本当に金を奪ったのだ。


「それで、どうして感謝なんか……」


「続きがございます」


 村長は次の頁を開いた。


 そこには、別の日付と金額が記されていた。


 金貨三百枚。


「……三百?」


「はい。勇者様が村を去られた数日後、王都の商会を通じて届けられました」


「誰からだ?」


「最初は、分かりませんでした」


 村長は机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。


「匿名の寄付でございましたから」


 そこには、短い文章が書かれていた。


『村の復興に使うこと。借金があるなら、先に返せ』


 カイルは紙を見つめた。


 字は乱暴だった。


 丁寧に書こうという気配すらない。


 けれど、どこか見覚えがあった。


「……これ」


「お心当たりがございますか?」


 カイルは答えなかった。


 代わりに、紙を持つ指に力が入った。


 見覚えがあるのも当然だった。


 レオンの字だった。


 旅の途中、何度も見てきた。


 宿の帳面に名前を書くときも、地図に目印を書き込むときも、あいつはいつもこんな字を書いた。


 カイルは顔を上げた。


「……この金を届けた商会は?」


「王都のベルク商会です。後日、寄付を正式に記録するために確認したところ、依頼人の名前を教えていただけました」


「……誰だった?」


 村長は、当然のことのように答えた。


「勇者レオン様です」


 カイルは言葉を失った。


     ◇


「……意味が分からない」


 ようやく出た言葉は、それだけだった。


 金貨百枚を奪い、その三倍を返す。


 そんなことをして、何の得がある。


 それなら最初から報酬など受け取らなければよかった。


 そうすれば、村人たちに恨まれることもなかったはずだ。


「……村長」


「はい」


「レオンは、このことを誰かに話したのか?」


「いえ。むしろ、口外しないよう頼まれておりました」


「……どうして?」


「さあ……」


 村長は困ったように笑った。


「私どもにも、理由は分かりません。ただ、勇者様が悪いお方ではなかったことだけは、分かりました」


 カイルは俯いた。


 悪い男ではなかった。


 そんなことは、昔から知っていた。


 いや。


 知っていたつもりだった。


「……ほかには?」


「はい?」


「ほかに、何か言っていなかったか?」


 村長は少し考えた。


「そういえば、商会の方から一つだけ聞いております」


「何だ?」


「寄付の手続きをされた際、勇者様は随分と念を押されたそうです」


「……何を?」


「村の者にも、仲間の方々にも、自分が金を出したことは決して話すな、と」


 カイルの背筋に、冷たいものが走った。


 村人だけではない。


 仲間にも。


 つまり、レオンは最初から、自分たちに知られることを避けていたのだ。


「……何でだよ」


 呟いた声は、誰にも届かなかった。


     ◇


 村を出る前、カイルは一人で丘へ向かった。


 半年前、レオンの胸ぐらを掴んだ場所だった。


 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。


『お前、それでも勇者か!』


『勇者だって食っていかなきゃならねえんだよ』


『……見損なったぞ』


 レオンは笑っていた。


 人を馬鹿にするような、薄っぺらい笑みだった。


 あの笑顔が、今でも腹立たしかった。


 カイルは拳を握りしめた。


「……何なんだよ、お前」


 村長から受け取った手紙を取り出す。


 そこには、レオンへの感謝が綴られていた。


 世界を救った勇者への感謝ではない。


 村を救ってくれた、一人の男への感謝だった。


「……だったら、最初からそう言えよ」


 カイルは空を仰いだ。


「何で、わざわざ嫌われるようなことをしたんだよ……」


 答えは返ってこなかった。


 親友と呼んだ男は、もうこの世にいない。


 カイルは長い間、その場から動けなかった。


     ◇


 一方、その頃。


 王都から離れた小さな町を、一人の少女が訪れていた。


 治癒術師のミリアだった。


 彼女がこの町を訪れたのは、かつて助けた少年の様子を確かめるためだった。


 半年前、街道で魔物に襲われた馬車。


 その傍らに倒れていた少年の姿が、ずっと忘れられなかった。


 あのとき、自分には十分な魔力が残っていなかった。


 応急処置を施し、通りかかった商人に少年を託したものの、その後どうなったのかは分からない。


 無事でいてほしい。


 そう願いながらも、もし亡くなっていたらと思うと、確かめる勇気が出なかった。


 けれど、レオンの死を知ってから、ミリアは考えるようになった。


 自分があの少年を見捨てていたら。


 少年は、きっと助からなかった。


 そう思うと、どうしても確かめずにはいられなかった。


     ◇


「あの、すみません」


 町の市場で、ミリアは果物を並べていた女性に声をかけた。


「半年ほど前、魔物に襲われて大怪我をした男の子が、この町に運ばれてきませんでしたか?」


 女性は少し考えたあと、目を見開いた。


「ああ! もしかして、トーマのこと?」


「トーマ……?」


「ええ。あの子なら元気よ。ほら、ちょうどあそこに」


 女性が指差した先。


 広場で、数人の子供たちが追いかけっこをしていた。


 その中に、一人の少年がいた。


 黒い髪。


 少し痩せた身体。


 けれど、楽しそうに笑っていた。


 ミリアは息を呑んだ。


 間違いなかった。


 あの日、血まみれで倒れていた少年だった。


「……生きてた」


 思わず、声が漏れた。


 少年がこちらに気づいた。


「あっ!」


 彼は目を輝かせ、駆け寄ってきた。


「お姉ちゃん!」


「……え?」


「僕のこと、助けてくれたお姉ちゃんだ!」


 少年は嬉しそうに笑った。


 ミリアはその場に膝をついた。


「……覚えていてくれたんですか?」


「うん! お腹の傷を治してくれたでしょ!」


 少年は服を少し持ち上げた。


 そこには、薄い傷痕が残っていた。


「ほら! もう全然痛くないよ!」


 ミリアの目から涙がこぼれた。


「……よかった」


 少年は不思議そうに首を傾げた。


「お姉ちゃん、なんで泣いてるの?」


「……嬉しくて」


 ミリアは笑った。


「本当に、よかったです……」


     ◇


 少年の母親は、ミリアを家に招いてくれた。


 小さな家だったが、綺麗に片付けられていた。


 食卓には温かいお茶と、焼きたてのパンが並べられた。


「本当に、ありがとうございました」


 母親は何度も頭を下げた。


「あの日、あの子を助けてくださらなかったら、今頃どうなっていたか……」


「いえ、私は……応急処置をしただけです」


 ミリアは首を振った。


「その後、ちゃんと治療を受けられたんですね」


「ええ。それも、あなた方のおかげです」


「……私たちの?」


「はい。金髪の剣士様が、腕のいい治療師を連れてきてくださったんです」


 ミリアは、持っていた茶杯を止めた。


「……金髪の、剣士?」


「ええ。少し怖そうな方でしたけれど、とても親切な方でした」


 母親は微笑んだ。


「あの子が運び込まれた日の夜でした。突然いらして、治療師の先生を連れてきてくださったんです」


「……その方のお名前は?」


「それが、何度お尋ねしても教えてくださらなくて」


 母親は申し訳なさそうに首を振った。


「治療代もすべて払ってくださったのに、お礼さえ満足にできませんでした」


「……そう、ですか」


 金髪の剣士。


 それだけなら、珍しくもない。


 ミリアは茶杯に視線を落とした。


「治療は、すぐに終わったんですか?」


「いいえ。かなり難しい治療だったようで、夜通しかかったんです」


「……夜通し?」


「はい。剣士様も、ずっと家の外で待っていてくださいました」


 母親は窓の外を見た。


「夜が明ける頃、先生から『もう命に別状はない』と聞いて、ようやく帰っていかれました」


 その言葉を聞いた瞬間。


 ミリアの脳裏に、半年前の出来事が蘇った。


     ◇


 あの少年を見つけた日の翌朝。


 ミリアは宿の食堂で、カイルとエマと一緒に朝食を取っていた。


 レオンの姿だけがなかった。


「……レオンさん、まだ起きてこないんでしょうか」


 ミリアが尋ねると、カイルは不機嫌そうに答えた。


「知らん。昨日も勝手にどこかへ出ていったらしい」


「……そうですか」


 ミリアは俯いた。


 前日のことを思い出すだけで、胸が苦しくなった。


 あの少年は、無事だっただろうか。


 そんなことを考えていると、宿の扉が開いた。


 レオンだった。


 外套の裾には泥がつき、髪も少し乱れていた。


「……おはようございます」


 ミリアが声をかける。


 レオンは一瞬だけ彼女を見ると、面倒くさそうに答えた。


「ああ」


「……どこに行っていたんですか?」


「別に。ちょっと遊んできただけだ」


 カイルが呆れたように言った。


「朝帰りかよ。随分といいご身分だな」


「勇者様にも息抜きくらい必要なんだよ」


 レオンは笑った。


 そして、食堂の椅子に腰掛けることもなく、階段へ向かった。


「飯はいらねえ。寝る」


 そう言って、部屋へ戻っていった。


 あのとき、ミリアは思った。


 怪我をした少年のことなど、もう忘れているのだろうと。


 自分たちが心配している間、どこかで遊び歩いていたのだと。


     ◇


「……あ」


 ミリアの口から、小さな声が漏れた。


「どうかなさいました?」


 母親が心配そうに尋ねる。


「……その剣士の方は、夜明け頃に帰られたんですよね?」


「ええ。朝日が昇り始めた頃でした」


「……髪は、金色で」


「はい」


「剣を持っていて……」


「ええ。立派な剣を腰に下げていらっしゃいました」


 ミリアの指が震え始めた。


 あの日、レオンは朝帰りした。


 夜通し、どこかへ出かけていた。


 そして、少年の治療が終わったのも、同じ日の夜明けだった。


 偶然かもしれない。


 金髪の剣士など、ほかにもいる。


 けれど。


「……その方は、何かおっしゃっていませんでしたか?」


 母親は少し考えた。


「そういえば、治療が終わったあと、不思議なことをおっしゃっていました」


「……何を?」


「『礼なら、最初に手当てをした治癒術師に言ってやれ』と」


 ミリアは息を呑んだ。


「最初の処置がなければ、間に合わなかったかもしれないと、先生もおっしゃっていました」


 母親は微笑んだ。


「ですから、あなたにもずっとお礼を申し上げたかったんです」


 ミリアは何も言えなかった。


「それから、もう一つ」


 母親が続ける。


「『その治癒術師には、俺が来たことを言うな』とも」


「……どうして?」


「私も尋ねたんですけれど、『面倒だから』とだけ」


 その言葉。


 そのぶっきらぼうな言い方。


 ミリアは、よく知っていた。


 そして、ようやく気づいた。


 あの日、レオンは遊び歩いていたのではない。


 少年のために治療師を探し、夜通し治療が終わるのを待っていたのだ。


「……レオンさん」


 思わず、その名前がこぼれた。


 母親が首を傾げる。


「お知り合いの方ですか?」


 ミリアは答えようとして、声を詰まらせた。


 彼女の目から、涙が落ちた。


     ◇


 家を出ると、少年が門のところで待っていた。


「お姉ちゃん!」


「……トーマくん」


「また来てね!」


 少年は笑った。


「僕、もっと大きくなったら、勇者になるんだ!」


 ミリアは少し驚いた。


「……勇者に?」


「うん!」


 少年は胸を張った。


「あの金髪のお兄ちゃんみたいに、困ってる人を助けるんだ!」


 ミリアは、何も言えなかった。


 少年は無邪気に続けた。


「お兄ちゃん、怖い顔してたけど、僕が目を覚ましたとき、頭を撫でてくれたんだよ」


「……そう、なんですか」


「うん! それでね、『元気になれよ』って!」


 ミリアは唇を噛んだ。


 少年は笑っていた。


 何も知らずに。


 レオンが、もうこの世にいないことも。


 彼が、どんな言葉を仲間たちに残して去ったのかも。


「……トーマくん」


「なあに?」


「そのお兄ちゃんはね……」


 ミリアは言いかけて、言葉を止めた。


 何と伝えればいいのか、分からなかった。


 世界を救った勇者だと。


 もう亡くなってしまったのだと。


 それとも。


 自分が最後まで信じられなかった人なのだと。


「……とても、強い人だったんですよ」


 ようやく、それだけ言った。


 少年は嬉しそうに笑った。


「やっぱり!」


 ミリアは微笑んだ。


 けれど、その笑顔はすぐに崩れた。


     ◇


 町を出たあと、ミリアは街道の脇に腰を下ろした。


 半年前。


 少年が倒れていた場所だった。


 あの日の光景が、鮮明に蘇る。


『放っておけ』


『死ぬなら運が悪かったってことだろ』


 あの言葉を聞いたとき、胸の奥が冷たくなった。


 尊敬していた人が、知らない誰かに変わってしまったようだった。


 自分が勇者の旅に加わったのは、レオンに憧れたからだった。


 魔物に襲われた故郷を救ってくれた、優しい勇者。


 怪我人を見つければ、真っ先に駆け寄る人。


 自分の治癒魔法を、誰よりも褒めてくれた人。


 その人が、目の前で命を見捨てようとした。


 だから、許せなかった。


『私、もう……あなたを信じられません』


 自分は、確かにそう言った。


 レオンは何も答えなかった。


 ただ、黙っていた。


「……レオンさん」


 ミリアは両手で顔を覆った。


「……どうして、教えてくれなかったんですか……」


 涙が、指の隙間からこぼれ落ちる。


「私……あなたに、ひどいことを……」


 けれど、言葉は最後まで続かなかった。


 レオンが本当に優しかったのなら。


 なぜ、あんなことを言ったのか。


 なぜ、自分に嫌われるような真似をしたのか。


 分からなかった。


 何一つ、分からなかった。


 ただ、一つだけ確かなことがあった。


 自分は、レオンのすべてを知っていたわけではなかった。


 そして。


 もう二度と、本人に確かめることはできない。


     ◇


 王都へ戻ったカイルは、ミリアからの手紙を受け取った。


 そこには、短い文章が記されていた。


『カイルさん。レオンさんのことで、お話ししたいことがあります。どうか、一度会っていただけませんか』


 カイルは手紙を読み、しばらく考え込んだ。


 机の上には、村長から受け取った寄付の記録が置かれている。


 金貨三百枚。


 そして、レオンの筆跡。


 カイルは静かに呟いた。


「……お前も、何か見つけたのか」


 彼は便箋を取り出した。


 ミリアへの返事を書くためだった。


 だが、その前に。


 もう一人、会わなければならない相手がいた。


 エマ。


 レオンと最も長い時間を過ごした幼馴染。


 彼女なら、何か知っているかもしれない。


 あるいは。


 彼女もまた、自分たちの知らない何かを抱えているのかもしれなかった。


 カイルは窓の外を見つめた。


 王都の空は、夕焼けに染まっていた。


「……レオン」


 かつて親友だった男の名を、静かに呼ぶ。


「お前、一体……何を隠してたんだ?」


 返事はなかった。


 ただ、夕暮れの風が、窓を小さく揺らした。

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