第9話「手帳の余白と古い記憶」(前編)
1. 手帳という相棒
初冬の冷たい風が吹く頃。
役場の窓口デスクで、千景は仕事の合間に一冊の黒い手帳を熱心にめくっていた。
そこには、これまでに千景が関わったすべての童たちの特徴、使用した道具、地の脈の波長、そして還した(あるいは一時的に遮断した)日付が細かく書き留められている。
同僚「遠野さん、いつもその手帳見てるね。仕事のノート?」
千景「あ、はい……! 大切な業務メモみたいなものです」
同僚「そっか。遠野さんって、時々ふっと物忘れしちゃうことあるけど、そのノートをしっかり書いてるから安心だよね。自分の取扱説明書みたいでさ」
千景は胸の奥が温かくなるのを感じながら、「そうですね」と微笑んだ。
自分の記憶がすり減っていくことは、もう怖くない。
この手帳が、過去の自分と現在の自分を繋ぐ確かな道標になってくれているからだ。
そんな折、古い農家が立ち並ぶ地区の区長から、少し変わった相談が舞い込む。
「地区の鎮守の森の奥にある古い社で、最近、夜になると『からから、からから』と木や石を擦り合わせる音が響くんです。害はないんですが、気味が悪くて……」
2. 過去の記録との照合
千景は一人、鎮守の森の参道を歩きながら手帳を開いた。
独楽を滑らせると、森の最奥にある崩れかけた小さな石社を示して止まる。
(からから……と音を鳴らす童……?)
千景はペンを取り出し、手帳に記されたこれまでの事例をめくった。
独楽の音に誘われた童
手鏡を抱え、音を待っていた童
他人の感情のノイズに呑まれた童
(音を鳴らす童は、何かメッセージや合図を送っていることが多い。……でも、今回はただ音を鳴らすだけで、気配が酷く薄い……?)
千景は【龍脈杭】を打ち込んで地場を安定させ、【でんでん】を鳴らして慎重に境界を越えた。
――チリン……。
神楽鈴を鳴らして広がった昭和初期の社殿の前。
そこには、小さな木箱を膝に抱え、手の中で二つの丸い石を「からから」と打ち合わせている少女の影があった。
少女の影『からから……からから……。これ、お兄ちゃんの宝もの……。あげるって、言ってたのに……』
少女は悲しそうに石を擦り合わせている。
しかし、千景が話しかけようと近づいた瞬間、少女の影はスーッと薄くなり、木箱の幻影だけを残して地の脈の奥へと沈んでしまった。
千景「消えた……!? 帰ったんじゃない……地場のさらに深い場所へ潜ったんだ……」
3. 記録が教える「違和感」
現世に戻った千景は、現場の状況を手帳へ即座に書き留めた。
石を打ち合わせる少女の影
残された木箱
呼びかけに応じず、地場の深い階層へ沈んでしまう
千景は手帳の余白を見つめながら、首を傾げた。
(今までの童なら、でんでんの音を聞けば心を開いてくれた。でもこの子は、呼びかけを無視したんじゃない……『私ではない誰か』をずっと待ち続けていて、私の声が届かないんだ)
ただ道具を使って呼び出すだけでは足りない。
少女が待ち続けている「お兄ちゃん」とは誰なのか、なぜ石を鳴らしているのか。
土地の歴史、当時の人々の暮らし、そして少女の想い——。
千景は現場の対応だけで終わらせず、「役場の地下文書庫で、この土地の過去を調べる」という、童帰り師としての新たな調査へ踏み出すことを決意する。
4. 過去を紐解く手帳とペン
役場の地下文書庫。
千景は埃っぽい棚から、昭和初期の旧村役場の戸籍簿や地域誌を引っ張り出し、手帳と照らし合わせ始めた。
「届かないなら、届くための理由を過去から探す」
手帳にペンを走らせながら、千景は地下文書庫の古い資料の中に、昭和10年代の小さな記録を発見する。
『農家の兄妹、山間部にて大雨による土砂崩れに遭遇。兄は妹を庇い――』
千景「これだ……! 少女が待っていたのは、自分を庇って離れ離れになったお兄ちゃん……!」
道具の扱いに加えて、千景の手にある「手帳とペン(記録)」が、見えない真実を次々と手繰り寄せていく。
現場で向き合うだけでなく、土地と人の歴史を紐解き、童の心に寄り添う準備を整える。
遠野千景の童帰り師としての仕事が、また一歩、深みを増そうとしていた。
(第9話・前編 完)




