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第6話「絡みつく黒波と払いの扇」(後編)

1. 現場の構築と、嵐の中の開扇


解体途中の木ゾウ病棟。夕闇が廊下の奥まで覆い尽くしている。

千景は鞄から【独楽】を取り出し、冷たい床へ滑らせた。


――シュルシュル……ガタガタッ。


独楽は歪みつつも、廊下奥の旧小児科病棟、そのドアの前に向かって静止した。


千景は迷わず【龍脈杭】を取り出し、独楽が示した地場の支点へ力強く打ち込む。


「ここで向き合おう!」


――ゴンッ……!


杭が深々と刺さり、周囲の不安定な空間が一瞬で固定される。

時間が繋ぎ止められたことを確認すると、千景は【でんでん】を構え、深く息を吐いて境界線(童の世界)へと踏み込んだ。


――でん……でん……。


温かな音が響くのと同時に、病棟の壁や床からドロリとした黒い念の波が湧き出し、千景へと襲いかかってきた。

病の苦しみ、残された者の悲嘆、土地に染みついた長年の念。それらが童の周囲を分厚く取り囲み、叫び声を上げている。


『痛い……苦しい……ここから出さない……!』


千景は引き下がらない。腰の鞄から【扇】を引き抜き、黒い波に向かって一筋の風を切るように大きく仰いだ。


――サッ……!


白木と和紙の扇が空を切ると、澄んだ清涼な風が巻き起こり、押し寄せる黒い泥の表層がサラサラと解けるように散っていく。


千景「(切るんじゃない……解きほぐすんだ……!)」


千景は一定の拍子ででんでんを鳴らしながら、押し寄せる念を扇で優しく払い、絡みついた他人の感情を一つひとつ解いていった。


2. 泥の奥の素顔


扇を幾度も振るい、分厚い怨念の念を祓い清めていくと、ドロドロとした泥の奥から、小さく丸まった影が姿を現した。


それは、大きなクマのぬいぐるみを抱きしめた、四歳ほどの男の子だった。

男の子は大人たちの残していった恐怖と痛みの感情に呑まれ、自分自身が誰なのかも分からなくなって泣いていたのだ。


男の子の影『う……うわぁぁん! 痛いのこわい……暗いのこわいよぉ……!』


千景「もう大丈夫だよ。誰もあなたを痛めつけたりしない。……ほら、綺麗になったよ」


千景は扇を静かに収め、胸元から神楽鈴を取り出した。


独楽で居場所を探し、

龍脈杭で安全な空間を固定し、

でんでんで警戒を解き、

扇で周りの毒を祓い清めた。


すべての道具によって整えられたその場所は、今や男の子にとって世界で一番静かで安全な「対話の部屋」となっていた。


3. 鈴の音と昇華


千景は膝をつき、男の子の目線に合わせて神楽鈴を優しく鳴らした。


――チリン、チリン。


清らかな音が小児科病棟の跡地に響き渡る。

音波が男の子の身体を包み込むと、男の子は涙を拭い、抱えていたぬいぐるみをギュッと胸に抱き直した。


男の子の影『ぼく……お熱が下がったら、公園でお砂場あそびする約束……してたの……』


千景「そっか。お砂場あそび、したかったんだね。……お外はね、もう痛くないよ。お日様がたくさん照ってるよ」


男の子の影『ほんと……? ぼく……行ってもいいの……?』


千景「うん。一緒に行こう。おうちへ還ろうね」


――チリン、チリン。


鈴の音が最高潮に達すると、男の子の影は柔らかな光の粒となり、抱えたぬいぐるみと共に温かな夕焼け空へと溶けるように昇っていった。


黒い泥は消え去り、廃病棟には静寂と、夕暮れの穏やかな光だけが残された。


4. 童帰り師としての自覚


現世に戻った千景は、地面から龍脈杭を引き抜き、手に持った扇の表面をそっと撫でた。

和紙の端がほんの少しだけ黒く擦れていたが、扇はしっかりと自身の役目を果たしてくれた。


(道具は怪異を倒す武器じゃない。……あの子たちが本当の自分の声を取り戻すための、お手伝いをするためのものだ)


独楽、でんでん、龍脈杭、扇。

おばばから託された道具たちの意味を、千景は現場の経験を通して完全に自分のものとして理解した。


だが、千景の胸には爽やかさと同時に、身が引き締まるような予感があった。


これほど複雑で傷の深い地場が存在する。

これから先、道具をすべて駆使しても、もしかしたら「対話」だけではどうにもならない過酷な現場に遭遇するかもしれない——と。


5. 微かな違和感


役場へ戻る帰り道、千景はふと立ち止まり、ポケットの中の手帳を開いた。


そこには、これまでに解決した童たちの記録が千景自身の字で細かく書き留められている。

しかし、そのページの端に書かれた「とある人物の電話番号」を見て、千景は首を傾げた。


(……この番号、誰のだっけ……? 役場の先輩……? それとも……)


童の世界の深層に入り、高密度の地場と向き合った代償。

千景の記憶の底から、また小さなカケラが滑り落ちていた。


けれど千景は、焦る気持ちを抑えて手帳を静かに閉じた。


(忘れたら、また聞けばいい。探せばいい。……私はもう、一人じゃないんだから)


千景はカバンをしっかりと抱え直し、橙色に染まる街並みを歩き出した。


童帰り師として、道具を揃え、判断力を磨いた遠野千景。

彼女の前に、やがて「対話での昇華が間に合わない強固な童」という、最も重い試練が近づいていた。


(第6話・後編 完)

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