第2話(by 白原 勇)
突然の騒音、突然の悲鳴。
リビングダイニングキッチンでソファーに座り、新聞を開いていた私、白原 勇は、一瞬点けっぱなしにしていたテレビの中の音だと思い、新聞から顔を上げる。
しかし、そこでは母さんが見ているドラマが流れていて。
振り返り、台所越しに、テレビを見ながら洗い物をしている妻の南の方へ振り返った。
いつも朗らかな笑みを浮かべている細い目が、俺と同じ疑問を抱いたかのようにハの字に曲がっている。
視線の合う二人。
消えない騒音。
妻は音に耳を澄ませるように洗い物を止め。私はそれに倣う様に、そっとテレビを消した。
——やはり音たちは消えない。
それどころか酷くなっている。
リビングの外を映す大きなガラス戸は家の前の生け垣を映すばかり。
私は近くにあった孫の手を片手に、慎重にガラス戸を引く。
——割れんほどの混沌が耳を貫いた。
普段、焦った姿など見せた事の無い妻が、ただ事では無いと二階へ駆けて行く。
大方、息子の守の様子を見に行ったのだろう。
私は開いた戸を一歩跨いで外に出ようとして――。
生垣を突き抜けて現れた猛獣に、全力で再びガラス戸を閉じた。
「グルルルルルルゥ」
ガラス戸を挟んで、くぐもった音で伝わって来る音と殺意。
ただ、所詮はオオカミ程度の存在だ。
熊なら兎も角、ガラス戸さえ閉じてしまえば、襲われる心配は無いと思っていた。
——思っていた筈なのに、お盆を持つ手が震える。
目の前に現れた猛獣から目が離せない。
——そう言えば、何処かでガラスが割られる様な音もした気が。
そう考えた瞬間、悪い予想が現実になった。
分厚いとは言えないものの、薄くも無いガラス戸が、その猛獣の体当たりで、いともたやすく砕け散った。
——有り得ない。そう思うが、リビングの中に侵入してきた猛獣は、体に付いたガラス片を払う様に身を震わせている。
「ウォォォッ!」
やられる前にやれなどと考えた訳では無い。
脅威を目の前にして咄嗟に体が動いた。
孫の手での一撃。
当然、猛獣相手に有効打を与えられる物では無かったが、それすらも軽く避けられ、空振った末に、再び猛獣と目が合う。
「グルルルルルルゥ」
しかし、今回、その間にガラス戸は含まれていない。
「アナタッ!」
二階からは聞いた事も無い様な、悲痛な、俺を心配する様な妻の叫び声。
それに気を取られたのか、猛獣の視線が上階と動く。
まずい。そう思った。
二撃目。
今度は咄嗟では無く、覚悟の籠った、倒す為では無い、気を引く為の、囮になる為の一撃。
当然避けられる。
しかし、狙い通り、しっかりと注意は引けた。
倒せない。
それは本能的に分かって居た。
そして、時が経てば経つ程。冷静になれば成る程、それを事実として認識できてしまう。
だから何だと言う話だが。
階段を駆け下りる音が聞こえて来る。
そのまま逃げろと思った。
——どこへ?
外は此処以上の惨状が広がっている筈だ。
そう思った瞬間、倒さねばと思った。
倒せるかどうかでは無い。妻と子を守る為にはそうするしか無い。
それならば——。
手に取ったのは近くにあった大型のお盆。
片手には孫の手。
子どものごっこ遊びも良い所だ。我ながら笑えてくる。
「父さん!」
ボストンバックを両手にリビングに飛び込んで来る息子。
「守?!」
私は狼狽えた。
その隙を逃がす獣でも無い。
飛び掛かられるも、咄嗟にお盆で身を守った事で、その牙と爪がどうと頭に届く事は無かった。
しかしその代償として、俺は床へと組み伏せられる。
当然だ。ガラス戸を一撃で粉砕する程の躯体。
そこから繰り出される飛び掛かりを一般人がお盆一つで往し切れる訳が無かった。
「グルルルルルルゥ」
視界一杯に映る猛獣の顔を、お盆の上に乗った前足ごと押しのける事で何とか遠ざけるが、相手が様子を見止めて、その気になれば一瞬だろう。
「離れろっ!」
瞬間、猛獣が飛び退き、その身が軽くなると同時に、目の前を掠めるボストンバック。
「ッ――!助かった……」
逃げろ!と言う言葉を咄嗟に喉の奥に詰め、お礼を言いつつ、態勢を立て直す。
逃げ場は無いのだ。共に戦うしかない。
それが私の弾き出した、もっとも息子たちが生き延びられる可能性だった。
「グルルルルルルゥ!」
俺と息子を見て猛獣の声質が一段と重くなる。
態勢も低くなり、様子を見ている。どうやら、獲物から警戒する対象へ私達の存在を認識し直した様だった。
「このっ!」
いつの間にかリビングの入り口まで来ていた妻が何かを投げつける。
パリン!
それはどうやら陶器のコップだった様で。
当然それは避けられたが、その隙を逃さず息子が突っ込んだ。
「オラァッ!」
肩掛け紐を軸に振り被られるボストンバック。
中に何が入っているのかは分からないが、あの速度と、医者に精神の安定の為に筋トレを提案され、それを馬鹿真面目に熟す息子が両手で振り回しているのだ。相当な重さの物に違いない。
しかしそんな大振りでは幾ら隙を突いたからと言って、当然回避され。
「危ないっ!」
「キャン!」
私は咄嗟に獣と息子との間に入り、飛び掛かろうとしている獣の横顔をお盆の盾で叩き飛ばした。
初めての明確なダメージ。
瞬時に体勢を立て直した獣は、警戒した視線で私を睨む。
「「「…………」」」
沈黙が支配する空間。
外の喧騒が遠くに聞こえる。
「ウウッ~……。ガゥッ!」
先に動いたのは猛獣の方だった。
攻撃対象は睨まれていた私。
「えいっ!」
いつの間にか台所まで足を延ばしていた妻が、猛獣の気を逸らす様に、流し台越しに、追加の陶器を投げつけて来る。
その陶器は見事に襲い掛かろうとしていた獣の前で弾け、それを受け、怯んで飛び掛かるのを止める。
妻の投擲の威力とコントロール力に驚きつつも、俺はすぐさま獣との距離を詰め――。近くにあったテーブルクロスを引き抜いて、テーブルの上の物をぶちまける。
その音と行為に獣は更に怯み、警戒を強めて。手にしたテーブルクロスをヒラつかせる事で、警戒心の強まった獣を部屋の隅へと追いやる事に成功した。
——私は息子を見る。
それを受け、何かを察したのか、静かに頷く息子。
以前の息子なら察する事が出来たとて、自己犠牲だと憤怒して、我先にと突っ込んで行きそうな物だったが。
そんな息子に成長を感じつつ。手にしたテーブルクロスを投げて獣の視界を塞ぐ。
警戒が最高潮に達していた獣は、浮遊して近付いて来る謎の物体に、逃げ場の無い状況も相まって、硬直するしか無かった。
「キュン!」
テーブルクロスが獣の上に覆いかぶさる。
しかしその程度では、冷静になった獣に直ぐ逃げられてしまうのが目に見えているので。
「オウラッ!!」
私は体重とお盆を使って、テーブルクロスによって目隠しされ、俊敏性も封じられた獣の上に飛び乗る。
「キャン!」
苦しそうに藻掻く獣。
しかし、その肉体はやはり見た目以上に強靭で、大したダメージを与えられていない所か、すぐにお盆ごと押しのけられてしまう事を確信する。
「どいて父さん!」
息子の声に反応してお盆を持ったまま横へと転がる。
グシャン!
「キャイン!」
確実に何かが潰れて折れる音がした。
それでも息がある獣に怖気を覚えるが、動きはテーブルクロスの下で蠢く生命は確実に動きを弱めていた。
「まだまだっ!」
そこに追撃を加える息子。
「おらっ!」
更に加える。
「しねぇ!」
テーブルクロスの下から赤い体液が漏れ出してくる。
もう、動きは見られなかった。
「止めだっ!」
グシャ!
最期の一撃を加えた息子の息と肩が上がる。
「「…………」」
いや、興奮で。運動でお互いに息が上がっていた。
それに気が付いたのは、二人で視線を合わせてからで。
「あははっ」
どっちが上げたのか、乾いた笑いが部屋に木霊する。
「やった――」
「あぶないっ!」
突然現れた妻が俺達を押しのける。
私達はその姿と行動の理由に考え至って顔を青くし。
「このっ!しねっ!しねしねしねっ!!!お願い死んでっ!!」
見た事も無い必死の形相で、何度も何度もテーブルクロスにナイフを突き立てる妻を見て、言葉を失った。
下で獣が蠢いているからテーブルクロスが動いているのか、妻が刃物を突き立てているからテーブルクロスが揺れているのか分からなかった。
「「…………」」
そんな妻を止める事も出来ず、見つめて暫く。
『高濃度の外部魔力の蓄積に成功しました。新人類として覚醒しました。ステータスを付与します』
「えっ?」
誰からともなく上がった声。
妻も息を上げながら、手を止め、顔を上げていた。
「——ステータスオープン」
頭にそんな言葉が思い浮かび、全員が同時に、操られたかの様に口にする。
蓄積魔力値:80 (現在の保有魔力量。実体を持つ者は0になると意識を失い、実体を持たない者はその場で消滅する)
許容魔力値:100(超えると精神に異常をきたす他、外部魔力に体を乗っ取られる危険性も有る)
生産魔力値:40(時間当たりに自身の魂が生産する基本魔力量。意識レベルや感情の上下でも変動する)
肉体維持消費魔力値:30(時間当たりに存在しているだけで放出、消費する基本魔力量。意識レベルや感情の上下、魔力を行使した身体強化等でも変動する)
外部魔力出力値:10(一度に魔力を外部へ出力する事の出来る最大値)
魔力吸収能力値:4(時間当たりに外部魔力をどれだけ受け入れるかの基本値。意識レベルや感情の上下でも変動する)
魔力抵抗能力値:10(外部魔力に抵抗する能力の値。吸収量以上の魔力を叩きつけられたり、逆に奪われそうになったり。或いは、許容魔力量を越えて魔力を蓄積しようとした場合、この値分だけ、外部魔力の侵入を防ぐ事が出来る)
スキル:守りの誓い(守ると誓った対象の為に動く時、肉体維持消費魔力を著しく上げ、身に着けている物と身体の性能を消費魔力に応じて強化する)
「「「…………」」」
情報が頭の中に流れ込んで来る。
なんだこれは、という感覚が、一瞬で、あぁ、そうだった。と、当然の知識として塗り替えられて行く。
例えば、肉体維持消費魔力値は、眠ったり気絶している時に著しく低くなって、その分身体能力が下がるとか。
例えば、外部魔力出力値は感情の籠った言葉。罵詈雑言や呪詛にも載る能力だとか。
それを受けた相手は魔力抵抗能力値で抵抗して、それに失敗すると体に攻撃的な魔力が回って、心がダメージを受けてしまう事とか。
心がダメージを受ければ許容魔力値が減って、より精神が不安定になってしまう事とか。
許容魔力値を大きくオーバーしても魔力の蓄積が続くと、制御しくれなくなった魔力に魂を食われ、身も心も変異してしまう事とか。
その許容魔力値が大きく削れていそうな上で、今回、魔物を倒す事で高濃度の魔力を体内に取り込んでしまった息子が危ないんじゃないか。と言う事とか。
「「…………」」
妻と目が合う。息を切らせた息子を共に見つめる。
「だいじょう―――」
「——ッ!シャ!これでやっと俺も二人の役に立てるっ!」
顔を上げ、息を整え、拳を握り、生き生きとした表情を息子。
こんな状況だと言うのに。
「はぁ……」
安堵の溜息を吐いて妻の方を向き。
「良かったですね」
「あぁ。良かった」
それは、一難を乗り切った末の一言か。息子が久々に生き生きとした表情を見せてくれた事による感動か。
お互いにそれをはっきりさせないまま、減りつつある悲鳴を背に、ただただ笑いあった。




