第35話 二つ目の足音
コツ。
廊下に響いた音は、それきり止まった。
誰も動かない。
悠人たちは息を潜めたまま、耳を澄ませる。
静寂。
聞こえるのは窓の外を吹き抜ける風だけだった。
「……終わったか?」
レオンが小さく呟く。
「まだだ。」
ガルは廊下の奥から視線を外さない。
数秒後。
コツ。
また一歩。
今度は一回だけ。
「今のは……。」
リリが不安そうに悠人の服をつまむ。
「大丈夫。」
悠人はそう答えたものの、自分でも確信はなかった。
床鳴りだけでは説明できない。
しかし、いきなり幽霊と決めつけるのも違う。
ここは不動産屋だ。
原因は一つずつ潰していく。
「ミリア。」
ガルが声を掛ける。
「家の図面はあるか。」
「あります。」
ミリアはエマから受け取った書類を広げた。
丁寧に描かれた間取り図。
一階。
二階。
収納。
床下。
すべて記載されている。
「……ん?」
悠人が図面を見て首をかしげた。
「どうした?」
レオンが覗き込む。
悠人は二階の廊下を指差した。
「長さがおかしくないですか?」
「何がだ?」
「外から見た家より、中の廊下が少し短い。」
全員が黙った。
ガルは図面を受け取り、窓の位置と外壁を見比べる。
確かに合わない。
ほんのわずか。
人一人が立てるほどではないが、壁の厚さとしては不自然な空間がある。
「隠し部屋?」
レオンが呟く。
「いや。」
ミリアが首を振る。
「そこまでの広さはありません。」
「ですが、壁の中に空間がある可能性はあります。」
悠人は廊下の壁を軽く叩いてみる。
コン。
コン。
場所を変える。
コン。
そして廊下の突き当たり。
コォン。
音が少し違った。
「空洞だ。」
ガルが短く言う。
「この壁だけ響く。」
エマが驚いた顔をする。
「そんな……。」
「私、この家で二十年以上暮らしていたんですよ?」
「知らなくても不思議じゃない。」
ガルは壁を見つめた。
「昔の家にはこういう造りもある。」
「配管や補強のためにな。」
悠人は壁をもう一度観察する。
木目。
釘の位置。
よく見ると、一枚だけ周囲と色の違う板があった。
「店長。」
「これ。」
ガルは無言で頷く。
ドライバーを差し込み、慎重に板を持ち上げる。
ギギ……。
古い木が擦れる音。
板がゆっくり外れた。
その向こうには——
細い空間が続いていた。
「本当にあった……。」
リリが目を丸くする。
幅は大人一人がようやく横向きで通れるほど。
壁の内側に細長い通路が造られていた。
「昔の点検用通路ですね。」
ミリアが言う。
「配管や柱を確認するためのものだと思います。」
悠人は懐中灯を照らす。
奥へ細く続く通路。
その床には、うっすらと埃が積もっていた。
そして——
埃の上には、新しい足跡が一つだけ残っていた。
全員が息を呑む。
「……誰か入った?」
エマが震えた声で呟く。
悠人はゆっくり首を横へ振る。
「この家に、最近誰かが入った形跡があります。」
事故物件だと思われていた屋敷は、思わぬ方向へ話が進み始めていた。
細い通路の前で、全員が足を止めた。
悠人は懐中灯を少し前へ向ける。
光は奥まで届かない。
通路は途中で緩やかに右へ曲がっていた。
「思ったより長いですね。」
リリが小声で言う。
「築三十五年なら不思議じゃない。」
ミリアが壁を観察する。
「昔の住宅は、点検しやすいようにこういう空間を作ることがあります。」
「でも。」
悠人は足跡を指差した。
「ここを最近歩いた人がいる。」
埃は全体に積もっている。
それなのに、足跡だけがくっきり残っていた。
古いものではない。
数日以内だろう。
「エマさん。」
「はい。」
「この家の鍵は誰が持っていますか?」
「私だけです。」
「合鍵は?」
「ありません。」
レオンが腕を組む。
「じゃあ泥棒じゃないか?」
「何も盗まれてないそうだぞ。」
悠人が答える。
家具も現金もそのまま。
荒らされた跡もない。
わざわざ隠し通路へ入る理由が分からない。
「俺が見てくる。」
レオンが剣を抜こうとする。
しかしガルが止めた。
「待て。」
「どうしました?」
「焦るな。」
ガルは通路の入口付近をしゃがみ込んで調べ始めた。
床。
壁。
天井。
一つずつ丁寧に確認していく。
「営業。」
「はい。」
「ここ。」
悠人もしゃがむ。
入口の木枠に、小さな擦り傷が付いていた。
「最近できた傷だ。」
ガルが指先でなぞる。
色が新しい。
長年の傷ではない。
「何かを運んだ?」
悠人が考える。
「細長い物かもしれん。」
レオンも覗き込む。
「家具は通れないな。」
「人なら通れる。」
ミリアが静かに言った。
全員が通路を見つめる。
空気が少し重くなった。
その時だった。
カタン。
奥から小さな音がした。
全員が身構える。
「聞こえた。」
レオンが剣へ手を掛ける。
今度は足音ではない。
何かが倒れたような音だった。
「……誰かいる。」
悠人は確信した。
ガルは短く頷く。
「確認する。」
店長は懐中灯を受け取り、一歩だけ通路へ入る。
悠人も続いた。
レオン。
ミリア。
最後にリリ。
エマは一階で待機してもらうことになった。
「絶対に二階へ来ないでください。」
悠人が念を押す。
「分かりました。」
不安そうに頷くエマを残し、一行は細い通路を進み始めた。
ギシ……。
床板が小さく鳴る。
天井は低く、大人なら少しかがまなければ歩けない。
埃っぽい空気。
木材の匂い。
しばらく進むと、通路は右へ折れた。
そして、その先で——
「止まれ。」
ガルが小さく手を上げる。
全員が立ち止まる。
懐中灯の光が床を照らした。
そこには古い木箱が置かれていた。
蓋は半分開いている。
その周囲だけ、埃が払われたように綺麗だった。
「最近動かした跡ですね。」
ミリアが呟く。
ガルは慎重に木箱へ近付く。
ゆっくり蓋を開ける。
中に入っていたのは——
一本の古びた木製の杖と、一冊の革張りの手帳だった。
「……誰かの私物か。」
悠人が手帳を手に取る。
表紙には、薄く名前が刻まれていた。
『アルベルト・グラン』
エマの父親の名前だった。
全員が顔を見合わせる。
なぜ、こんな場所に隠されていたのか。
そして、最近ここへ入った人物は何を探していたのか。
屋敷の謎は、新たな謎へとつながっていくのだった。
悠人は革張りの手帳を慎重に開いた。
古い紙の匂いが漂う。
ページは黄ばんでいたが、大切に保管されていたのか破れはほとんどない。
「日記でしょうか。」
リリが覗き込む。
「いや。」
ミリアが首を振った。
「修繕記録です。」
最初のページには日付と家の見取り図。
壁の補修。
屋根の修理。
庭木の手入れ。
住み始めてからの出来事が細かく書き残されていた。
「几帳面な人だったんですね。」
悠人が感心する。
エマの父、アルベルトは家をとても大切にしていたようだ。
だから、この家は三十五年経った今でも状態が良いのだろう。
ページをめくる。
すると、最後の数ページだけ文字の雰囲気が変わっていた。
乱れている。
急いで書いたような筆跡だった。
『また聞こえた。』
悠人は小さく読み上げる。
『夜になると廊下を歩く音。』
『最初は泥棒かと思った。』
『だが違う。』
部屋が静まり返る。
『調べた結果、壁の通路から音が響いていた。』
「やっぱり。」
レオンが呟く。
足音の正体は、この通路と関係している。
しかし、その次の一文で全員の表情が変わった。
『誰かが歩いているわけではない。』
「え?」
リリが目を丸くする。
悠人は続きを読む。
『家が古くなり、夜になると木材が冷えて収縮する。』
『通路が共鳴し、人が歩くような音になる。』
全員が顔を見合わせた。
「なるほど。」
ミリアが納得したように頷く。
「昼間と夜で木材の伸び縮みが起きるんですね。」
「それで音が。」
ガルも廊下を見回す。
「床鳴りと通路が重なって足音に聞こえた。」
悠人は胸をなで下ろした。
ようやく原因が見えた。
事故物件ではない。
建物の構造が生み出した現象だったのだ。
「これで売れますね!」
リリが嬉しそうに笑う。
だが。
レオンは腕を組んだままだった。
「待て。」
「足跡は?」
部屋の空気が止まる。
そうだった。
音の原因は分かった。
しかし、新しい足跡は説明できない。
しかも木箱は最近動かされた形跡がある。
「誰かがここへ入ったのは事実だ。」
ガルが静かに言う。
「その理由を確認する。」
悠人は木箱の中をもう一度調べた。
杖。
修繕道具。
そして箱の底に、一枚だけ折り畳まれた紙が挟まっていた。
「これは……。」
ゆっくり開く。
そこには短く一文だけ書かれていた。
『家は売ってくれ。だが、この通路だけは壊さないでほしい。』
アルベルト本人の筆跡だった。
「どういう意味でしょう。」
悠人は首をかしげる。
通路を残してほしい理由が書かれていない。
ただ、それだけが最後の願いのように記されていた。
ガルは少し考え、静かに口を開く。
「依頼人に聞こう。」
「まずは家族の話だ。」
不動産の仕事は建物だけを見るものではない。
そこに暮らした人の想いも、大切な情報だった。
悠人は改めて、その仕事の重みを感じるのだった。
悠人たちは木箱を元の場所へ戻し、通路をゆっくりと引き返した。
二階の廊下へ出ると、待っていたエマが駆け寄ってくる。
「大丈夫でしたか?」
「はい。」
悠人は笑顔で頷いた。
「少しお話を伺ってもいいですか。」
「もちろんです。」
全員で一階の居間へ移動する。
エマがお茶を淹れ直し、静かな時間が流れた。
ガルはテーブルへ手帳を置く。
「これは、お父様の物ですね。」
エマは目を見開いた。
「その手帳……。」
「まだ残っていたんですね。」
懐かしそうに手に取り、そっと表紙を撫でる。
「父は何でも記録する人でした。」
「庭の花が咲いた日まで書いていたくらいです。」
リリが思わず笑う。
「すごく真面目な方だったんですね。」
「はい。」
エマも少し笑った。
「頑固でしたけど。」
部屋の空気が少し和らぐ。
悠人は折り畳まれていた紙を差し出した。
「この文章に心当たりはありますか?」
エマは読み終えると、静かに目を伏せた。
「……やっぱり。」
「ご存じだったんですか?」
「少しだけ。」
エマはゆっくり話し始めた。
「父はこの家を建てた大工さんと仲が良かったんです。」
「点検用通路も、その人の提案で作ったと聞いています。」
「珍しい造りなんですね。」
ミリアが尋ねる。
「ええ。」
「父は『家も人と同じで、手入れできるようにしておくことが大切だ』って。」
ガルが小さく頷く。
「いい考え方だ。」
建物は建てて終わりではない。
何十年も住み続けるためには、修繕できる造りであることも重要だ。
「だから通路を残してほしかったんですね。」
悠人が納得する。
エマは笑顔で頷いた。
「父らしいお願いです。」
これで一つの疑問は解けた。
だが、まだ残るものがある。
「足跡です。」
レオンが真顔に戻る。
「最近ここへ誰かが入った。」
「心当たりは?」
エマは少し考え、首を横へ振った。
「ありません。」
「親戚も鍵は持っていません。」
ガルは立ち上がり、部屋を見渡す。
「この件はもう少し調べる。」
「売却は、そのあとでも遅くない。」
「はい。」
エマも安心したようだった。
「原因が全部分からないまま売るのは、父も望まないと思います。」
悠人は営業として頷く。
「私たちも同じ考えです。」
「安心して住める家を、次の人へ引き継ぎたい。」
それが異世界不動産の仕事だった。
屋敷を出る頃には、夕日が街並みを赤く染めていた。
帰り道。
リリが大きく伸びをする。
「今日は幽霊じゃなくてよかったですね!」
「まだ決まったわけじゃないぞ。」
レオンが笑う。
「足跡の主は見つかってない。」
「そうでした……。」
リリは少し肩を落とす。
悠人は振り返り、屋敷をもう一度見上げた。
夕日に照らされた家は、不気味さよりも温かさを感じさせる。
大切に住まれ、大切に守られてきた家。
だからこそ、この家にふさわしい新しい住人を見つけたい。
そんなことを考えながら歩き始めた、その時だった。
屋敷の二階の窓に――
一瞬だけ、人影が映った。
悠人は思わず立ち止まる。
「……今。」
「どうした?」
レオンが振り返る。
もう窓には誰もいない。
見間違いだったのか。
それとも――。
悠人は小さく息を吐いた。
「いや。」
「気のせいかもしれません。」
そう答えたものの、胸の奥には小さな違和感が残り続けていた。
その違和感が、数日後に再び彼らをこの屋敷へ導くことになるとは、まだ誰も知らなかった。




