第28話 店長の指示
王都の空を覆う黒い亀裂は、見る者すべてに本能的な恐怖を与えていた。
昼だというのに空は薄暗い。
太陽はまだ出ているはずなのに、黒い傷口のような亀裂が光を歪めているせいで街全体が不気味な色に染まっていた。
通りには避難を急ぐ市民たちが溢れている。
泣き叫ぶ子供。
荷物を抱えて走る商人。
必死に人々を誘導する騎士たち。
先ほどまで普通の日常が流れていた王都は、わずか数十分で戦場へ変わってしまった。
異世界不動産の前でも混乱が続いていた。
悠人は店の入口から通りを見渡しながら眉をひそめる。
百メートルほど先では黒い煙が上がっている。
さらに遠くでは爆発音も聞こえた。
嫌でも現実を理解させられる。
今起きているのは事件ではない。
災害だ。
それも王都全体を巻き込む規模の。
「悠人!」
店の奥から声が飛ぶ。
振り返るとガルがいた。
店長である。
いつものように腕を組んでいるが、その表情は明らかに険しかった。
「何だ」
「外の状況は」
「最悪」
悠人は即答した。
「避難は始まってる。でも騎士の数が足りてない」
ガルは短く頷く。
予想通りという顔だった。
その横ではミリアが大量の書類を箱へ詰めている。
契約書。
顧客台帳。
物件情報。
店にとって重要な資料ばかりだ。
「ミリア」
ガルが呼ぶ。
「進んでるか」
「八割ほどです」
ミリアは手を止めずに答えた。
「あと十分ください」
「急げ」
「分かってます」
いつも冷静な彼女だが、さすがに少し焦っているようだった。
その近くではリリが必死に机を片付けている。
「店長!」
「何だ」
「これどこに運べばいいですか!?」
「地下倉庫だ!」
「はい!」
慌てて走っていく。
その途中で転びそうになる。
だが立て直してまた走る。
そんな姿を見て悠人は少しだけ苦笑した。
怖いはずだ。
本当なら泣いていてもおかしくない。
それでも店のために動いている。
見習いとは思えない頑張りだった。
「成長したな」
思わず呟く。
「誰がだ」
隣から声がした。
レオンである。
なぜか店のソファに座りながらパンを食べていた。
「お前何してる」
「昼飯」
「今か?」
「今だ」
全くブレない。
王都が危機でもマイペースだった。
「お前な……」
「腹減って戦えるか?」
それを言われると反論しづらい。
実際レオンは昔からそうだった。
どんな状況でも食事だけは欠かさない。
以前、大型魔獣の討伐依頼の時ですら弁当を持参していた男だ。
「で?」
レオンはパンを食べ終えながら聞いた。
「どうするんだ」
「何が」
「空だよ」
悠人も窓の外を見る。
黒い亀裂はさらに広がっているように見えた。
気のせいではないだろう。
あれは確実に大きくなっている。
胸の奥がざわつく。
地下都市で見た映像。
崩壊した世界。
初代の言葉。
全部が頭をよぎる。
だが。
「知らん」
悠人は答えた。
「知らん?」
レオンが笑う。
「知らん」
もう一度言う。
「俺は不動産屋だ」
「それはそう」
「空の修理は専門外だ」
レオンが吹き出した。
こんな状況でも笑える辺り、この男も大概である。
すると入口のドアが勢いよく開いた。
騎士だった。
まだ若い。
息を切らしている。
「異世界不動産で間違いないか!?」
「そうだが」
ガルが前へ出る。
騎士は安堵したような顔になった。
「助かった!」
「何だ」
「避難所が足りません!」
店内が静まる。
ガルと悠人は顔を見合わせた。
なるほど。
そういう話か。
王都には大勢の人間が住んでいる。
急な避難で全員を収容できる場所など限られている。
「使える建物は?」
ガルが聞く。
騎士は紙を広げた。
「学校は満員です」
「教会は?」
「埋まりました」
「集会所は」
「こちらも」
ガルが顎へ手を当てる。
その横で悠人は紙を覗き込んだ。
そして。
「あ」
声を漏らす。
全員が振り返る。
「どうした」
ガルが聞く。
悠人は地図の一点を指差した。
王都南区。
そこにある大きな建物。
「旧商業ギルド本部」
騎士が目を瞬く。
「使えるのか?」
「使える」
悠人は即答した。
「三年前に移転して空き物件になった」
広い。
頑丈。
立地も良い。
避難所としては理想的だ。
「他には?」
ガルが聞く。
悠人はさらに地図を指差した。
次々と。
倉庫。
空き店舗。
使われていない宿。
貸し出し前の大型施設。
頭の中には王都中の物件情報が入っている。
それが営業担当としての仕事だからだ。
騎士の目がどんどん大きくなる。
「まだあるのか」
「ある」
「全部把握してるのか」
「仕事だからな」
悠人は肩をすくめた。
空は割れている。
化け物も降ってきている。
世界の危機かもしれない。
それでも。
自分の仕事は変わらない。
人が住む場所を探すこと。
必要なら用意すること。
それが異世界不動産の仕事だった。
ガルがニヤリと笑う。
久しぶりに店長らしい顔だった。
「聞いたか」
騎士へ向かって言う。
「うちの営業は優秀だぞ」
「今言うか?」
悠人が呆れる。
しかし騎士は真剣だった。
「本当に助かる」
深々と頭を下げる。
その姿を見て悠人は少しだけ胸を張った。
空は直せない。
化け物の正体も分からない。
だが。
避難所なら用意できる。
不動産屋だから。
そしてその時だった。
店の奥。
誰も触れていないはずの古代地図が、淡い光を放った。
誰よりも先に気付いたのはノアだった。
ソファの背もたれに座っていた少女は、珍しく笑みを消して地図を見つめる。
「……始まった」
小さな呟き。
しかしその声には、今までにない緊張が混じっていた。
「……始まった」
ノアの呟きに、その場の全員が反応したわけではなかった。
ガルは騎士と避難所の打ち合わせを続けている。
ミリアは契約書や顧客台帳を箱へ詰める作業を止めない。
リリも地下倉庫と事務所を何度も往復していた。
だが悠人だけは聞き逃さなかった。
聞き慣れた声だったからだ。
普段なら面倒そうにしているか、適当な冗談を言っているかのどちらか。
そんなノアが真面目な声を出す時は、大抵ろくでもないことが起きる。
「何が始まったんだ」
悠人が聞く。
ノアはすぐには答えない。
店の奥に置かれた古代地図を見つめていた。
地下都市から持ち帰った地図。
セレスやアリシアが調べていたあの地図だ。
薄く光っている。
まるで何かに反応するように。
「見て」
ノアが指差す。
悠人が近付く。
そこには今までなかった線が浮かび上がっていた。
王都を中心に広がる光の線。
さらにその外側へ伸びている。
街道。
山脈。
海岸線。
そして王国の境界線付近。
まるで地図そのものが生きているかのようだった。
「また増えたのか」
悠人は顔をしかめる。
最近こんなのばかりだ。
古代地図は勝手に文字を増やすし、地下都市は突然動き出すし、空は割れる。
不動産屋になってからの方が人生がおかしい。
「増えたというより」
ノアは目を細める。
「起動した」
その言葉に悠人は嫌な予感を覚えた。
起動。
つまり今までは停止状態だったということになる。
「何の地図なんだ」
「観測網」
「分からん」
「私も全部は知らない」
ノアは珍しく素直に認めた。
地下都市のことも。
初代のことも。
ノアは全てを知っているわけではない。
それでも今までの反応を見る限り、誰よりも多くを知っているのは間違いなかった。
その時だった。
ガルがこちらへやって来る。
「悠人」
「何だ」
「南区へ行くぞ」
「避難所か」
「ああ」
ガルは地図を広げる。
先ほど悠人が提案した旧商業ギルド本部。
あそこを避難所として開放することが決まったらしい。
決断が早い。
さすが非常時である。
「騎士団だけじゃ手が足りん」
ガルは言った。
「うちも動く」
悠人は頷く。
当然だ。
自分たちが管理していた物件なのだから。
「レオン」
「おう」
「お前も来い」
「はいはい」
返事は軽い。
だが立ち上がる動きは早かった。
いつもの飄々とした態度とは違う。
こういう時のレオンは頼りになる。
ミリアも近付いてくる。
「私は?」
「店を頼む」
ガルが言う。
「顧客名簿と契約書は絶対に守れ」
「了解です」
ミリアは真剣な顔で頷いた。
契約情報は財産だ。
店が潰れても再建できる。
だが顧客情報が失われれば信頼まで失う。
彼女もそれを理解している。
「リリ」
「は、はい!」
「ミリアの補助だ」
「頑張ります!」
緊張しているのが丸分かりだった。
それでも逃げ出さない。
立派なものだと悠人は思う。
最初に会った頃のリリなら、今頃泣いていたかもしれない。
ノアはというと。
勝手に玄関へ向かっていた。
「どこ行く」
悠人が聞く。
「ついていく」
「聞いてない」
「今言った」
いつも通りだった。
少しだけ安心する。
さっきまで妙に深刻な顔をしていたので、余計に。
そんなやり取りをしていると、再び爆発音が響いた。
窓が震える。
遠くではない。
かなり近い。
全員の表情が引き締まる。
「急ぐぞ」
ガルが言った。
店長の声だった。
その一言で空気が変わる。
悠人は改めて思う。
ガルは普段こそ適当だが、こういう時は誰よりも頼りになる。
異世界不動産の店長は伊達ではない。
店の外へ出る。
王都の空気はさらに重くなっていた。
避難する人々。
走り回る騎士。
煙。
悲鳴。
そして空。
黒い亀裂はさらに広がっている。
まるで世界そのものに刻まれた傷跡のようだった。
「見ろ」
レオンが空を指差した。
悠人も見上げる。
亀裂の周囲に光が集まっている。
嫌な光景だった。
誰が見ても分かる。
何かが起きる。
そして次の瞬間。
空が鳴った。
雷ではない。
爆発でもない。
巨大な鐘のような音。
世界全体へ響くような音だった。
ゴォォォォン――。
空気が震える。
地面が揺れる。
避難していた人々が立ち止まる。
騎士たちも空を見上げる。
王都中が静まり返った。
その音の後。
亀裂の中心から巨大な光の柱が降り注ぐ。
王都ではない。
さらに遠く。
王国の北方だった。
地平線の向こう。
遥か彼方。
それでも見えるほど巨大な光。
ガルの顔が険しくなる。
ノアは無言。
レオンも笑っていなかった。
「北だな」
ガルが呟く。
「カイルのいる方角か」
悠人も思い出す。
北方の封印。
壊れた遺跡。
そしてカイル。
嫌な予感しかしない。
その時。
悠人の胸の紋様が再び熱を持った。
今までよりも強く。
まるで北の光へ呼ばれているように。
そして誰にも聞こえない声が脳裏に響く。
『第一観測者』
初代の声だった。
『時間切れだ』
悠人の背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
空の亀裂。
北方の光。
終末観測計画。
バラバラだったはずの出来事が、少しずつ一つに繋がり始めていた。
そして悠人はまだ知らない。
北方で起きたその異変が、王都の混乱すら前座だったことを。




