79話 基礎攻撃魔法の特訓
地下訓練施設。
ひんやりとした空気と、床に描かれた幾何学模様の魔法陣は、あの日から変わっていない。
違うのは、ハルトの右手首に、もうあの腕時計がないことだけだった。
「時計、なくなっちゃったから……なんか、変な感じがするよ。手首が軽いっていうか」
「その代わりに、これから鍛えるものがあります」
訓練着姿のヒマリが、迷いのない声で言った。
そらと戦ったあの夜以来、彼女の目には、これまでにない張り詰めた色が宿っている。
「今日から、攻撃魔法の基礎訓練に入ります」
「攻撃……魔法」
「はい。石を浮かせること。時間を遅らせること。ハルト君はこれまで、間接的な魔法しか使ってきませんでした。ですが」
ヒマリは一度言葉を切り、まっすぐにハルトを見据えた。
「そらとの戦いで、あなたは何もできなかった。……いえ、これは責めているわけではありません。単純な事実として、です」
図星を突かれ、ハルトは奥歯を噛んだ。あの夜、電柱の陰で拳を握りしめることしかできなかった自分の姿が、まだ鮮明に焼き付いている。
「攻撃は、最大の防御です。守るための力を持たない者は、結局、誰かの後ろに隠れることしかできません」
「……うん。わかってる」
「ただし」
ヒマリは、ホワイトボード代わりの黒板に、簡単な図を描き始めた。
「あなたが魔法を始めてから、まだ二か月です。いきなり複雑な攻撃魔法を求めるつもりはありません。まずは、誰もが最初に習得する、基礎中の基礎――ただ一直線に、力をぶつけるだけの魔法を覚えてもらいます」
「一直線に……力を、ぶつける」
「そうです。応用も装飾もいらない。ただ、まっすぐに。それができて初めて、次の段階に進めます」
ヒマリは黒板に、一本の直線を描いた。
「イメージの根本原理は、石を浮かせた時と同じです。明確に、迷いなく思い描いたものだけが、力になる」
ハルトは、右手のひらを見つめた。
何もない、ただの手のひら。
時計も、頼れる道具も、もうそこにはない。
(一直線に……力を、ぶつける……)
脳裏に浮かんだのは、駅のホームから見た、まっすぐに伸びていく線路だった。
分岐も、迂回もない。ただ、始発駅から終着駅まで、一切の寄り道なく突き進む、1本の列車。
遅れも、逸れもしない。
定刻通りに、まっすぐに、目的地まで。
まるで特急列車のようだと、ハルトは感じた。
「……直通特急に……乗せる感じ」
無意識に、そう呟いていた。
ハルトは小さく息を吐く。
ヒマリは、首を横に傾けた。
「いや、なんでもない。……先輩、やってみます」
ハルトは大きく息を吸い、掌を魔法陣の中心――設置された的の方へと向けた。
目を閉じ、思い描く。
線路の上をひた走る、一本の光。迷いなく、まっすぐに、目的地だけを見据えて進む力。
パチン、と何かが弾ける感触が、掌に走った。
「――!」
目を開けると、掌の中心に、小さな青白い光の粒が生まれていた。
それは頼りなく揺らめきながら、糸のように細い光条となって、的に向かってわずか数十センチ、力なく飛んで、地面に落ちた。
「……これだけ?」
思わず、拍子抜けした声が漏れる。
「上出来です」
だが、ヒマリの声には、皮肉の色は一切なかった。
「初めての攻撃魔法で、明確な形を保ったまま発現させられただけでも、十分すぎるほどの成果です。石を浮かせるまでに、あなたは二週間かかった。今のは、一度で成功しています」
「……そう、なのかな」
「はい。……ただし」
ヒマリの表情が、すっと引き締まる。
「今の威力では、蟻一匹倒せません。ここから先は、繰り返しの積み重ねです。イメージの精度を上げ、込める魔力の量を上げ、発動までの速度を上げる。地道な作業ですが――」
ヒマリは、ハルトの目をまっすぐに見た。
「あなたなら、できます。時計に頼らず、二週間で石を浮かせてみせた、あなたなら」
その言葉に、ハルトは小さく笑った。
「先輩がそこまで言うなら、やるしかないよね」
「ええ。付き合いますよ、いつまでも」
前にも聞いた言葉だった。
だが、その響きは、今のハルトには、以前よりもずっと重く、そして温かく感じられた。
もう一度、掌を的へと向ける。
線路は、まだ短い。
それでも、まっすぐに、確かに、その先へと伸び始めていた。




