80話 記憶
地下訓練施設の重い扉を押し開けると、外はすっかり夜の帳が下りていた。
ヒマリは小さく息を吐き、凝り固まった首筋を軽く回す。
扉の向こうからは、まだくぐもった音が聞こえてくる。
パチン、パチン。
まだ頼りない、小さな光の弾ける音。
ハルトが、一人で繰り返している証だった。
「――お疲れ様です」
不意にかけられた声に、ヒマリは振り返った。
施設の入り口脇、街灯の明かりも届かない場所に、栗島アオイが静かに立っていた。
手には、風呂敷に包まれた四角い包みを提げている。
「アオイさん。……こんな時間に」
「ハルト君が、今日は帰りが遅くなると聞いたので。差し入れです」
二人は、施設の外に置かれたベンチに、少し距離を空けて腰を下ろした。
夜風が、街路樹の葉を揺らしている。
「ハルト君、今日は基礎の攻撃魔法を、初めて形にしました」
ヒマリが、報告するようにそう切り出した。
「そう、なんですね」
「まだ、蟻一匹倒せないくらいの威力です。それでも……あの子は、腕時計を失っても、立ち止まらなかった。それが、何より大事なことだと思っています」
アオイは、その言葉を噛みしめるように、しばらく黙っていた。
「私が知っているハルト君は、いつも……自分よりも、他人のことばかり考えている人でした。今も、変わっていないんですね」
「ええ。だから、危なっかしくて、目が離せません」
ヒマリは、小さく笑った。
だが、すぐにその笑みを引っ込め、真剣な声に戻す。
「アサのことも、聞かせてほしいです。あなたの目から見て、今の彼女は、どう見えますか」
「……無理を、しています」
アオイは、静かに答えた。
「弟さんが生きていたこと自体は、喜ぶべきことのはずです。でも、あの再会の仕方は、あまりにも残酷すぎた。アサさんは今、それを誰にも見せないように、一人で抱え込もうとしています」
「そうです……よね……」
ヒマリは目を伏せ、小さく頷いた。
自分もまた、似たようなやり方でしか痛みを処理できなかった時期があったからこそ、その言葉の重さが、痛いほどわかった。
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、ヒマリは、腹をくくったように口を開く。
「――アオイさん。一つ、聞いてもいいですか」
「……なんでしょうか」
「そらは、あの夜、あなたの流した情報を頼りに動いて、罠にはまりました。彼が、それを黙って見過ごすとは思えません。……もう、報告は行っていると考えるべきですよね」
アオイの手が、膝の上でわずかに強張った。
「……はい。恐らく、もう」
「だとしたら、あなたの立場は、もう」
「使えなくなった、ということです。情報源として」
アオイは、感情の起伏をほとんど見せないまま、淡々と言葉を継いだ。だが、その声には、隠しきれない硬さが滲んでいた。
「アキラ様――栗島の当主が、私をどう扱うか。正直、想像がつきません。ただ、一つだけ、はっきりわかっていることがあります」
「……それは?」
「私は、最初から、そのつもりで、あの家に置かれていたということです」
風が、一段と強く吹いた。
アオイは、膝の上の風呂敷の結び目を、指先でそっとなぞりながら続けた。
「秋津家に、私を『専属の使用人』として送り込んだのは、アキラ様です。……あれは、善意でも、何かの温情でもありませんでした。実の娘だからこそ、身内として信用され、疑われずに済む。ハルト君の家に潜り込ませ、情報を吸い上げるための、最初からそういう配置だったんです」
「……」
「うまくいっている間は、道具として使われる。使えなくなれば、それで終わり。多分、それだけのことです。私が栗島の家で育てられたことにも、大した意味なんて……最初から、なかったのかもしれません」
その声は、あくまで平静だった。
だが、平静であろうとすればするほど、その奥に隠しきれない何かが、ヒマリには見えてしまう気がした。
「今の私には、戻る場所も、これから行ける場所も、多分、どこにもありません」
そう言い切った瞬間だけ、アオイの表情から、初めて完全に「無表情」の仮面が剥がれ落ちた。
そこにあったのは、ただ、途方に暮れた一人の少女の顔だった。
ヒマリは、しばらく何も言わずに、その横顔を見つめていた。
同情でも、憐憫でもない。
ただ、目の前にいる人間の痛みを、真正面から受け止めようとする、静かな眼差しだった。
「――アオイさん」
「……はい」
「それを、ハルト君に、伝えてあげてください」
「……え?」
思いがけない言葉だったのだろう、アオイが初めて、戸惑ったように顔を上げた。
「今、私に話してくれたこと。行き場がないこと、最初から道具として扱われていたこと。全部、あなたの口から、ハルト君に伝えてほしいんです」
「……どうして、ですか。私が抱えている問題です。ハルト君を、これ以上巻き込むわけには」
「巻き込む、ではありません」
ヒマリは、静かに、しかしはっきりと言い切った。
「あの子は、行き場のない人間を、見て見ぬふりできるような性格じゃありません。あなたが黙って一人で抱え込んで、ある日突然いなくなる方が、よっぽど彼を傷つけます。……それに」
ヒマリは、少しだけ表情を和らげた。
「あなたは今、道具として使われるだけの人生しか知らないと思っている。だったら、一度くらい、自分の意思で、誰かに助けを求めてみてもいいんじゃないですか」
アオイは、しばらく言葉を失ったように、ヒマリの顔を見つめていた。
やがて、視線を落とし、風呂敷の包みを、ぎゅっと握りしめる。
「……考えて、みます」
「ええ。それで、十分です」
施設の扉の向こうからは、まだ、パチン、パチンと、頼りない光の音が響き続けていた。
その音に耳を傾けながら、ヒマリは、静かに立ち上がった。
「――差し入れ、いただきますね。ハルト君も、そろそろ休憩させないと」
「……はい」
夜風の中、二人は並んで、扉の方へと歩き出した。
「――どうぞ」
差し出された水筒の蓋を受け取り、ハルトは芝生の上にどさりと座り込んだ。
魔法陣の描かれた地下室から少し離れた、施設の裏手にある小さな中庭。
夜風が心地よく、火照った身体を冷ましていく。
隣に、アオイがそっと腰を下ろした。
いつもの定位置――少し距離を置いた場所ではなく、今日はやけに近い。
「アオイ? どうしたの、そんな近くに」
「……いえ。特に、理由はありません」
素っ気ない返事だったが、その声は、心なしかいつもより硬かった。
ハルトは水筒の水を一口飲み、何気なく夜空を見上げる。
アオイは、何か言いたげに口を開きかけては、また閉じる。
それを、もう三度は繰り返していた。
「……アオイ、何か、話でもあるの?」
「……」
問いかけに、アオイは答えなかった。
ただ、膝の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめている。
何かを、必死に言葉にしようとしている。
そんな気配だけが、痛いほど伝わってきた。
ハルトは、それ以上急かさずに、黙って隣に座り続けた。
やがて、その沈黙に耐えかねたわけでもなく、ただふと、脳裏に浮かんだことを、そのまま口にした。
「……なんか、こういう夜風に当たってると、たまに思い出すんだよね」
「……え?」
「子供の頃、宗介おじさんと、よく鉄道旅に出かけてたんだ。ローカル線に乗って、知らない駅で降りて、意味もなく時刻表を眺めたりしてさ」
ハルトは、膝を抱えるようにして、遠い目をした。
「その時さ。なんか……いつも、隣に誰かいた気がするんだよね」
「……」
アオイの肩が、ほんの僅かに、揺れた。
「あまり喋らない子でさ。でも、電車が走り出すたびに、目だけはすごくキラキラしてた。窓の外の景色を、食い入るように見てて。……名前も、顔も、正直、もうほとんど思い出せないんだけど」
ハルトは、自分でも不思議そうに、こめかみのあたりを軽く叩いた。
「なんでだろう。今日、こうやってアオイの隣にいたら、急にその時のこと、思い出しちゃって」
隣から、返事がない。
ハルトは気にせず、独り言のように続けた。
「昔のことだから、記憶もぼんやりしてるし、もしかしたら全部、僕の勘違いかもしれないんだけど……」
そこで、ハルトは少し照れくさそうに笑った。
「その子が、アオイだったらいいなぁって、思ったんだ。なんとなく、だけどね」
夜風が、二人の間を吹き抜けた。
隣を見ると、アオイは、じっとうつむいたまま、動かなくなっていた。
街灯の明かりに照らされたその横顔は、いつもの無表情ではなかった。
固く結んだ唇。震える睫毛。
握りしめた拳の上に、ぽつり、と小さな雫が落ちるのが、ハルトの目にも見えた。
「……アオイ?」
「……すみません」
絞り出すような、掠れた声だった。
「今は、まだ……うまく、答えられません」
その言葉の意味を、ハルトは正確には理解できなかった。
ただ、確信めいた何かが、胸の奥にすとんと落ちてくるのを感じた。
「……うん」
ハルトは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、隣で肩を震わせるアオイの背中に、そっと自分の上着をかけてやる。
「夏の夜は意外と寒いからね。……話したいことがあるなら、ゆっくりでいいよ」
アオイは何も答えなかった。
ただ、夜の中庭に、押し殺したような、小さな嗚咽だけが、静かに響き続けていた。




